第2話
実際、穴はあった。
彼女に案内された新築高層マンションの裏手。地上から1メートルほどの高さ。マンホールの蓋が開いてしまっているような……いや、違うな。そんな現実的なものでは表現できない。
わかりやすい例えで言えば“未来からやってきた猫型ロボットが乗ってきたタイムマシンへ乗り込むときに開く穴”。これが一番しっくりくる。
ただし、その穴とも微妙に違っている。通常の空間と穴との境目がハッキリしていない。ぼやけているというか、鳴門海峡で有名な渦潮の周囲のように小波をうっているというか。形も楕円形になったり真ん丸になったり。目の錯覚かもしれないが、大きくなったり小さくなったりしているようにも見える。
なにより、穴の向こうにタイムマシンはない。もし彼女の言葉が正しければ10年前の三鷹市とつながっているのだろう。
「これで少しは信じて頂けました?」
彼女が自信なさげに私の顔を覗きこむ。
「まぁ、少しは……」
もちろん、完璧に信じたわけではない。
こういった立体的な映像を作り出すことは可能かもしれないし、強烈な催眠術をかけている、といった可能性だってゼロではない。
ただ、そんなことをしてまで私をだます理由が彼女にはない。こんな労力を費やしてまで私を陥れる人は、ちょっと思いつかない。
――これで10年前の三鷹に行ければ、信じるしかないが……
穴に近づくと、彼女の言う通り、凄い力で吸い寄せられる。ラグビーで鍛えてきた私ですら身体ごと持っていかれそうになる。そのまま引き込まれれば彼女の言葉の真偽のほどがわかる。だが。
――さすがにそれは怖いな。
こんな得体の知れない穴に身を投じてまで彼女の説明を証明する必要はない。私には私の人生がある。
――ここらで手を引いとくか。
これ以上、関わる理由もない。興味を抱いてここまで来たが、もういいだろう。信じたふりをすれば、彼女もきっと解放してくれるはずだ。
「確かに凄い力で引っ張られますね。いや、あなたの言っていることは本当のようです。疑って申し訳ない」
私は極力、彼女の言葉を信じているように装った。
「よかった。やっと信じてもらえた……」
――よし、安心した。
彼女の顔から不安が消えた。ここからが正念場。
「ですが、あなたがこのまま、こちらの世界にいると何かと都合が悪いでしょう。あちらにも家族がいらっしゃるでしょうし、早くこの穴から元の世界に戻ったほうがいい。私も仕事があるんで……」
「帰れないんです」
“仕事があるんで失礼します”という言葉を遮り、彼女が呟いた。表情が再び曇っている。
「……帰れない?」
「ですから、穴に入れないんです」
何を言っているのか理解できない。
私は同年代の男性と比べて筋力があるほうだ。その私が引きずり込まれそうになる穴に入れないはずがない。
「そんなはずは……」
「本当なんです。入れないんです」
彼女が恨めしそうに私を見る。“どうして信じてくれないのか”と言いたげだ。
――確かめてやろうじゃないか。
そんな目で見られては、やらざるを得まい。
それに、私が穴には入り10年前の世界へ戻れることを証明しない限り、この状況は打破できそうもなかった。
――妙なことに巻き込まれたな。
“実はドッキリでした”と笑われたほうがマシだと思える。それでも。
――乗りかかった船、か。
私は、もし私が穴に入れたら後を追うように彼女に言ってから飛び込んだ。強力な吸引力と私の勢いが合わさり、私の身体は凄い勢いで穴に向かっていった。
大学時代、私たちのチームはそれなりに強かった。私が1年生のときに初めてリーグ戦を勝ち抜き全国大学ラグビーフットボール選手権大会に進出。以降、4年連続で全国に出場した。
その頃、チーム力強化のためトンガの学生代表チームと交流試合をしたことがある。私はそれまで、どんなに体格のいい相手にタックルをされても吹き飛ばされるようなことはなかった。
しかし、トンガの選手には5mほど吹き飛ばされた。大きな体。ずば抜けた身体能力。恐ろしいほどの力。後にも先にも、あれほどの衝撃を受けたことはない。
その時と同じくらいのパワーだった。
私は穴に引きつけられたうえで、とんでもない力で押し返された。吹き飛び、マンションの前を通る道路まで転がる。
「大丈夫ですか!」
彼女が慌てて駆け寄ってきた。
「だ、たいじょうぶ、です」
衝撃で息ができない。簡単な返答をするのがやっとだ。
「た、たしかに、はいれま、せんね……」
「は、はい」
彼女が心配顔でうなずく。
「ど、どうするんです、これから」
私は呼吸を整えつつ、ゆっくりと身体を起こしながら、何とはなしに訊ねた。正直に言えば、この時は特別、彼女を心配していたわけではない。ふと思った疑問。
「どうするって……とりあえず住む場所を探します。この時代、ウィークリーマンションってありますか?」
「あぁ、あるはずです」
私は立ち上がりながら答えた。
「よかった」
「お金の持ち合わせはあるんですか?」
「えぇ、今日は少し多めに持って出たから、当分は大丈夫」
「そうですか、それはよかっ……」
よくない。
10年前のお札は千円札が夏目漱石、5千円札が新渡戸稲造。1万円札は今と同じ福沢諭吉だが、お札自体は変わっている。
私の言葉が不自然に途切れたのが気になったのか、彼女が私の顔を凝視する。
「そのお金、使えないかもしれません」
法律的にはまだ使用可能だろうが、自動販売機などでは無理ではないか。なにより財布の中身がすべて旧札では不便なだけではなく不審がられる危険性すらある。盗品と思われかねない。銀行で交換もできるだろうが、身分証明書の提示を求められたら厄介だ。免許証なら有効期限が切れているだろう。
「そんな……」
私の説明に泣きそうになる。無理もない。彼女にとってお金は、知らない世界で信頼できる数少ない道具。その大半が使えないのだ。
「私、どうしたら……」
涙がこぼれる。堰を切ったように、止めどなく溢れる。
――参ったな……
こんなことになろうとは思いもしなかった。声をかけられたから、対応しただけなのに。
彼女の涙が頬を伝い、スカートを塗らしている。拭うことすら忘れてしまっている。嗚咽が止まらない。
――仕方ないなぁ……
放っておくわけにもいかないが、過去から来た(と言っている)女性を、どうすれば良いのか。
「……うちへ来ますか? 狭いですが」
私の口が、半ば勝手に、そう動いた。