第1話
【平成21年5月】
「あのぅ、すみません」
アパートを出て、最寄り駅のJR中央線・三鷹駅へと向かう道すがら、私は背後から呼び止められた。
振り向くと不安げな顔をした女性が立っている。
歳は32、3歳。私とそう変わらないように見える。ベージュのスカートスーツで落ち着いた印象。ただ、今どきではないと言うか、デザインがちょっと古い感じ。女性のファッションには詳しくないから、よくわからないが。
「なんでしょう」
知り合いではないものの悪い人ではなさそうだし、何より困っている様子。道を聞きたいのかもしれない。私は笑顔を作り返答した。
「あの……」
女性が少し言い淀む。逡巡しているのか視線が泳ぐ。
「どうかされましたか?」
私は笑顔のまま、話を促した。
「その……」
女性が視線を私にむける。
「突然で申し訳ないんですけど、ここ、どこなんでしょう?」
質問の意図が読めなかった。
迷子になるような歳ではない。何かしら犯罪に巻き込まれている可能性もあるが、困惑しているものの切迫した雰囲気ではない。フィクションでもあるまいし“一時的に記憶喪失になって街を彷徨っている”なんてはずもない。それなら警察か病院に行くだろう。
人を見かけで判断してはいけないと言うが、私の見込み違いで変な人に絡まれたのかもしれない。
「すみません、おかしな質問をして」
どうやら顔に出てしまったようだ。私の思いに気がついた女性がうつむく。
――変な人ではなさそうだな。
私は早々に考えを改めた。自分がおかしな質問をしていることはわかっているらしい。とすれば、何か事情があるのかもしれない。答えてあげるのが親切だろう。
「ここは東京の三鷹市ですよ」
「やっぱり、そうですか……」
女性が顔を上げ、あたりを見回す。
「こんなに変わっちゃったんですか」
「変わっちゃった?」
「えぇ、変わっちゃうんですね、こんなに」
まるで以前の三鷹を知っているような言い回しに、ちょっと引っかかった。
確かに三鷹は随分変わった。十年ほど前に駅の南口が建て直されて以降、駅の改修工事や街の再開発が進められている。高層ビルやマンションが建設され、新しい商業施設もできた。
その分、昔ながらの建物は減った。私が子供の頃から慣れ親しんだお店も少なからず閉店した。
生まれ育った街だから、その変貌ぶりは知っている。女性の言葉通り“こんなに変わっちゃった”と言える。
だが、自分がどこにいるかもわかっていない人が発する言葉としては違和感があるというか、不自然なような気がした。
「あの、失礼ですが」
周囲を見回している女性に声をかける。
「三鷹のこと、以前からご存知なんですか?」
女性がやや驚いたようにハッとして、私に視線を戻し、再びうつむいた。
「えぇ、知ってます。でも、私が知っているのは10年前の三鷹です」
「10年前? どういうことですか?」
「信じてもらえるかどうか……」
「話して頂かないことには、なんとも」
「そうですよね……」
女性が顔を上げ、私を見る。不安げながら何かしら覚悟を決めたような表情。
「私、過去から来たんです」
当然、初めは信じられなかった。
やはり、変な人なのかと思った。
しかし、彼女が必死に説明してくるので仕方なく聞いているうちに「もしや?」という思いが頭をもたげてきた。彼女が語る“自分が住んでいる三鷹市”と私の記憶の中にある“10年前の三鷹市”が一致するのだ。
「少しは信じて頂けました?」
彼女が不安げに聞いてくる。
「えぇ、まぁ……」
肯定し切れないが、否定もできない。
「よかったぁ」
安堵の気持ちが彼女の顔に広がる。
「ただ、その、なんと言いますか……」
私は口ごもった。
せっかく気持ちが落ち着いたところに申し訳ないが、10年前の三鷹を知っているからといって“過去から来た”なんて話を信じられるわけがない。漫画や小説ならいざ知らず、タイムスリップが現実に起こるはずがない。
「……そうですよね」
言葉にせずとも私の疑念がわかったのだろう。彼女の声のトーンが若干落ちる。
「私だって、自分が体験してなかったら信じられないですもん」
彼女の説明は、こうだ。
10年前のある朝、仕事にでかけようと外に出ると、何もない空間に大きな穴が開いていた。なんだろうと思い穴を覗いてみると、もの凄い勢いで吸い込まれてしまった。気がつくと、まったく見覚えのない新築マンションの裏手に立っていた。
つまり、現代に来ていたというのだ。
「何が起きたのかわからなくて、ここはどこなんだろうって思って歩いてたら、壁に貼ってあったイベントのポスターに“平成21年6月開催”って書かれてて……ずいぶん先のことを書いてるなぁって思ったんですけど、他のポスターにも“2009年5月オープン”とか書かれてるし、もう何がなにやら」
「それは混乱するでしょうね」
言っていることは信じられないが、嘘をついているようにも見えない。何か確かめる方法がないものか。あ、そうだ。
「出てきた穴は、まだあるんですか?」
現実として穴があればどうだろう。
「えぇ、私が出た後も残ってました」
「そうですか」
――会社に行っても、やることないしなぁ。
私はもうすぐ退職する。大学を卒業して10年、上司とソリが合わなかった。それでも耐えてきたのは、子供の頃から続けてきたラグビーに打ち込めたから。
社会人の最上位リーグから転落し、長年に渡り地域リーグで踠いていたが、過去には日本代表選手も輩出し、名門と言われてきた企業チーム。私はアウトサイドセンターでフィールドを駆け抜け、2年前に引退。以降、アシスタントコーチをしてきた。
しかし会社の上層部がラグビー部の廃部を発表。今年の3月末をもってチームは消滅した。2ヶ月は我慢して仕事に従事してきたが、上司との人間関係は最悪。大好きなラグビーにも関われない。もはや会社に残る理由はない。
――有給も残ってるし。
結婚していれば家族のために辛抱して勤めていたかもしれないが、私は独身。まだまだ自分の人生を選びたかった。
あてがないわけでもない。給料は下がるが、母校の東花学院大学から職員兼ラグビー部の指導者として声をかけてもらっている。
――穴を見てみるか。
彼女の話に興味がないといったら嘘になる。こんなこと、なかなか体験できることではない。万が一、誰かに担がれていたとしても詐欺や犯罪の類いではなく、後で笑い話になる程度のことだろう。
私は携帯電話を取りだし、会社に電話した。仕事をするでもなく定時の1時間前から出勤している上司が不機嫌な声で出る。どうせスポーツ新聞を読んでいて、邪魔されたからイラっとしているのだろう。私は感情を出さず“引退する直前に痛めた腰が悪化したから今日は有給を使わせてもらいます”と伝えて、電話を切った。