第9話
結論から言えば。
父は7年前、つまり真菜と一緒に戻った平成11年の3年後、ガンで亡くなった。
10年前まで元気だったが、今にして思えば翌年くらいから少しずつ体力が衰えていた。本人は年齢のせいなどと言っていたが、その頃からガンが進行していたのだろう。最期の1か月間は急激に悪化し、苦しんだ時間は短かっただろうが、よく耐えていたと思う。
一方の母は亡くなっていない。私が中学生の時に突如として姿を消した。
置き手紙の類はなく、日頃から友人などに愚痴をこぼしていたようなこともない。子供心に家族仲は悪くなかった。父と喧嘩しているところを見たこともない。
だから、失踪の理由はわからなかった。周囲が憶測で“ラグビーのことしか考えていない夫に愛想を尽かしたから”と陰口を叩き、私も一時期、それを鵜呑みにして父を恨んでいた。何回か詰ったこともあったが、事実ではなかったらしい。父は言い訳もせず黙っていたが、胸中、穏やかではなかったろう。
父が言葉を続ける。
「真菜さんが失踪したことにすればいい。置き手紙を書いて自宅のポストに投函する。別れの手紙を残されて行方不明になれば、今のご主人も諦めるだろう」
父がやや視線を下げて続ける。
「母さんが失踪した時に調べたんだが、配偶者が失踪、言い換えれば行方不明になってから3年後には離婚が可能になる。7年経てば死亡したこととみなす『失踪宣告』という制度もある」
「それじゃあ真菜が死んだことなるじゃないか」
思わず眉間にしわが寄った。
「慌てるな」
父が視線を上げ、笑って返答。
「失踪宣告されたあとでも本人が生きていれば取り消しが可能だ」
「そうなんですか?」
真菜が聞く。
「ただし相続で厄介なことになる。あなたの財産を引き継いだご家族から財産を取り戻すことはできるが、お金が絡む話だから、返還するしないで揉めないとも限らない」
「それなら問題ありません」
父の説明に真菜がキッパリと答える。
「私に財産らしい財産はありません。両親ともに健在ですが、残せるものは何もありません。それに……」
真菜が私を見つめる。
「私がいなくなってから3年後に夫が離婚の手続きをしてくれれば、譲さんと一緒になれます。それだけで十分です」
「そうですか。譲をそこまで……」
父が嬉しそうに微笑む。
「わかりました。離婚については慰謝料が請求されるケースもあるようですが、今回は相手側に落ち度がある。そこを理由に失踪したと見なされれば、ご両親に金銭を請求することもないでしょう」
「それでしたら、恐らく父も母もわかってくれると思います。夫の素行を何度か相談してましたから」
「そうでしたか」
父がうなずく。
「話を聞く限り、真菜さんの今のご主人は決して良い男ではない。譲と一緒になったほうが幸せだろう」
「父さん……」
「お義父さん……」
私と真菜が思わず呟く。
「置き手紙を投函するぐらいは俺がやっておく。ちなみに、ご自宅の住所は?」
父が真菜を見る。
「夫の自宅は三鷹市下連雀、私の実家は上連雀です」
「大和さん、でしたね」
「いえ……」
真菜がうつむく。
「大和は旧姓です。結婚してからは鹿ケ谷です」
「鹿ケ谷? ご主人、医者だと仰いましたね」
「はい、そうですが」
父の質問に真菜が不思議そうに答える。
「間違えていたら恐縮ですが、公立がん医科治療センターに勤務していませんか?」
「そうです!」
真菜が驚いたように声をあげた。
「がん医治の勤務医です。もうすぐ副センター長になるって言ってました」
「なるほど。珍しい名前なのでもしやと思ったのですが、それなら好都合だ。置き手紙だけではなく、私からも直接、諦めるように言っておきますよ」
「知ってるの?」
今度は私が質問。
「あぁ。鹿ケ谷先生には月に1度くらい、診てもらっている」
「がん医治の医師に?」
「お前には黙ってたがな、俺、ガンなんだ」
父が寂し気に笑みを浮かべ、腹部を指さす。
「……え?」
父には黙っていたが、亡くなる半年前、私も医師からガンだと伝えられていた。
父から胃潰瘍で入院すると言われ、その準備を手伝い、帰ろうとしたところで担当医に呼び止められ、父が大腸がんだと聞かされた。
担当医からは「お父さんから黙っているように言われていたが、立場上、伝えないわけにはいかない」と告げられ、私も最期まで知らないふりを貫いたが、父がこんな早い段階でガンの治療をしていたのは本当に知らなかった。
「……そう、なんだ」
きっと、ガンだと知らなかった息子を演じていたほうがいいだろう。口ごもりながら、何とか答える。
「あぁ。今日も杏森大学の付属病院で検査してきた。あの喫茶店の近くだ」
三鷹と調布の市境から近いところにある大学病院。父が最期を迎える場所であり、私が担当医から秘密裏に父のガンを伝えられた場所。当然、この頃から父が通院していたとは思ってもみなかった。
「あの頃はお前が大学生だったからな、俺がガンだってことも、治療していることも、心配をかけたくなくて言えなかった。だが、今なら大人だから打ち明けても大丈夫だろう。大腸がんで、末期ではないが手術は難しいそうだ」
「そんな……」
真菜が両手を口に当てた。
「抗がん剤で進行を食い止めている。医者からは放射線治療も勧められているが、抗がん剤以上に副作用が大きすぎる。仕事を続ける元気もガンと戦う体力も奪われかねない。俺はそう判断している。もっとも」
父が再び、周りを見回した。
「俺はこの時代、生きてないだろうがな」
何も言えなかった。自分の死期まで悟っている相手に返答できるはずもない。
「それで週に1度は杏森大学に行っているが、それとは別に月に1度、がん医治でも診察してもらっている。そこの担当医が鹿ケ谷先生だ」
父が私へと視線を戻す。
「医者としては優秀らしいし、診察の時も人当たりのいい先生なんだか、そうか、そんな裏の顔があるのか」
父が小さくため息をつき、再び真菜を見る。優しい笑顔。
「私の経験を交えながら、それとなく、離婚の手続きをするように説得してみる。息子と幸せになってください」
「ありがとうございます……」
真菜が両手で顔を覆い、泣き崩れる。
「父さん。すまない」
私は頭を下げた。
「体調が悪いのに、面倒をかけて……そのうえ、母さんがいなくなって一番辛かったのは父さんなのに思い起こさせるようなことを……」
「そんなことはいい。お前が幸せになってくれたらいいんだ。それに、母さんがいなくなって、お前も悲しい思いをしただろうし、何よりも母さんが辛かったはずだ」
父が空を見上げる。
「俺がラグビー漬けだったから嫌気をさした、なんて言われたこともあったが、実は母さんもラグビー好きだったんだ。だから、俺が熱心にラグビーの指導をしているの、母さん喜んでた」
「そうだったの?」
「あぁ。だから、母さんがいなくなった理由はまったくわからない。わからない段階で俺はダメな夫。言い訳するつもりもない」
それで私が詰った時に何も言わなかったのか。熱いものがこみ上げる。
「俺は母さんが大好きだから、生きていてほしいし、離婚の手続きも失踪宣告もしなかった。でもな、そんなもん、何の足しにもならん。一緒にいる間に、もっとできることがあったはず。悔いしかない。だから譲。お前は俺みたいになるなよ。しっかり真菜さんを大切にしろ。いいな」
父が真っ直ぐ、私を見る。
「わかったよ、父さん」
涙があふれそうになる。なんとか我慢する。
「よし。あとは“善は急げ”だ。真菜さんに置き手紙を書いてもらったら、すぐに俺が戻って……」
「あっ!」
父の言葉を遮るように真菜が叫んだ。膝をついたまま顔を上げ、穴を指さしている。
「小さくなってます!」
彼女の言葉通り、穴の大きさが半分程度になっている。
「これはいかんな。時間がない」
父が呟く。
「手紙は俺がワープロで書いておく。真菜さん、名前の漢字は?」
「鹿ケ谷は動物のシカ、がはカタカナのケ、谷は渓谷の谷です」
「大和は奈良県の大和ですね」
「はい、真菜は真実の真に菜っ葉の菜です」
「わかりました。譲、あとはしっかりやれよ」
父が私の肩をポンッと叩いた。
「じゃ、俺は行くからな」
「父さん!」
父は微笑むと、そのまま穴に向かって飛んだ。まるで、敵選手にタックルを食らわすように。
「父さん!!」
父が穴に吸い込まれる。体が少し縮んだように見えた。跳ね返されることなく、真っ黒な穴に消える。
「父さん……」
「お義父さん……」
真菜がゆっくり立ち上がった。私の横に立つ。
穴が少しずつ小さくなる。
「ありがとう。父さん」
父に向けて、最後の言葉を口にした。
ほぼ同時に、穴が消滅した。