第5話
【平成11年5月】
気がつくと、私たちは古めのアパートの前に横たわっていた。
日差しが眩しい。ただ、真昼の光ではない。気持ちのいい、初夏の朝の日差し。
――もしかして。
私たちが出あったのが5月中旬。それから約3ヶ月、一緒に過ごした。もし、私たちが穴に入った時期の10年前に来ていたら真夏のはず。
――彼女が現代に来た日なのか?
それなら、過去の世界で彼女が失踪していたことにはならない。
――よかった、これで彼女は普通に生きていける。
私は少し痛む頭を左右に振って、まだ気を失っている彼女の身体を揺らした。
「真菜、大丈夫? 真菜!」
ゆっくり、ゆっくりと彼女のまぶたが開いた。
「大丈夫?」
「うん」
彼女が力なくうなずく。
「だい、じょうぶ」
身体を起こした。辺りを見回す。彼女の瞳が怯えたような目つきに変わった。腕時計を見る。
「急いでここを離れなきゃ!」
「え?」
聞き返したが、彼女の耳には届かなかったらしい。
「急いで! とりあえずこっちに!」
彼女が急に立ち上がり、よろけながらも私の手を取る。勢いに飲まれ私も立ち上がり、彼女に手を引かれるまま、その場を離れた。
「本当に、どうしたっていうんだ?」
私はミートソースたっぷりのナポリタンをフォークに絡ませながら、向かいに座る真菜に何度目かの質問をした。
「うん……」
彼女も同じナポリタンを注文したものの手をつけず、うつむいたままだ。
「言いたくないのかもしれないけど……」
「うん……」
私たちは穴から逃げるように駆け出したあと、通りかかったタクシーを呼び止め、飛び乗った。運転手から行き先を訪ねられ、真菜が「どこでも良いから遠くへ」と無茶な返答をしたので、とりあえず私が知っている喫茶店へ向かってもらった。
三鷹市と調布市の市境近く。私の感覚では数年前、今いる平成11年からは数年後になるが、一時期、何度か入ったお店。穴のある場所から車で20分ほど。遠方と言うほどではないが、それなりに距離はある。
彼女が持っていた旧札でタクシー代の支払いを済ませ喫茶店に入ると、タイミングよく4人席が1か所、空いていた。
「言いたくないんだろうけど、なんだか様子がおかしすぎるよ」
「うん……」
喫茶店を選んだ理由は距離的なことだけではない。私が穴の開通を彼女に知らせたのはラグビー部のある塗装関連企業での面接が終わった夕方。それからまったく飲み食いせず、ここまで来たのだ。私は腹ペコだったし、彼女も昼から何も食べていないだろう。喉も乾いていたし、お腹が空いていては気持ちも落ち着かない。少し何か口にしたほうが良いと判断した。
しかし、真菜はまったく食べようとしないし、何も説明してくれない。
「言いたくないのかもしれないけど……」
「うん……」
思い返してみれば、私が穴の開通を伝えたときも“過去で一緒に暮らそう”と言ったときも、反応がおかしかった。その上、過去に着いてからの行動が不可解極まりない。理由を尋ねても真菜は「うん……」としか言わない。
「説明してくれないと、わからないからさ……」
「うん……」
彼女は押しが弱い。普段から自分が思ったことや考えたことを躊躇して言わないこともあった。
私も私で、ラグビーに関しては選手としても指導者としても強気の姿勢で行動してきたし、仕事についても弱腰ではないが、真菜に対してはあまり強く出られない。
だから、このときも。
「本当に、どうしたの?」
「うん……」
「言いたくないのかもしれないけど……」
「うん……」
沈黙。
「どうしたっていうの?」
「うん……」
「言いたくないのかもしれないけど……」
「うん……」
沈黙。
この繰り返し。
穴が通じたときは私も興奮していたし“この機会を逃したら通じなくなってしまうかもしれない”という思いもあったから、少しは強引な行動をとれた。しかし今は、彼女の困惑し不安げな表情を見て、強く出られるはずもない。
「まぁ、ゆっくり食べて、話はそれからにしよう。ほら、スパゲティ、おいしいよ」
私は話題を変えてみた。
「うん……」
それでも、彼女はフォークを手にしようとしない。
また沈黙。
「お食べよ。お腹空いてるとロクな考えが浮ばないもんだよ」
「うん……」
私の言葉に、彼女がようやくフォークを持った。
それからしばらく、私たちは無言でナポリタンを食べた。その間、私は考えを巡らせた。
喫茶店に入り、私はお腹を満たして気持ちを落ち着かせようとナポリタンを注文した。彼女も「同じでいいです」とウェイトレスに告げた。にもかかわらず、食べようとしなかった。
もしかすると、彼女は何か別のことを考えていて、特に食べる気もなく“同じでいい”と言ったのかもしれない。
――なにをそこまで考え込んでるんだろう?
まったく見当がつかない。結局、私たちは会話をせずナポリタンを食べ終えた。ウェイトレスが食後のコーヒーを運んでくる。
「ご注文の品は以上でよろしいですか」
数年後にも見かけた顔。あの時より不愛想なのは、私たちの雰囲気がおかしいからかもしれない。
私はお礼代わりに小さく頭を下げた。真菜もうつむいたまま会釈する。
「失礼しました」
ウェイトレスが下がった。同時に、出入り口のドアについたカウ・ベルが鳴る。新しい客が入ってきた。何とはなしに顔をあげる。入ってきた女性客と目が合う。
「地念先輩!」
「あっ!」
うかつだった。思わず声をだしてしまった。これでは“私はあなたを知っています”と言ってしまったも同然だ。
「お久しぶりですぅ!」
高校時代、ラグビー部のマネージャーをやっていた後輩の結崎音華。10年後には結婚し小松になっている。
「あ、あぁ、久しぶり、」
仕方ない。ここは“私本人”で通すしかない。
「どうしたんですか先輩? 顔色、少し悪いっすよ」
「うん、まぁ、ちょっとね」
未来からタイムスリップしてから彼女の言動が不安定になり疲れているから、といった理由もあっただろが、何よりも年齢的なものだろう。いくら若く見られるとはいえ、今の私は三十路過ぎ。20代前半の私と比べれば老けている。そんな事情を知らない結崎には疲れているように見えたのかもしれない。
「しっかりしてくださいよ。先輩……って、もしかして、彼女さんですか?」
真菜の存在に気が付いた結崎が私と彼女の顔を交互に見る。
「うん、まぁ、そんなところ」
「うわぁ、デート中♪ すみません、お邪魔しちゃって……」
それまでにこやかだった結崎の顔が訝しげな表情へと変わる。真菜の顔をじっと見ている。
「どうかした?」
私が聞く。
「う、うぅん。何でもないんです!」
結崎が貼り付けたような笑顔で言う。取り繕う、といった感じ。
「あのぅ、私……」
私と結崎のやり取りをうつむき加減で聞いていた真菜が、サッと立ち上がった。
「ちょっとお手洗いに」
そう言うと、逃げるように小走りでトイレへと向かっていった。
「あ、あぁ……」
私は呆然と見送る。すると。
「先輩!」
結崎が私の向かいの席に座り、小声だが強い口調で私ににじり寄った。
「な、なんだよ」
「今の人、本当に先輩の彼女ですか?」
「あぁ、そうだよ」
「それなら、早く別れた方がいいですよ」
「何で!」
突然の忠告に、私は大きな声をだしてしまった。が、結崎は動じない。
「当たり前じゃないですか。だって彼女、結婚してるんですよ」