第11話
【令和6年5月】
「もっと腰を入れてタックルするためにも体幹が大事なの?」
土曜の夕方。食事前にジョギングへ行くため、上下黒のジャージを着てリビングのソファでくつろいでいたら、部活帰りの茂が学ラン姿のまま質問してきた。
「そうだな。筋肉は鎧だ。しっかり鍛えておけば怪我の予防にもなる」
「そっか。ありがとう、父さん」
茂が納得したような笑顔。
「ん、頑張れよ」
私は小さくうなずきながら答えた。
茂は中学2年生になった。親の贔屓目かもしれないが、文武両道。反抗期らしい態度もない。学校でも家庭でも素直な子。
一方で、はっきりとモノを言うところがある。謙虚さがないわけではないが、物怖じしない。私や真菜より、言動が父に似ている気もする。不思議なものだ。
一方、私は今年から大学でラグビー部のヘッドコーチになった。自分では大した指導者だと思っていないが、学生たちからはそれなりに慕われているらしい。
自己分析すれば、口頭の指導だけではなく私自身が学生たちとともにトレーニングや基礎練習をして一緒に汗をかいているのが良いのかもしれない。
そして、そんな私を茂も良き父親として見てくれていると感じている。どうやら、私からもっと指導を受けたいらしいと、真菜がこっそり教えてくれた。
だが、茂に多くは教えない。質問を受ければ簡単なアドバイスをするが、突っ込んだ指導はしない。
茂には茂の指導者がいる。指導者にはそれぞれ考え方がある。邪魔をしてはいけない。少なくとも、茂を指導している中学校の教諭・九条先生の考え方は共感できるところが多い。私が積極的に教える必要もない。
だから、この時も。
これで会話が終わったものだと思っていた。
「そうだ、父さん」
茂が言葉を続けてきた。
「ん、どうした?」
何かもっと聞きたいことがあるのかもしれない。ただ、質問をされても“そういうことは九条先生に聞きなさい”と答えよう……などと考えていたら。
「俺、父さんの大学に入学しようと思ってるんだ」
「うちに?」
予期せぬ宣言に、声が裏返りそうになった。
「いや、それは嬉しいが……」
東花学院大学は全国的に名が通るようになってきていたが、偏差値は決して高くなく、ラグビーも強豪校ではない。
「茂なら、もっと強いチームを目指していいんじゃないのか?」
勉強もラグビーも熱心に続ければ、もっと名門校に入れるだろう。資質や素質、気質から考えて、うちの大学ではもったいない。
「それ、九条先生にも言われた。でも」
私の思いを知ってか知らずか、茂が自信ありげな笑顔。
「だから、俺が入って、父さんと一緒にチームを強くしたいんだ」
「私と一緒に?」
「そう。父さんと全国優勝したいんだ」
思いもしない発言。我が子相手ながら、面食らってしまった。
「……そうか。待ってるぞ」
落ち着いている父親を装い、なんとか返答。
「うん!」
私の言葉に茂が笑顔のまま大きくうなずき、自分の部屋へと向かう。
「……優勝、か」
茂が部屋に入るのを見届けてから、私は小さく呟いた。
全国大学ラグビーフットボール選手権大会。東花学院大学は昨年、私が学生だった頃以来、27年ぶり5回目の出場を果たしたものの、結果は一回戦敗退。予想通りとはいえ、学生たちが悔しがっていた。
――群雄割拠だからなぁ。
強豪校がひしめき合い、ここ数年で力をつけてきた大学もある。古豪と呼ばれる大学でも全国出場を逃すケースが珍しくない。
そんななか、私が教えるチームがあと5年で優勝できるとは、正直なところ、考えにくい。学生たちに優勝させたい気持ちはあるが、茂が考えているような甘い世界ではない。
しかし、その想いは嬉しい。
――本当に、父さんとよく似てる。
行動力と前向きな発言。
――性格も隔世遺伝するのかな。
無論、茂は父と会ったことはない。とりとめのない思考。心理学は専門外だから、よくわからない。
――母さんもラグビー好きだった。
ふと、父から言われた言葉を思い出した。
――孫の姿、見せてあげたいな。
今も失踪宣告はしていない。生きていれば今年で73歳。決して若くはないが、どこかでつつがなく生活していてもおかしくない年齢。
――生きていれば、父さんも喜ぶ。
儚い思い。私は小さく頭を振り、立ち上がった。
リビングからダイニングへ。3年前、真菜の実家を相続し、自分たちが住みやすいように改装した際、オープンキッチンにしている。夕ご飯を作り終えたのだろう。真菜がシンクを洗っている。
「真菜。そろそろ行こうか」
「あ、はい。すぐ支度します」
私の声に手を止め、備え付けのハンドタオルで手を拭き、笑顔で寝室へと向かった。
真菜は戸籍上、私の10歳年上になるが、実質は同い年。お互いに47歳。年下の小松が「ずるいなぁ、ふたりとも見た目が若くて」と言ってくるが、体のメンテナンスを怠れば外面も内面も老ける。
なんて、そんな大げさな話ではないが、健康のことも考えて、私たちは数年前から週に2回、一緒にジョギングをするようになった。
ゆっくり話しながら、街の変遷を感じながら、無理のないペースで走る。うっすら汗をかく程度。そのあとのビールがうまい、なんて言ったら台無しか。
「お待たせしました」
真菜がジャージ姿で出てきた。薄いピンク色。相変わらず女性のファッションのことはまったくわからないが、よく似合っている。
「よし、行こうか」
私たちは部屋にいる茂に声をかけ、玄関へと向かった。
「今日はどこへ行きますか?」
自宅前で軽く柔軟体操をしつつ、真菜が訊いてきた。軽いジョギングとはいえ、いきなり走り出すのは禁物。筋肉や関節を痛める原因になる。
「そうだなぁ」
私も身体を伸ばしながら返答。夕暮れ時。初夏の暑さが少しだけ和らいでいる。
「この間は第4小学校まで行ったしなぁ」
ジョギングのコースは毎回変えている。私も真菜も長年、三鷹で暮らしてきた。それなりに広範囲で土地勘がある。その日の気分で走る道を決めていた。
「久々に、あのマンションを見に行くか」
真菜が過去から未来に来た穴があった場所であり、父と3人でスクラムを組みタイムスリップしてきた場所。そして、過去へと戻る父を見送った場所でもある。
「そうですね。ちょっとご無沙汰ですし」
真菜も笑顔でうなずく。
「じゃ、決まりだな。行こう」
私は答えて、ゆっくりと走り出した。
ジョギングを始めた頃、真菜はすぐに息をきらしていた。三十代後半から母も愛用していたローヤルゼリーを飲み始め、健康には気を配っていたが、運動らしい運動はしてこなかった。ゆっくりしたペースのジョギングですらキツかったようだ。
それでも、続けていれば体は変わるもの。今では楽しそうにおしゃべりしながら走っている。
なお、私はこれくらいの速さのジョギング、まったく苦にならない。20代後半でラグビー選手を引退したあとも基本的なトレーニングを欠かさなかったし、今も学生たちを相手に走り回っているのだ。感覚的には散歩に近い。
ただ、真菜と一緒に走るのは楽しい。結婚して15年ほどになるが、共通の趣味を持ち、ますます仲が良くなっている。一緒に走り始めて良かったと思う。
「見えてきましたね」
私たちは高層マンションの近くまで来ていた。私たちが出会った時は新築だったが、今では築15年。改修工事を行うのか、建物全体がメッシュシートで覆われている。
「今日はマンションを一周してみよう」
ぐるっと回って、来た道を帰る。距離も帰宅時間も程よいだろう。
「そうですね。でも、ちょっと怖いです」
「こわい?」
言いながら、私は真菜の顔を見た。
「裏手に穴が開いてませんかね?」
真菜がいたずらっぽく笑う。
「そんなわけないだろう」
私も笑って返答。前を向き直る。
「そうですよね……あれ、譲さん」
真菜が走る動きを続けつつ停止。私の足元に視線を落としている。
「ん、どうした?」
私もその場で足踏み
「靴紐、ほどけてます」
真菜の言葉に私も視線を自分の足元へ。
「え? あ、ほんとだ」
右足の靴紐が完全にほどけていた。走る前にしっかりと結んでいたのに。こういったことは珍しい。
「ごめん。先に行っといて。すぐに追いつく」
私はしゃがんで靴紐を直し始める。
「はい、ゆっくり行ってます」
彼女がスローペースで走り出した。
私は右足の靴紐を直し、念のため左足の靴紐も直した。立ち上がる。真菜がマンションが途切れた先、角を曲がるとこだった。私は今までよりも走る速度を少し速め、後を追った。刹那。
「大丈夫ですか!?」
真菜の声が聞こえた。
「どうした!!」
私は全速力で走った。角を曲がる。
「そんな……」
思わず足が止まる。忘れもしない。15年前と同じところに穴が開いている。通常の空間と穴との境目がハッキリしていない。大きくなったり小さくなったりしているように見える。
その前に、真菜がしゃがみこんでいる。人が倒れているらしい。真菜が抱きかかえるようにして声をかけている。よく聞き取れないが相手は女性か?
「大丈夫ですか!!」
我に返り、走り出す。
真菜の横に立つ。
「はい、だいじょうぶです……」
真菜に抱きかかえられた女性が返答する。
顔に見覚えがある。忘れるはずもない。
「……母さん?」
「……譲?」
35年前に失踪した母・惠子が不思議そうに私を見上げた。
「おかあさん?」
真菜が私と母の顔を交互に見る。
いつの間にか、穴は消えていた。