第3話
「どうぞ」
私は玄関を開け、彼女を部屋の中へ招き入れた。
2DKのアパート。三十路過ぎの男が一人暮らしをするには、ちょうど良い広さだと思う。
「あ、意外と片付いてるじゃないですか」
道すがら、私は自分の部屋が“散らかっている”と何度か口にした。事実、あまり整頓された部屋とは言えない。だから別に、彼女の言葉は気にならなかったのだが。
「あ、ごめんなさい。意外なんて、失礼なこと」
「いえ、気にしなくていいですよ。どうぞ」
言いつつ、私は彼女にソファをすすめた。
「すみません」
申し訳なさそうに座る。私はガラス張りのローテーブルを挟み、彼女の向かい側、フローリングの上にあぐらをかいた。
「で、これからなんですけどね」
私はとりあえず、今後のことについて自分の考えを彼女に伝えた。
まず、当面はこの部屋で過ごすこと。
独身男性、つまり私と同居することになるが、2DKだから別の部屋で眠れる。何より、彼女の所持しているお金の使い勝手が悪すぎる今、ほかに行き場所がない。
「それと、あまり外は出歩かないでください」
「なぜですか?」
「10年前に住んでいた三鷹に、今もあなたが暮らしている可能性は十分にある」
「……鉢合わせると大変ですね」
「現在のあなただけじゃない。ご家族や友人・知人。会ってしまったら厄介だ」
「家族……そうですね」
彼女の眉間に皺がよる。面倒になると理解してもらえたらしい。
「あとは、私の留守中、アパートに誰か来ても対応しないこと。もっとも、私の部屋に来る人なんて宅配業者くらいなものですが、誰が見ているかわかりません。隣の部屋の住人に見つかったら中々に面倒です」
「でも……」
彼女が小声で言う。
「例えば大家さんが尋ねてきて、どうしても出なきゃならなくなったら?」
「そのときは“いとこ”とか“はとこ”とでも答えてください」
「ご家族が尋ねてきたら……」
「私に家族はいません」
私は三鷹生まれの三鷹育ち。実家はこの近くにあった。ただ、両親ともに今はもういない。兄弟姉妹は元々いなかった。
「ごめんなさい。嫌なこと聞いちゃって」
「別に嫌なことじゃないですよ」
この状況であれば誰だってそういう質問をするだろう。
「あんまり恐縮しないでください。いつまでかわからないですが、これから共同生活するんです。お互い、気を使い過ぎると疲れます」
「そうですね」
彼女の顔に少しだけ笑みが戻る。良く見ると可愛らしい顔つきをしている。笑窪がチャーミング。
「それから、あの穴は私が毎日、確認しに行きます」
「確認?」
「はい。毎日吹き飛ばされたら身体が持たないので石を投げてみます」
「石ですか?」
「要は吸い込まれるようになっているか確かめられたらよいわけです」
「あ、なるほど」
「吸い込まれるとわかったら、あなたもあの穴に飛び込んでみてください」
「はい」
彼女が素直にうなずく。
「私の考えは以上です。あなたから、なにかありますか?」
「そうですね……」
彼女が小首を傾げる。しばらくして。
「とくにないです。でも、2点ほど」
「なんですか?」
「これから同居させて頂くのに、お名前をお伺いしてないなぁって」
「あ、そうですね」
気がつかなかった。私は思わず頭をかく。彼女も小さく笑った。私から名乗る。
「私は地念譲です」
「じねんさん?」
「地面の地に念ずるで地念、譲は、読み方が違いますが、音楽家の久石譲さんと同じ漢字です。貴女は?」
「私は……大和。大和真菜。宇宙戦艦の大和で、真菜は真実の真に菜っ葉の菜です」
「わかりました。それで、もうひとつは?」
「あの、服とか、どうしようかなぁって」
それも思い至らなかった。そうか、彼女は女性。私の服は着られない。どうしたものか。
「ネットで買いますか?」
サイズさえわかれば外に出なくてもネットで買える。便利な世の中になったものだ。10年前、そんなに便利だったろうか?
私はそんなことを思いながら立ち上がり、彼女をパソコンデスクのある私の寝室へと案内した。
やはり10年前は、ここまで便利ではなかったようだ。
大和さんは慣れた手つきでパソコンの操作しつつ「時代って進むんですねぇ」と驚いていた。仕事で文房具や事務用品をネット購入したことはあるが、プライベートでは好きな芸能人のホームページやネットニュースを見る程度。服は買ったことがなかったらしい。
「そうなんですか」
当時のネット環境について、私はワープロしか持っていなかったから、よく知らない。
「地念さんはご存じないですよね。10年前なら中学生か高校生ですか?」
「いやいや、もう大学生でしたよ。貧乏学生でしたから、パソコンなんて買えませんでしたが」
友人でWindows95を持っている奴はいたが、まだ少数だった。そんな体たらく、私の周辺だけだったのかもしれないが。
「10年前で大学生ですか?」
彼女が驚く。
「地念さん、もっとお若いかと思ってました。同世代なんですね」
「えぇ、まぁ」
普段から驚かれることは多い。まだ20代半ばで通る。
「10年前は大学の3年でした」
「私も! 10年前は大学3年生!」
「じゃあ、同い年ですね」
お互いに笑い会う。ただ、何かがおかしい。
「ちょっと待ってください。大和さんの10年前は、私の20年前ですよね」
「……あっ」
彼女が口を手で隠す。
「そうですよね。ここ、10年後ですもんね」
「そうですよ」
私たちは、ふたりして笑った。ちょっと打ち解けた気がした。
奇妙な同居生活が始まった。
過去から来た女性。年齢的には同い年、本当は10歳年上。
まさか自分がこんな体験をするとは思わなかった。
ただ、決して悪い同居人ではなかった。
大和さんが私の部屋に住むようになった翌日。眼を覚ますと良い香りがした。炊き立てのごはんと味噌汁の香り。思わず飛び起きて寝室のドアを開けた。
「あ、地念さん。おはようございます」
大和さんが昨夜貸した私のパジャマからすでに着替え、自分のスーツを着てキッチンに立っている。
「お、おはようございます」
思わず口ごもる私。
「勝手なことをしてごめんなさい。でも、居候させてもらうんだから、これぐらいしないと」
そう言いつつ、お椀に味噌汁を注いだ。
「勝手なことなんて、そんな……」
昨日と立場が逆になったように、私は恐縮してしまった。
「逆に申し訳ないですよ」
「そんなこと言わないでください。私ができることなんて、これくらいしかないんですから」
大和さんがテキパキと慣れた手つきで食卓にふたり分の朝食を並べていく。ごはん、豆腐の味噌汁、納豆、おしんこ、のり。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんですか?」
手を止めず、私の顔をチラリと見る。
「米と味噌はあったと思うけど、他の食材は……」
「ごめんなさい。朝早くなら大丈夫だと思って、コンビニに行ってきました」
「ダ、ダメですよ、そんなこと、しちゃ……」
ダメといいながら、久々にまともな朝ごはんを目の前にしているため、語尾が弱まる。
「こ、今度から私が買ってきますから。必要な食材があったら言ってください」
「はい」
大和さんがお箸を食卓に置き、笑顔で良い返事。
「お手数をおかけしますが、宜しくお願いします」
笑顔で頭を下げる。
「さ、冷めないうちに頂きましょう。お口に合うといいのですが」
笑顔のまま、私に座るよう促す。
――女性って強いなぁ……
早くも状況に適応している。自分が同じ立場になったら、ここまでできるだろうか。
――それにしても。
私も気が向いたときに自炊をするが、自分で作った朝飯と比べて格段に美味しそうだ。
――胃袋をつかまれると男は弱い。
椅子に座りながら、そんな言葉が頭をよぎった。