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第4話

【平成21年6月】


 私と真菜が深い仲になるのに、そう時間はかからなかった。

 胃袋をつかまれると男は弱い。もちろん、それもあるが、それだけではない。

 今までは“誰もいない部屋に帰り、買ってきた弁当を食べ、風呂に入って、テレビを見て、寝る”といった生活だったのが“帰ると真菜が夕飯を作って待っていて、風呂も湯張りしてあって、テレビを見るにも一緒に笑い合える”生活となった。その、待っていてくれる、一緒に笑っている相手を好きにならないはずがない。

 いや、それもちょっと違うか。彼女だから、真菜だから、ご飯を作って待っていてくれると嬉しいし、一緒にテレビを見ていても楽しいのかもしれない。

 いずれにしても。

 私たちは一緒に暮らし始めて半月ほどで、名字ではなく名前で呼び合える仲になっていた。

 「それにしてもさ」

 ふたりでハーゲンダッツのアイスクリームを食べながらテレビを見ていて、ふと、私は真菜に声をかけた。

 「なんですか?」

 同棲生活1か月。彼女は丁寧な言葉遣いのままだ。1度だけ「もっと普通に話していいんだよ」と伝えたが、彼女は「これが私の普通なんです」と笑いながら答えた。以来、話し方は気にしていない。

 それはさておき。

 「なんであの穴は通れなくなったんだろう」

 業務の引継ぎなどがあり、想定よりも退職時期がずれ込んでいた。有給を取得した日も母校へ顔を出し、入職時期や今後について相談していた。

 結果、平日は外出する機会が多く、帰宅時に穴が開通しているか確認していたが、石ははね返され続けている。最初の日から変わった点といえば、得体のしれない物体だからか、周囲に三鷹市と書かれたカラーコーンが4つ、穴に近づかないよう置かれているくらいだ。

 「……もう、いいです」

 真菜がバーゲンダッツのカップとスプーンをガラス張りのローテーブルに置く。

 「もう、戻れなくって、いい」

 ゆっくりと区切って言う。

 「いいって、そんな……」

 「私はきっと、この世界に来て、あなたとこうやって暮らす運命だったんです。それに……」

 「それに?」

 私もアイスとスプーンを置いた。

 「今が一番、幸せです」

 節目がちに言う。顔を真っ赤にして。

 「真菜……」

 私は思わず、彼女を抱き寄せた。


【平成21年8月】


 私たちの生活はゆっくりと過ぎていった。

 お金については心配なかった。ようやく辞められた会社から予想以上の退職金が支給された。今までの貯蓄も親が残してくれた財産も、それなりにある。しばらくすれば失業保険も出る。贅沢さえしなければ、なんとかふたりで暮らせる。

 新しい職場についても目処がたっていた。母校からの誘いは一旦保留にしてもらい、失業保険が終わるまでは転職活動を続けたいと伝えていた。

 決して有名な大学ではないこともあり、福利厚生は悪くないが初任給が低い。今の年齢であれば、もっと給料の良い就職口は充分にある。声をかけてくれた職員も理解しているのだろう。半年間の猶予期間を頂けた。

 その間に条件の良い企業に就職できればよし、どこにも採用されなければ改めて母校の職員兼ラグビー部の指導者としてお世話になる。これほど恵まれた環境で職探しができるのはありがたかった。

 だから、真菜に「私の旧札を新札に変えて生活費にしてほしい」と言われた時、断った。金銭面では困っていないのに、彼女の大事な所持金をもらう理由はなかった。

 ただ、別のことで大きな不安があった。彼女とのこれからのことだ。

 彼女は“過去に戻らなくても良い”というが、かといって、このまま付き合っていて良いものか。

 恋愛の形には色々あるが、最終形態のひとつとして“結婚”がある。過去から来た女性と現代の自分。大手を振ってデートすら行けないふたりが、結婚できるはずがない。

 初めからわかっていたが、あまり考えていなかった。あえて考えないようにしていたのかもしれない。どちらにせよ、このまま続けていけないことぐらい、私も彼女も気がついていた。

 そして、それを強く感じるようになってきた。お互い、そう若いわけではない。

 付き合い始めて3ヶ月を過ぎたあたりから、私は時折、彼女を“愛している”という感情だけでは見つめられなくなった。彼女も、どうやら私と同じ思いのようで、暗い、どこか呆けたような顔をして私を見つめることが多くなっていた。

 ――やっぱり、何かしら決心しないと。

 私のなかで軽からぬ思いが芽吹き始めていた。ひとつの結論も出ていた。

 そんな時期。

 石が穴に吸い込まれた。



 「やったぞ!ついに帰れる!」

 私は玄関のドアを明け、勢い余って転びかけながら彼女に言った。

 「帰れるって?」

 「決まってるだろ!過去にだよ!」

 「もう、よかったのに……」

 なぜか、あまり嬉しそうじゃない。

 「何を言ってるんだ! このままじゃ結婚できないじゃないか!」

 思わず口をついて出てしまった。

 真菜が驚いたように私を見つめる。そして、寂しげな笑みを口元に浮かべた。

 「過去に戻ってもできない……」

 「確かに結婚はできないけど、今よりはいい」

 私には考えがあった。思いと結論。もう少し落ち着いた気持ちで伝えたかったが、良いタイミングかもしれない。

 「今のままじゃ結婚できないどころか、デートすら行けない」

 「それはそうですけど、過去に戻っても……」

 「いや、過去なら、まだなんとかなる」

 過去に戻れば今度は私がふたり存在することになる。だが、今の私は彼女と違って天涯孤独の身。親もおらず兄弟姉妹もいない。勤めにも行っていない。それだけ束縛がない。

 で、あれば。私が10年前の世界に行き、私でなくなりさえすれば良いだけの話。

「でも、10年前の譲さんがいる……」

 私だけではない。当時、まだ健在だった父に会うかもしれない。

「その時は他人の空似で通せばいい」

 かなり強引。とはいえ、この道以外に策がない。真菜と違い、私なら現代からいなくなったところで誰にも迷惑をかけずにすむ。大学に誘ってくれた職員には申し訳ないが、まだ勤務はしていない。別の人を探すだろう。

 「すぐに結婚は難しいかもしれない。それでも、今と違って、ふたりで普通に暮らせる」

 私でなくなる、つまり国籍すらなくなる。運転免許も取得できない。可能な仕事は限られるだろうが、彼女と生活できるなら、なんだってやる覚悟はできている。

 それに、今までと違い過去と現在を往来できるようになれば、私の全財産を古銭店で旧札に変えられる。等価交換はできないだろうが、それなりの額になるだろう。

 「でも……」

 真菜の表情は、まだ冴えない。これだけ言っても困惑している。

 「それとも、なにか困ることがあるの?」

 「うん、ちょっと……」

 「何?」

 「うん……」

 彼女が口篭る。私も黙る。しばしの沈黙。耐えられなかったのは私の方だった。

 「とりあえず、今から過去に行ってみようよ。ね。それで、やっぱり現代の方が良さそうなら戻ってくればいいんだし」

 私は彼女の手を取り、顔を見つめた。

 「うん……」

 困ったような、不安そうな顔のまま、彼女はうなずいた。



 ふたりで穴の前に立った。

 強烈な吸引力。カラーコーンは穴に吸い込まれたのか、1つしか立っていない。

 「怖い……」

 彼女が私にしがみつく。正直、この猛烈な勢いは私でも怖い。

 「しっかり掴まってて」

 私は両腕で彼女を抱きしめると足の力を抜いた。

 飛ぶ必要はなかった。踏ん張っていた力を抜いただけで、私たちふたりは呆気なく穴の中心に吸い寄せられ、そのまま吸い込まれた。

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