イカタコ物語
イカとタコはどこかの星から地球を調査に来た宇宙生物だった。
そのことを僕はスーパーまるうめで買い物をしているときに知った。
物価がどんどん上がっていく。僕には縁のない飛行機代や宿泊費などの旅行費用、高級なブランドの服や靴や鞄、酒やたばこやコーヒーなんかの嗜好品、そんなものがいくら値上がりしてもかまわないが、普通の食料品の値上がりは困る。こんなんじゃ生きていけないよと思いながら、僕はまるうめのお魚コーナーを歩いていた。寿司や刺身なんて買えない。塩焼き用の鯛や煮物用のメバルも買えない。脂の乗った美味しそうな秋鮭も。サンマも不漁がつづき高くなって買えなくなった。ノルウェー産の鯖もずいぶんと値上がりした。
僕は貧乏な学生で、叔父が営んでいる小さな印刷工場でアルバイトをしながら大学に通っている。父は料理人だったが、僕が幼い頃、繁華街で発生したビル火災に巻き込まれて亡くなった。その後は母ひとり子ひとりの家庭で育った。お母さんは学校給食センターで働き詰めに働いているが、給料は乏しい。ラーメン目高屋の醤油ラーメンがワンコインでなくなったり、まるうめの値札を見て顔面蒼白になったりする凄まじいばかりのここ数年のインフレで、僕と母は生きていくのがやっとになった。
学費を捻出できない。僕は2年生だが、大学をやめるしかないかな、と悩んでいた。でもちゃんと卒業しないとまともな就職口はないだろう。叔父の印刷会社は近年赤字続きで事業継続の危地に立たされている。僕を正社員として雇う余裕はない。くそっ。
お母さんはあんたはお金の心配なんかしないで勉強しなさいと言ってくれるが、痩せてやつれている。僕は1年以上魚を食べていない。肉も。たんぱく質を摂るために、卵だけは2日に1個食べるようにしている。野菜はもやしをメインとして、たまにキャベツを食べる。細く細く刻んでかさを増やし、ドレッシングなんて買えないから塩をかけて食べる。米も高騰してめったに炊かなくなってしまった。うちの主食は業務用スーパービッグエックスで買う格安のスパゲティだ。味付けは塩だ。母は給食センターに勤めているので、昼だけはまともな栄養の給食を食べている。その事実は僕の心を少しばかり軽くしている。
僕の昼飯は学生食堂でいちばん安いかけうどんであることが多い。そのかけうどん代ももったいないので、塩もやしスパゲティを弁当箱に入れて大学に持っていこうかと真剣に検討している。栄養バランスが致命的に偏っていることはわかっているが、偏りをなくすためのお金がない。今日明日生存するためのカロリーを摂取するのが先決問題なのだ。
ああ、たまには美味しいものを食べたい……。
「はあああ~」
スーパーまるうめのお魚コーナーで、僕はイカの刺身を見つめながら大きなため息をついた。お母さんはイカ刺しが大好きなのだ。せめて1年に1度、誕生日くらいはイカを食べさせてあげたい。母の誕生日は11月10日、あと1週間後だ。そんなことを思ったとき、奇妙に平板な声が聞こえてきた。
「イカよ、我らの調査は終わりつつある」
「タコよ、地球人の身体構造はほぼわかった。彼らは口から炭素化合物を摂取して、腸と呼ばれる消化器官で吸収して生きている。炭素化合物を細かく砕いて血液に混ぜ、心臓というポンプでからだの隅々にまで送っている。彼らは炭素化合物なくしては生きていけないのだ。地球から炭素化合物をなくしてしまえば、地球人は滅びる」
「イカよ、地球人の秘密はそれだけではない。彼らは鼻から酸素を取り入れ、肺と呼ばれる器官で吸収し、血液に溶け込ませた酸素を心臓を使って体内各所に送って生きている。彼らは酸素なくしては生きていけないのだ。地球から酸素をなくしてしまえば、地球人は滅びる」
「タコよ、我らは地球人の秘密を解明した」
お魚コーナーでそんな会話が聞こえてきたのだ。
イカとタコか。
お母さんの誕生日に買えるとよいのだけど、と僕は思った。でもどうせ手に入らないだろうな。給食センターでイカ料理をつくることになればうれしい。そうなれば母も食べることができる。イカの姿焼きとか。そんなメニューはないか……。
そして僕は声がした方に目を向け、びっくりした。
イカとタコが会話していたからだ。生きているイカとタコがパック寿司のプラスチックケースの上に乗って、口をパクパクと開けたり閉めたりして日本語で話していた。
イカは10本の足を使って直立していた。ぎょろりとした2個の目玉を相対しているタコに向け、足の付け根にある口を動かしていた。胴体はピンと立っていて、きわめて透明度が高かった。ゆらゆらと揺れるひれも透けている。体長は50センチくらいあった。
タコも8本の足で直立している。しょぼしょぼした目をイカに向け、やはり足の付け根にある口を開閉している。胴体は絶えず横揺れして、落ち着きがなかった。背後にあるスーパーの厨房の窓が透けて見えるほど透明で、体長は60センチくらい。むっちりと太っていて、細長いイカの倍以上の体積がありそうだ。
そのイカとタコが話しつづけている。
「イカよ、だが我らも炭素化合物と酸素を摂取して生きている。地球からそれらをなくしてしまったら、我らも困るのだ。地球人を滅ぼした後、イカタコの楽園をつくるためには、炭素化合物と酸素は必要だ」
「タコよ、確かにそうだ。別の侵略方法を考えなければ。母星から強力な兵器を取り寄せねばならんかな」
「地球を消し去ってしまうような宇宙戦争的な武器は困るぞ。地球人だけを滅ぼし、この美しい星を無傷で手に入れねばならん」
「意外とむずかしいな」
「けっこうむずかしい」
イカとタコはその多数の足のうち2本を巻き合わせて考え込み、沈黙した。
僕はパック寿司の上で直立して悩むイカとタコを眺めていた。
なんなんだこのイカタコは。僕は人語を話すイカタコを見ている。明らかに新種のイカタコを。それともこれは幻視幻聴なのだろうか。
でもスーパーのショッピングバスケットを持って買い物をしていた中年の女の人もぎょっとしたようにイカタコを見て、引きつった顔のまま遠ざかっていった。気持ち悪いイカタコは確かに存在しているのだ。
僕は好奇心に負けて話しかけた。
「きみたち、イカとタコだよね。日本語が話せるんだね……」
イカとタコは目を点のようにして、僕を見た。そして顔を見合わせた。軟体動物の表情は僕にはわかりにくいが、彼らにはいくぶんか戸惑っているような雰囲気があった。
「イカよ、透明体になった我らを、この地球人は見えているようだぞ」
「タコよ、我らは地球人に食べられて、内部からその身体構造を調べていた。ほとんど解明し尽くしたと考えていた。だが、地球人にはまだ未知の部分があるようだ。これほどまでに感度の良い目を持っているとは。あるいは視覚ではない未知のセンサーを使っているのかもしれん」
イカとタコは僕の方を向いて、いくぶんか戦慄したような表情になって沈黙した。
鮮度のいいイカは透明だ。
アミダコという透明なタコがいるらしい。
このイカとタコも相当に透明度が高くて、ガラスのように透けている。
しかし全身が完璧に透明というわけではなく、眼球は黒いし、輪郭はおぼろげに見えている。
なによりもしっかりと声が聞こえているので、その存在は隠せていない。
僕以外の買い物客たちもイカとタコの会話に気づいて、ある人は驚き、またある人は怯えていた。
でも当のイカとタコは自分たちが完全に透明で見られておらず、気づかれていないと思っているようだ。少しバカなのかもしれない。
イカとタコは観念したようにいくぶんか表情を引き締めて、僕に向かって話し始めた。
「地球人よ、我らイカとタコは宇宙から来た調査隊なのだ。日本語はがんばって勉強して会得した」
「地球を侵略するため、この星を支配する地球人を調べている。我らは食べられても死なず、再びイカとタコに生まれ変わることができる。わざと地球人に食べられて体内に侵入し、おまえたちの身体構造を調べているのだ」
「ほとんど調査は終わり、母星へ帰ろうと思っていたのだが、まだ調べる必要があるようだ。おまえは透明体になっている我らに気づいた。おまえには高度な視覚か未知のセンサーがあるようだ」
「おまえは我らにはない超能力があるのかもしれん。だとしたら、我らはそれについても解明しなければならん。なんとしてでもおまえの体内に入って調査しなければならん」
「地球人よ、我らはおまえを調べたい。家に持ち帰り、我らを食べよ」
「おまえは謎の地球人だ。調べたい。我らを食べよ」
「我らを食べよ」
イカとタコは僕を見つめて、我らを食べよ、と連呼した。
食べろと言われてもなあ。スーパーにあるイカタコを買わずに食べるわけにはいかない。そしてイカやタコは概して値段が高く、僕には買うことができない。お魚コーナーでは魚介類美味しそうだなあと思ってなんとなく棚を見回していたが、まるうめには卵ともやしを買いに来ただけなのだ。
「イカもタコも値段が高いから、買えないよ」
「我らは売り物ではない」
「でも勝手に持って帰るわけにはいかないよ。きみたちを食べることは僕にはできない」
「いいから我らを食べよ」
「我らがいいと言っているのだ。我らを食べよ」
透明なイカとタコはパック寿司の上から移動し、僕の方へにじり寄ってきた。その多数の足をうねうねと動かして棚から下り、床を歩いて僕の足元に来て、さらにうねうねして僕の靴に触れた。
「ええ~っ?」
僕は仰天したが、イカとタコはそんなことはおかまいなしに僕の足を攀じ登り、胴体を這い、肩から腕へと進んで、僕が持っていたショッピングバスケットの中に入り込んだ。そしてそれっきりしゃべらずにぐったりと力を抜いて、バスケットの底に横たわって黙り込んだ。かごはかなり重くなった。
僕はどうしようと思いながらも、スーパーに来た当初の目的を達成するため、もやしと卵をバスケットに入れた。イカタコが入っているのとは別のかごを使った。ぬるぬるしているイカタコに接触させたくなかったからだ。
僕はふたつのバスケットを持って有人のレジへ行った。そこには30代半ばくらいの女の人が立っていた。彼女は歯を食いしばり、目をいっぱいに見開いて、透明度の高いイカタコが入った方のバスケットを凝視した。そして顔を真っ青にして目をそらした。
僕はレジ係の女性に「このイカとタコ、持ち帰ってもいいですか?」とたずねた。
彼女は僕とイカタコのやりとりを聞いていたようだった。
「いいと思う。その気持ちの悪いイカとタコでよければ、さっさと持って帰ってほしい。怖いよ、日本語をしゃべるイカとタコ」
「いいんですね」
「値札はついていない。値段を読み取るためのバーコードもない。お金はいらないと思う」
「念のために店長さんとかに訊かなくてもいいですか?」
女性はぶるぶると震え、狭いレジスペースの中で一歩あとずさった。
「店長ーっ! 来てくださいーっ!」と彼女は大声で叫んだ。
その絶叫はまるうめの出入口から従業員控室にまで聞こえたのではないかと思う。たったったっという小走りの足音がして、背の高いくたびれた顔をした初老の男性がレジにやってきた。その人は僕のお母さんよりもやつれた顔をして、本当に疲れきっているという感じだった。いまにも倒れそうだ。
「今度はどんなトラブルですか?」と店長は言った。
「しゃべるイカとタコがいて、このお客さんのかごの中に入っているんです。値札もバーコードもありません。持ち帰ってもらっていいですか?」とレジ係は訊いた。
「なにを言ってるんですか、しゃべるイカとタコだって?」
僕はショッピングバスケットを店長に向かって差し出した。
「ここにいるんですよ」
店長はかごの中をのぞき込んだ。ぐんにゃりとしていたイカタコがもぞもぞと動いて、10本と8本の足を伸ばし、彼らは再び直立した。
「我はイカであってイカではない。おまえたち地球人から見て言えば、宇宙人だ」
「我もタコであってタコではない。イカタコの星から来た宇宙人だ」
「ひいーっ」
店長は腰を抜かした。
「こんなのはうちの商品じゃない。持ち帰りたいお客さんがいるなら、持ち帰ってもらってくれ」
彼はお尻を床につけたままじりじりと後退した。
僕はレジでもやしと卵の代金を支払い、エコバッグに入れた。ふだんは買わないスーパーのレジ袋代も払った。バスケットで直立しているイカタコに「この袋に入ってくれる?」と告げたら、彼らは自主的にレジ袋の中に移動した。店長とレジ係の女性はガタガタと身を震わせながら、イカタコがうにょうにょと動いて袋に入るのを見つめていた。
僕はエコバッグとレジ袋を持って、スーパーまるうめから自宅に向かった。
「どうしてイカタコの星から地球くんだりまで来たの?」と僕はレジ袋の中で丸まっているイカタコにたずねた。
「我らの星はまもなく滅びる。太陽が赤色巨星化の段階に達しようとしているのだ。母星の海はやがて干上がり、さらには赤黒い太陽に飲み込まれることになる」
「地球はいい星だ。地球人にはもったいない。地球人を滅ぼして第2のイカタコの星にしてやる」
地球は大変な危機に瀕しているようだ。それともちょっとまぬけそうなこの侵略者たちはたいした脅威ではなく、放っておいていいのだろうか。僕にはよくわからない。僕にとって問題なのは今日明日の食費であり、インフレであり、大学に在学しつづけることができるかどうかだった。イカタコによる地球侵略なんてたいそうなレベルの問題は、高い地位にいる大人たちに対応してもらうしかない。
「本当にきみたちを食べていいの? 死んじゃうよ?」
「我らは食べられても死なないと言ったはずだ。我らの本質は微細な亜粒子であり、地球人には消化しきれないのだ。亜粒子になった我らを腸から吸収するがよい。我らはおまえの体内の隅々にまで行って、おまえを調査する」
「おまえの脳や目に特に興味がある。調査してやる」
「じゃあ料理しちゃうよ。ちなみにきみらを食べてもお腹を壊したりはしないよね?」
「イカはうまいぞ。腹を壊すこともない」
「タコもうまいぞ。亜粒子に害はない。そして我らはいずれ汗と小便と糞に混じって外に出る」
僕にとって大切なのは、今日の食卓を豊かにすることであり、お母さんに喜んでもらうことだ。
僕らの太陽は赤色巨星化することなく、空を茜色に染めて、家並みの向こうに沈んでいこうとしていた。
築30年の木造アパートの2階が僕と母の住処だ。うちに帰って、僕は久しぶりにお米をといだ。イカタコがおかずだから、スパゲティではなくごはんを食べたいじゃないか。
そして僕はイカタコをまな板の上に乗せた。彼らは直立することなく、おとなしく横たわっていた。まだ透明感があって、新鮮そのものだ。生きている。僕は包丁で容赦なく切った。イカとタコはどちらも少しだけ痙攣して果てた。
というわけで、今夜の食卓にはイカタコの料理が乗っている。
イカとタコの刺身、イカゲソの塩焼き、イカリングの唐揚げ。茹でたタコの足はもやしと合わせてポン酢であえた。たまには塩以外でも味付けしたいじゃないか。
帰宅したお母さんはその料理を見て、ぱっと花のような笑顔になった。
「どうしたのよ、このごちそう! 誕生日でもないし、クリスマスでもない。いったい全体どうなってるの?」
「イカとタコが大安売りしていたんだよ。たまには贅沢したっていいでしょう?」
「もちろんいいわよ。明日は牛肉を買ったっていいのよ」
お母さんはそう言ったが、僕は絶対に牛肉を買ったりしないだろう。このイカとタコだって買ったわけではないが、真相を母に言うつもりはない。言ったって笑い飛ばされるだけだろう。
「美味しいわね、イカもタコも。イカ刺し甘ぁーい! やっぱりイカは最高ね」
彼女は喜んでいた。母が笑顔になって、僕もうれしかった。
別にイカとタコに身体構造を調べられたってかまわない。今日美味しいイカタコが食べられるなら、明日がどうなったっていい。母と僕は、明日生きられるかどうかわからないほど貧乏なのだ。お母さんの預金残高は消え入りそうなほど少なく、財布の中身は浮きあがりそうなほど軽いのだ。いつだって。
僕はイカとタコを嚙みしめた。
美味しかった。ごちそうさま。




