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私を『妹』と呼ぶ彼を愛していた。

作者: 秋月アムリ

 私が「お兄様」と呼ぶたびに、彼はいつも優しく振り返ってくれた。


 陽光に透ける柔らかな金色の髪。涼やかな切れ長の瞳。少しだけ困ったように細められる目元は、私だけが見てきた特権だと思っていた。


 私たちに血の繋がりはない。彼の家は公爵家、私の家は侯爵家。共に王都に広大な敷地を持つ邸宅を構え、その庭を隔てる生垣の向こうに、彼の屋敷の尖塔がいつも見えた。


 幼い頃から、私たちはその生垣を秘密の抜け道で往来し、本当の兄妹のように過ごしてきた。物心ついた頃から彼の隣が私の定位置で、休日の午後は彼のお屋敷の書斎で隣り合って本を読んだり、私の屋敷の庭園で新しい花を摘んで見せ合ったりした。


 両親も、彼の両親も、当たり前のように私たちを「兄妹」と呼び、そう扱った。それが世界のすべてで、それが永遠に続くのだと、疑うことさえなかった。


 けれど、いつからだろう。

「妹」として向けられるその優しい眼差しに、胸の奥が締め付けられるようになったのは。

「妹」として頭を撫でられるたびに、ただの家族ではない、もっと深く、もっと熱い感情を求めてしまうようになったのは。


 それは、私が初めて社交界に顔を出した、十五歳の春だったかもしれない。


 色とりどりのドレスを纏った貴族令嬢たちが、きらきらと輝く笑顔で彼を取り囲む姿を見た時。彼が、彼女たちの他愛ないおしゃべりに、私に見せるのと同じ、あるいはそれ以上の柔らかな笑みを返しているのを見た時。胸の奥に、これまで感じたことのない、ちりちりとした痛みが広がった。


「お兄様、あの方たちは?」


 好奇心を装って尋ねた私に、彼は屈託なく答えた。


「ああ、グラーレ公爵家のご令嬢たちだよ。プリムも早く馴染めるといいな」


 その言葉に、私は彼にとっての「ご令嬢」たちと「妹」である私の間に、決して超えられない壁があることを、漠然と悟った。


 それ以来、彼の隣で過ごす時間が、私にとって特別なものと同時に、胸を締め付ける苦しいものへと変わっていった。


 この頃から私は彼を「お兄様」と呼ぶのをやめていた。あなたを兄として見ているわけではない、という精一杯の主張だった。


 彼が私の誕生日を祝い、手の込んだ刺繍の施された手袋を贈ってくれた時。その温かい心遣いに感謝し、嬉しくてたまらなかったはずなのに、心のどこかで「これが恋人への贈り物だったら」と、叶わぬ夢を見てしまった。


 彼が剣術の稽古で汗を流す姿を見た時。鍛え上げられたしなやかな肉体、真剣な眼差し。そのすべてに惹きつけられながら、私はただの「妹」として、彼の頑張りを褒め称えることしかできなかった。


「プリム、見てくれ! 今日の訓練で、新しい技を覚えたんだ」


 そう言って、子供のように目を輝かせる彼に、私は「――様、すごい!」と無邪気に応えた。その声の裏で、どれだけ心が震えていたか、彼は知る由もない。


 私は彼を愛していた。


 彼が私を「妹」と呼ぶ、その声も。

 私を安心させるように、あるいは、私を縛り付けるように響く、そのひと言も。

 何もかも、すべて。


 この感情が露呈すれば、私たちが築き上げてきた温かく平穏な日々は、きっと脆くも崩れ去るだろう。そんな恐れが、私の唇を固く閉ざさせた。


 そして彼が二十歳になった年の春、王都の貴族たちの間で、彼に婚約の話が持ち上がっているという噂が囁かれ始めた。


 侯爵令嬢のセシリア様。隣国の大貴族の娘で、淑やかで、美しく、聡明で、彼にふさわしいと誰もが認める女性だった。


 その噂を聞くたびに、私の心臓は鉛のように重くなった。――いつかこうなると分かっていたはず。でも、こんなにも早く訪れるとは。


 ある日、彼が私の屋敷を訪ねてきた。いつものように庭園で紅茶を飲みながら、彼は少しばかり落ち着かない様子で口を開いた。


「プリム、聞いてほしいことがあるんだ」


 彼の声が、いつもより幾分か低く聞こえた。私は、来るべき言葉を予感し、思わずカップを握りしめた。


「……はい、――様」


「実は、俺、婚約することになったんだ。相手は、セシリア・オルテンシア侯爵令嬢だ」


 彼の言葉が、春のそよ風に乗って、私の心臓に直接突き刺さった。


「そう、ですか……」


 喉の奥が張り付いたように、声が出ない。


「うん。来週、うちの屋敷で顔合わせを兼ねた小さな茶会を開くんだ。プリムも来てくれるか?」


 彼は、私の顔をじっと見つめていた。その瞳は、私に婚約を報告したことへの期待と、少しの緊張を湛えているように見えた。私に対する「妹」としての親愛の情は、変わらずそこにあった。


 だからこそ、私は、この場で悲鳴を上げることも、涙を流すことも許されなかった。


「もちろん、伺います。――様、おめでとうございます」


 私は、精一杯の笑顔を作った。それは、この世で最も悲しい笑顔だったかもしれない。けれど、彼はそれに気づかず、「ありがとう、プリム」と、いつものように穏やかに笑った。



 約束の日。彼のお屋敷の広間は、華やかな飾り付けが施され、普段にも増して輝いていた。


 私は、地味にならない程度の、控えめなドレスを選んで身につけた。主役はあくまで、彼とセシリア様だ。


 彼の隣に立つセシリア様は、淡い青のドレスに身を包み、まるで絵画から抜け出してきたように美しかった。上品な佇まい、知的な微笑み。誰もが彼にふさわしいと頷くだろう。


「セシリア、こちらが私の大切な妹分、プリムだ。幼い頃から、本当の妹のように育ったんだ」


 彼がセシリア様に私を紹介する声は、いつもと変わらず優しかった。その「妹」という言葉が、胸の奥を鋭く切り裂く。


「初めまして、プリム様。彼から貴女のお話を伺っておりましたわ。本当に可愛らしいお方ですね」


 セシリア様もまた、私に慈しむような眼差しを向けてくれた。その目は、純粋に「妹」として私を見ている。何の悪意も、偽りもない。だからこそ、私は苦しかった。


「セシリア様、この度は誠におめでとうございます。お兄様(・・・)をどうぞよろしくお願いいたします」


 私は、精一杯の笑顔を作って、彼らの婚約を祝福した。心臓が痛むほど鼓動を打つ。その音を、誰にも聞かれたくなかった。


 披露宴の準備が着々と進む中、彼は私に頻繁にセシリア様との馴れ初めや、将来の夢について語って聞かせた。


「セシリアは本当に聡明で、どんな話も聞いてくれるんだ。それに、いつも俺を立ててくれる。最高の伴侶になるだろう」


 そう言って、彼が目を輝かせるたびに、私の心は少しずつ、しかし確実に削られていった。


 私は彼の隣で、彼の幸せを願う「妹」であり続けた。その笑顔の裏で、どれだけ心が震えていたか、彼は知る由もない。


 ある夜、私は自室の窓辺に立ち、生垣の向こうに見える彼の屋敷の明かりをじっと見つめた。


 あの明かりの向こうに、彼と、そして彼の未来の妻がいる。

 私には、彼の指一本触れることも、彼の心を独り占めすることも許されない。

 ただ、遠くから、彼の幸せを願うことしかできない。

 それが私の定めなのだと、自分に言い聞かせた。


 指輪を仕立てに彼がセシリア様を連れて行く日、彼は私を誘った。


「プリム、セシリアの指輪を選ぶのに付き合ってくれないか? 君の意見も聞きたいんだ」


 その言葉に、一瞬、心が折れそうになった。自分の恋が、目の前で形になるのを見る苦痛。

 だが、私は断れなかった。彼が私を必要としている、ただそれだけの理由で。


 宝石店で、彼はセシリア様と楽しそうに指輪を選んでいた。きらめく宝石を前に、幸せそうに微笑む二人の姿は、まるで絵画のようだった。


「プリムはどう思う?このデザインはセシリアに似合うだろうか?」


 彼は私に尋ねた。私は、精一杯の笑顔で答えた。


「はい、――様。とてもお似合いになると思います。セシリア様の指に、きっと美しく輝きますわ」


 その言葉は、私の心を千切るように響いた。


 彼は、私がこの指輪を選ぶ手伝いをすることで、どれほど心が痛むかなど、微塵も考えていない。

 彼にとって、私はただ、大切な「妹」として、彼の幸せを共に喜んでくれる存在なのだ。


 分かっていた。分かっていたはずなのに。

 胸の奥に、まだ燻っていたかもしれない微かな期待が、完全に消え去っていくのを感じた。


 私は、彼の幸せを心から願う。その気持ちに嘘はない。

 だが、その願いが、自分自身の幸福を犠牲にしていることも、また真実だった。


 店を出て、彼とセシリア様が楽しそうに腕を組んで歩いていく。私は少し離れた場所から、その背中を見つめた。



 そして、式の日が訪れた。


 王都の大聖堂は、色とりどりの花々で飾られ、祭壇には聖なる光が降り注ぐ。集まった貴族たちのきらびやかな衣装が、厳かながらも華やかな雰囲気を醸し出していた。


 私は、少し離れた参列者席に座っていた。地味にならない程度の、しかし主役の二人を引き立てるような、淡いラベンダー色のドレスを選んだ。この場所で、彼らの幸せを間近で見守ることが、私の最後の務めだと思った。


 オルガンと聖歌隊の厳かな調べが響き渡る中、扉が開き、セシリア様が父親に付き添われ、ゆっくりとバージンロードを歩き始めた。

 純白のウェディングドレスを身につけた彼女は、まるで絵画から抜け出してきたように神々しく美しい。顔を覆うヴェールの向こうに、幸せに輝く瞳が透けて見えるようだった。


 そして、祭壇の前でセシリア様を待つ彼の姿。凛とした装いに身を包み、堂々とした立ち姿は、まさにこの国の未来を担う公爵家の嫡男にふさわしい。その表情は、少し緊張しながらも、セシリア様を見つめる眼差しには、隠しきれないほどの愛情が溢れていた。


 彼がセシリア様の手を取り、静かに、しかし力強く誓いの言葉を述べる。


「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、妻を愛し、敬い、慈しむことを誓います」


 彼の低く響く声が、私の胸に直接突き刺さるようだった。心臓が、きゅっと締め付けられる。

 その瞬間、私の頭の中で、過去の彼の声が何度も繰り返された。


『プリムは俺の大切な妹だ』


『俺には君がいるから、安心だ』


 まるで、過去の思い出が、今の現実を突きつけ、私の愚かさを嘲笑うかのように。

 私は、ただ前を向き、彼らの誓いのキスを見つめる。唇を固く結び、感情の波が顔に出ないよう、懸命に堪えた。


 披露宴は、華やかに執り行われた。王都屈指の料理人たちが腕を振るい、吟遊詩人たちが愛の歌を奏でる。


 彼とセシリア様は、幸せそうに談笑し、参列者からの祝福の言葉に笑顔で応えていた。彼らの間に流れる空気は、私には決して踏み込めない、温かく満ち足りたものだった。


 社交の場で、彼はセシリア様の手を取り、優雅にワルツを踊った。その距離、その触れ合いは、私には許されないものだった。あの腕の中に、いつか私も収まることを夢見ていた時期があった。今となっては、それはただの、痛ましい幻想に過ぎない。


 披露宴の途中、彼が私の元へ歩み寄ってきた。


「プリム、どうした? 少し顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いのか?」


 いつもの優しい声。心配そうに細められる目元。その眼差しには、偽りなく私を気遣う気持ちが宿っていた。

 私は慌てて笑顔を作った。この日だけは、彼に心配をかけたくなかった。彼が、純粋にこの日を喜んでいられるように。


「いいえ、大丈夫です、――様。ただ、少し、感動してしまって……。お二人とも、本当に素敵ですわ」


 そう言うと、彼は満足そうに笑った。


「そうか。君も大きくなったな。いつか、君もこんな素敵な日を迎えるのだろう」


 彼はそう言って、私の頭を、いつものように優しく撫でた。


 その手が、あまりにも自然で、あまりにも「兄」のそれだったから。

 私の瞳の奥に滲んだ熱いものは、感動の涙に紛れて、誰にも気づかれることはなかった。


 彼の言葉は、私に向けられた最大の祝福であり、同時に、私の恋に対する最も残酷な宣告だった。彼は永遠に、私を「妹」としてしか見ない。


 そして、私が誰かと――彼ではない(・・・・・)誰かと「素敵な日」を迎えることを、純粋に願っているのだ。


 披露宴の終盤、彼とセシリア様が、参列者一人ひとりに感謝の言葉を伝えながらテーブルを回ってきた。


 私の番が来たとき、彼はセシリア様の手を取り、そして、自身の左手の薬指に嵌められた真新しい結婚指輪を見せてくれた。


「これからも、二人で力を合わせ、この国のために尽くしていくよ。プリムも、いつでも遊びに来てくれ。君はいつまでも、俺の大切な妹だからな」


 彼の指に嵌められた指輪は、光を受けてきらりと輝いた。


 その輝きが、私の心と、彼らの間に、永遠の境界線を引いた。

 私の愛は、決して届かない場所にある。


 私を「妹」と呼ぶ彼の声が、二度と私にとっての恋の始まりにはならないことを、その日、私は確かに悟ったのだ。


 屋敷へと戻る馬車の中で、私は窓の外を流れる王都の夜景をただ見つめていた。


 街中が、祝祭の光に包まれている。人々は皆、若い二人の結婚を喜び、未来に希望を抱いているだろう。


 私の秘めたる想いは、その祝福の光とは裏腹に、静かに闇へと葬り去られていくようだった。


 幼い頃から通い慣れた秘密の抜け道。生垣の向こうに見える彼の屋敷の明かりも、今夜はいつもとは違う輝きを放っているように感じられた。それは、彼らの新しい生活が始まった証であり、私の知らない未来へと彼が進んでいく兆しだった。


 きっと明日からも、彼は「妹」と私を呼ぶだろう。そして私は変わらぬ笑顔で、彼の幸せを願うだろう。

 だが、その笑顔の裏に隠された、深い悲しみと、諦念の炎は、誰にも知られることはない。


 私の恋は終わった。


 そして、この先、彼を愛し続けた記憶だけが、私の心の中で、永遠に輝き続けるのだろう。

 それは、誰にも奪えない、私だけの、密やかな宝物として。





 *





 ――それから、十年。


 月日は残酷なまでに、すべてを奪い去っていった。


 彼ら夫婦は、不慮の事故(・・・・・)で命を落とした。王都を襲った馬車の暴走事故。巻き込まれた馬車の中に、彼らの姿があったと報じられた。


 突然のことに、王宮も貴族社会も騒然とした。彼らはまだ若く、跡継ぎも授かっていなかった。嫡男以外の子のいなかった公爵家は、彼らの死と共に断絶の危機に瀕した。


 そして、彼の両親も、跡を追うように次々とこの世を去った。公爵夫妻の相次ぐ死は、深く悲しまれた。彼らは一人息子の死後、急激に衰弱し、床に伏せる日が増えていったらしい(・・・)

 私の両親も、彼らの訃報に心を痛め、私を気遣う様子を見せた。私の心に、深い静寂が訪れた。


 ああ、綺羅びやかだった隣の公爵邸は、すっかり寂れてしまった。


 美しかった庭園は手入れもされず荒れ果て、かつて輝いていた屋敷の窓は埃にまみれて鈍く光るだけ。

 王都の一等地だというのに、呪われていると噂され、誰も移り住もうとはしない。夜になると、漆黒の闇に沈むその屋敷は、まるで墓標のように佇んでいた。


 私は今、王宮で勤めている。彼がかつて夢見ていた、この国の未来を支える仕事だ。文官として、日々膨大な書類に目を通し、国の歴史や制度、公文書の管理に携わっている。


 その仕事の中で、私は自然に、違和感なく、彼の名前を削除している。


 過去の記録から、彼の名前を消し去る。公爵家の嫡男として、数々の功績や役割を記した書類。彼のサインが残された古い公文書。


 彼の名前を見つけるたびに、私は静かに、しかし確実に、その名を抹消していく。


 直接的に書き換えるのではなく、破棄された文書として分類し、新たな記録に彼の名を記さない。誰も疑問に思わない。ごく自然な事務作業の一部として、彼の存在が歴史の表舞台から消えていく。


 だが、記録だけではない。

 彼のことを知る人も、まだ存在した。


 例えば、彼に仕えていた老執事。長年公爵家を支え、彼の幼少期から成長を見守ってきた忠実な老僕。彼ならば、彼の名前を、その温かさを、その存在を、鮮明に記憶しているはずだった。


 その老執事は、彼ら夫妻の死後、悲嘆に暮れ、健康を害したと聞いた。私は、彼の屋敷へ見舞いの品を届けさせた。老執事の訃報は、数ヶ月後に届いた。病死と報じられた。


 学園時代の友人たち。特に親しかった数人の貴族子息子女は、彼の生前、活発な社交生活の中心だった。彼らは、王宮の会議で顔を合わせるたびに、彼の思い出を口にすることがあった。懐かしむような、惜しむような、そんな眼差しで。


 ある者は、遠く離れた辺境の要塞に転属となった。危険な蛮族の討伐隊に志願したと聞く。別の者は、新興貴族との縁談が急に持ち上がり、遠隔地へ嫁いでいった。


 私は、彼らの異動や縁談の書類に、静かに判を押した。すべて、正当な手続きを経た、何の不審もない人事だ。


 彼が通った学園の恩師。彼は、彼を「稀代の才を持つ者」と褒め称え、その夭折(ようせつ)を深く悼んでいた。公爵家の史料編纂にも携わっていたその老教授は、彼に関する詳細な手稿を執筆していると漏らしていた。


 だが残念なことに、その手稿は完成することはなかった。老教授は、研究室での火災に巻き込まれ、命を落とした。奇妙なことに、彼の研究室だけが、まるで選ばれたかのように激しく燃え上がったと報告された。


 王宮の書庫の奥深く、誰も踏み入らないような場所で、私は今日も彼に関する文書を整理する。古い貴族名簿、婚姻記録、功績書、彼が幼い頃に提出した学業報告書。


 その一枚一枚から、彼の名を消していくたびに、私の心には奇妙な充足感が広がっていく。


 あともう少し。もう少しで。

 この世界で、彼の名前を、声を、顔を知る者は、もう、私しかいなくなる。


 そうなったとき、彼の存在は、私の中だけで、永遠に生き続ける。

 そして、その記憶は、誰にも触れさせない、私だけの、密やかな宝物となるだろう。

 

 優しい声。温かな微笑み。そして揺るがぬ、まっすぐな瞳。

 すべてが、私の手の中に。


 それは、あの指輪などよりもずっと、ずっと強固な、永遠の愛の証だ。


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