私がその人と結婚すればすべてうまく行くの?
ナディアは、ある日結婚することになった。
しかしそれは決して幸せな結婚という種類のものではなかったし、誰からも祝われない結婚だった。
王宮の人々は彼女を可哀想なものを見る目で見たし、ある人は罪悪感で一杯の目で彼女を見た。
でも彼女はそんな目で見られても、どうすることもできない。
だって決まったものはしょうがないじゃないか。
***
ナディアは第二王女アンリエットの侍女である。
彼女はアンリエット王女の部屋に自由に出入りすることを許された、ただ一人の人間だった。
ナディアが飲み物をもって部屋に入っていくと、パジャマ姿のアンリエット王女がベッドの上で体を起こしたのだった。
「いつもありがとうね」
アンリエットは飲み物を受け取ると、それをゆっくりと時間をかけて喉に流し込んだ。
彼女はここ数年、病気で臥せっており、最近は食事もほとんど喉を通らなくなっていた。だから栄養を溶かし込んだ専用の飲み物を用意して、それを食事代わりにしていた。
「ねえ、ナディア」
「はい、アンリエット様。なんでしょう」
アンリエットは再びベッドに横になると、体を回してナディアの方を向いたのだった。
ナディアは目線の高さを合わせるために、椅子をベッドの横に持ってきて座った。
「私もう、長くはないんでしょ」
アンリエットは特に悲しむ様子や怖がる様子もなく、淡々と言った。まるで、来月の予定をカレンダーで確認するというような事務的な口調だ。
ナディアは両手で、アンリエットの右手を握った。
「それは誰にもわかりません。ですが私はきっとよくなると信じています」
「ありがとう、ナディア。でもね、私はわかるの。もうすぐ死ぬんだって。だって日ごとに体の力が抜けて行くのがわかるわ。それに食事だってこんなだし」
そう言って、先ほど口にした飲み物の容器に目をやって、アンリエットはほほ笑んだ。
「そんなこと。ちゃんとした食事ができるようになれば、きっと体力も戻ります」
「もういいの」
そう言ってアンリエットは、仰向けになり天井を見上げた。
「ここにずっと横になっているといろいろなことがよく見えてくるの。まるで上から見ているみたいに。俯瞰的っていうのかしら。それで私自身のこともね、拡大鏡で小さな生き物を観察しているみたいに、くっきりと細部までよくわかってしまうの。ナディア、そんな悲しそうな表情をしないで。私、不思議とそういうものだと受け入れられてる。すべてが静かで穏やかで、一日一日、あらゆるものが、自分も含めて透明になっていくような気がするの。それって結構、悪くないものよ」
もうすっかり死を受け入れているようなアンリエットの言葉を否定するために、ナディアは何か言いたかったが、今は何を言っても薄っぺらくなってしまうような気がした。
「とはいえ、私にも一つだけ心残りがあるの。クリストフのことよ」
クリストフ。アンリエットの恋人だ。お互いに想い合っているが、アンリエットが体調を崩してからは、彼女が自分の衰弱した姿を見せたくないと、会おうとしていない。
クリストフは、ナディアのところにいつもアンリエットの様子を聞きに来る。彼はアンリエットのことが大好きなのだ。
「それで、クリストフのことであなたに頼みたいことがあるのだけど。聞いてくれるからしら」
「はい、私にできることでしたら」
「あなたには十分できることよ。それを必ずやってくれるって約束してくれない? 私の一生のお願いよ」
アンリエットはそう言ってから、「今の私の『一生の』ってねえ」と言って苦笑いしたのだった。
「わかりました。お約束しましょう」
アンリエットがお願いなど、そんなことを言い出すのは初めてだ。だから、お願いの一つくらい叶えるなんて、容易いこと。ナディアはそう思って内容も聞かずに了承した。
「ありがとう。お願いっていうのは、もし私が死んだらね、私の代わりにナディアがクリストフと結婚して欲しいの」
それはナディアにとって、思いがけない言葉だった。他人を困らせるようなことを一切言わないアンリエットがそのようなことを口にするなんて、ナディアは予想できなかったのだ。
「私がクリストフ様と? そんな……」
「私が死んだらクリストフはとっても悲しむでしょう。それで一人で生きていけるか心配なの。誰か支えてくれる人がいないと駄目だわ。ナディアがそうしてくれたら、私、安心できる」
「そんな。私がアンリエット様の代わりにはなりません。いえ、他の誰だって代わりなんているわけないです」
ナディアが了承したとして、クリストフがそれを受け入れるだろうか。
いや、恐らく受けれ入れるだろうな。
それがアンリエットの最後の願いと聞いたら、彼はどんなことに代えてもそれを守ろうするだろう。
それだけ彼はアンリエットに一途で忠実なのだ。
しかしそうなったとして本当にうまくいくのだろうか。みんな幸せになれるのだろうか。
「ねえ、ナディアお願い。約束するって言ってくれたわよね」
「ええ、そうですが……」
「ごめんなさい。こんなずるいやり方をして。でもどうしても聞いて欲しくて」
そう言って、アンリエットはナディアの両手に、彼女の左手を重ねたのだった。
アンリエットがこんな強引な頼み方をしたことは今までにはなかった。わがまま一つ言うことのないような大人しい王女様なのだ。その彼女がこうやって、どうしてもと必死に頼むと、それは特別な重さを持つのだった。
ナディアは、必死に懇願するようなアンリエットの表情に、どうしても首を横に振れなかったのだった。
「わかりました」
その言葉を聞くと、アンリエットはほっとしたような表情になって、
「ありがとう。ナディア」と呟いた。
そして安心して力が抜けたようになって、目を瞑り、そのまま静かに寝息を立てはじめた。
***
ナディアはその日、アンリエット王女から言われたお願いのことで頭が一杯だった。そのせいで彼女はいつもならしないようなミスをしそうになって、焦ったりした。
そんなナディアの前にクリストフが深刻そうな表情をして現れて、
「相談したいことがあるんだが」
と話しかけてきた時には、「ちょっと待って、今は一杯一杯で無理です」と言いたくなった。しかもよりによってクリストフって。
だが、そんなことはもちろん口に出すことはなく、
「なんでしょう?」と平然として答えたのだった。
ナディアが大変そうな表情をすると、アンリエットに何かあったのだろうか、とクリストフがパニックになってしまう。だから、ナディアは平静を装わないといけない。
やれやれ、私も誰かにこの気持ちを吐き出したいよ。
さて、お次はクリストフ君。君の悩みはなんだい?
なんて、自棄っぱちのあまり心の中で軽口を叩くナディアにクリストフが持ち出した相談は、残念ながら、アンリエット王女のお願いと同じくらい重い内容の話だった。
「アンリエットの病気を沢山の医者に診てもらったけど、誰にもその原因は分からなかっただろう?」
クリストフは、相変わらず唐突な話の仕方をする。スタートの構えをせずに走り出す、みたいな感じだ。
「ええ」
「だが一人、彼女の病気をなんとかできるだろうと話す者がいてな」
「それは本当ですか?」
しかしナディアはそんな都合の良い話があるだろうか? と疑わしく思った。
本当であるよりかは、クリストフのアンリエットを治したいという気持ちにつけ込む詐欺の可能性の方が高いだろう、そう思ってしまう。
弱っている人間のところ、特に金持ちや貴族、王族なんかのところには、そういう人々を食い物にしようと欲深い邪な連中が大勢、舌なめずりをして集まってくる。王女を狙うそういった邪悪はナディアが振り払っているが、クリストフも狙われたのではないか。
「アンリエットの診察の時に、こっそりその医者にも診てもらったんだ」
「勝手なことを」
「すまない。でも君に言うと止められると思って」
「止めたでしょうね」
「それで、その医者は自分なら治せると言うんだ」
「それを信じたのですか?」
「私だってそこまで単純じゃないさ。でも他にないんだ、私には……今の私は水の中で溺れそうで苦しんでいるようだ。そこに藁が流れてくる。そしたらもう掴むほかない」
そう言って、クリストフは手を上に伸ばして、空中を掴むような動作をした。
「藁じゃあ、助かりませんよ」
「ただの藁じゃな」
クリストフも、医者の言葉が本当である可能性が低いことはわかっているのだ。それでも、たった一つの選択肢に手を伸ばせずにはいられない。
「話はわかりました。それで相談というのは?」
「ああ、そうだ。それが本題だった。その医者が言うには、『治すことはできる。だが条件がある』と言うんだ」
ナディアは、ほら、やっぱり裏がある、と思った。
一体どれだけの莫大な治療費を提示されたのやら。とにかく、アンリエット王女のためにも、クリストフが破滅してしまうような額にはならないよう、私が立ち回らなくては。
荷が重い仕事がどんどん増えていく。これは胃腸薬が相当量必要だな、とナディアは心の中でため息をついたのだった。
「で、その条件とは?」
「私の命だ」
「はい?」
「その医者が言うには、アンリエット王女を助けることはできるが、その代償に私の命を貰うと言うのだ。なんでも錬金術の一種を実行する際に必要らしい」
「いやいや。そんな話あり得ないし。まさか、その条件を受け入れることはないですよね?」
クリストフは、申し訳なさそうにほほ笑んだ。
「君の思う通りだよ」
ナディアは強く首を振った。
「いえいえ。それは駄目です。認められません。そんなの一番、誰も幸せにならない。そんな話本当なわけないじゃないですか」
そう懸命に言いながら、ナディアは無力感を感じた。もうクリストフの結論は出てしまっていて、変わらないということがわかっていたから。
「言っただろう。私の手元に残された方法は一つ。最後のカード。もう場に出せるのはこの一枚しかないんだ」
そういってクリストフは自分の胸を軽く叩いた。
「それに、もし医者の言うことが嘘だとしても、私は構わないんだよ。アンリエットが死んでしまう。そうなったら私が生きていようが死んでいようが同じだ。それより、最後の一つまであらゆる可能性に賭けずに、彼女が死んでいくことに私はどうしても耐えられない」
その言葉に、ナディアはアンリエットの気持ちも少し理解できてしまった。これは、自分の死んだ後のクリストフを心配するはずだ。
「すまない。勝手なことを。それで私の相談というのは、このことをアンリエットにどうやって伝えようかというかとなんだ」
「ええ、勝手ですね、本当に。私がそんな相談を聞けると思いますか」
「君を巻き込むのは悪いと思っているよ。でも君だけが頼りなんだ。頼む。一生のお願いだ」
そう言ってクリストフは頭を下げた。
「一生のお願い」か。今日二回目の言葉だ。そして片方のお願いを聞くと、もう片方の人は死んでしまう。いや、クリストフのお願いを聞くと両方か。
どちらかと言うのなら、アンリエット様のお願いを聞くしかないな。
ナディアはため息をついた。
じゃあ私がクリストフに、私と結婚してくださいって一生懸命お願いするのか?
いや、アンリエットのことしか頭にない彼にそんなの馬鹿げている。それに私もそこまで心が決まっていない。アンリエットのお願いだって、今朝聞いたばかりなのだ。
「クリストフ様のその覚悟、アンリエット様に伝えるなんて、私にはできません」
「どうしてもそれは変わらないか?」
「はい」
クリストフはナディアのことをじっと見た。でも、そんな風な目で見つめても、ナディアの考えは変わらない。
「わかった」
そう言って、クリストフはその場から歩き出した。
「今から私が直接話に行く」
「待ってください」
ナディアはそれは困ると思って止めようとした。しかし、クリストフは止まろうとしなかった。
そこでナディアは仕方がなく言ったのだった。
「クリストフ様、わかりました。方法を考えますから、今はやめてください」
するとクリストフはやっと足を止めた。
そして、クリストフはナディアに向かって、地面に頭がつくほどに深々と頭を下げたのだった。
「申し訳ない。この借りは絶対に返す。すべてが終わったら、君のお願いを一つ絶対に聞くから」
ナディアは首を強く振った。
それなら生きてくださいよ。そうしないとお願いだって聞けないでしょ。
しかし、今のクリストフにこれ以上言えることはなかった。
***
ナディアは一人になると、一年分くらいのため息をついたのだった。
一体どういうことだ。
私の周りでは誰も彼もが、自分の死を進んで受け入れようとしている。
このままだと、私まで死ぬって言い出すんじゃないか?
いや、そんな縁起でもないこと考えるんじゃないな。
ナディアは、落ち着いて、アンリエット王女とクリストフ、それぞれのお願いについて考えてみた。
ナディアが、最悪のパターンを回避するために、最初に思いついたのは次のような流れだった。
まずクリストフのお願いをアンリエットに話す。その上で、アンリエット王女と私で説得して、クリストフに自分の命を代償にするのを思いとどまってもらう。そしてその後、クリストフに私と結婚するようにお願いする。「お願いを一つ聞いてくれるって言ったでしょ」とか言って。
私がクリストフと結婚?
初めはあり得ないと思っていたのに、なんだか他に考えられる可能性が最悪すぎて麻痺してきた。それも十分にある選択肢なのではと思えてくる。
いや、ここは冷静になるべきだ。
クリストフと私が一緒になるって、落ち着いて考えたら、やっぱりそれはあり得ない。かなり馬鹿げた考えだ。
何か他に方法はないのだろうか?
一番の不確定要素はクリストフが見つけてきた医者だ。
人の命を代償に? 錬金術? 得体の知れない人物だ。
そうなると、まず目をつけるべきはそこだろう。
まずはその人物に掛け合って、クリストフの命を代償とするのをやめさせるよう交渉する。それを試みるべきじゃないだろうか。
それにしても、私は一体何をして、どこに向かっているのだろう。急にいろいろあって、ナディアは混乱していた。
しかし、今私が何もしなかったら、事態はどんどん悪い方へと進んでいく気がする。
私が何かをして、事態が良くなるかというと微妙だけど。
それでも、とにかくナディアは動き出したのだった。
***
ナディアは、クリストフにその医者を紹介してもらって、その人物と会う機会を作ったのだった。
ナディアが取り決めた時間に応接間を訪れると、そこに待っていたのは、およそ医者とは思えない風体の男だった。
ぱっと見では目立たなかったが、近づくと、締まった体にしっかり筋肉がついているのが服の上からでもわかった。白いけれども血色のいい肌。顔は若々しく、活力に満ちていた。男性にしては長めで無造作に乱れたダークブロンドの髪は、不潔な感じはしなかった。全体としては爽やかな印象があった。
外で体を動かすのを好む人物、兵士かスポーツマンかと言われた方がしっくり来る。
「やあ、こんにちは。ナディアさん」
「初めまして。クロードさんでしたよね」
「そうです。よろしく」
クロードはそう言うと、握手するために手を差し出し、ナディアに人懐っこい笑顔を向けたのだった。
クロードは、ナディアの予想していたイメージと違った人物だった。錬金術やら、クリストフに示した条件やらから考えると、もっと胡散臭いというか、どちらかというと、じとっとした陰湿な雰囲気の人間だと思っていた。
だがクロードは、外見だけで判断すれば、爽やかな好青年という印象だ。
クリストフが、彼をわずかでも信じようと思った訳がわかるような気がした。
クロードの笑顔は純真な少年のようで、それを向けられるとつい心を許したくなるのだ。
しかしそれが人の心の隙に入り込むための手管なのかもしれない。ナディアはこの人に流されないようにしよう、と気を引き締めた。
二人はしばらく挨拶代わりの雑談をしてから、本題に入ったのだった。
「クロードさん、王女様のご病気の件ですが」
「ああ、はい。クリストフさんから頼まれている」
「それで、何か代償が必要だとか」
「はい。クリストフさんの命を代償に頂くことになっています」
クロードは、商人がお安くなっておりますと言う時みたいな、にこやかな表情でそう言った。
「それなんです。それを考え直して欲しいのです。クリストフとアンリエット第二王女は恋人同士です。それなのに、どちらかが生きるために、どちらかが死ぬというのは、二人にとって、いや王宮の皆にとって、どうあっても救われません」
ナディアの言葉を聞くと、クロードはやや困ったような表情をした。
「と言いましてもね。私が生業とする錬金術においては、何も代償なしにという訳には行かないのですよ。何か等価なものが必要だ。この場合、クリストフさんの命を差し出すのをやめるというのなら、代わりのものがなければ。それが何かあるのでしょうか?」
それを聞くとナディアは、少しほっとした。交渉の余地はありそうだ。
しかし、クリストフの命と等価なもの、それについてナディアが思い巡らしても、なかなか良いアイデアは浮かばなかった。だから仕方がなく一つだけ浮かんだ案を出してみることにした。
「では私の命はどうでしょう?」
「ナディアさんの命?」
そう言ってクロードは訝しげな表情をした。
「あなたは王女様の侍女ですよね?」
「そうです」
「二人とは、恋人でもなければ、家族でもない。言ってみれば仕事上の付き合いでしかない相手ですよね」
「そうですね」
「それなのに、あなたが彼らのために命を差し出す」
「はい」
それを聞いて、クロードの眉間の皴が深くなり、彼は「わからないな」と小さく呟いたのだった。
ナディアは、とうとう今度は自分が死ぬなんて言い出したか、と苦笑した。馬鹿げた考えだと自分で思っていたのに、本当にそれを言い出すとは。
なんでそんなことを言ったのだろう。自分でもはっきりとはわからなかった。
でも、アンリエット王女とクリストフという愛し合っている二人が、よくわからないことに振り回されるのに腹が立ってきたのかもしれない。どういう運命が待ちかまえているにしろ、部外者には二人をそっとしておいて欲しい。
しばらくクロードは考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「堅苦しく喋るのは苦手なんだが。くだけた話し方でもいいかな。本音で話すためにはそうじゃないと、どうにも」
「いいわ。私もそうする」
「ありがとう」
本音で話そうというのは、良い兆候だ、とナディアは思った。確実に前進している。
「それで結論だが、君の命じゃ足りない」
「足りない?」
クロードは頷いた。
「なんで? クリストフのでも、私のでも同じ命でしょ」
「確かにそうだが、果たして君の命が、王女を愛する者の命の代わりになるだろうか?」
「それは……」
そう言われると、ナディアは確かに自分の命で代わりというのは、合わない気がしてきた。
「それなら、どうすればいいの? 私以外にも他の人の命を?」
「違うな。そんなもの足しにならない。代わりになるとしたら、もっとずっと価値のあるものだ」
「命より価値のあるものなんてあるのかしら。それは私があげられるもの?」
ナディアがそう聞くと、クロードは真面目な顔で、頷いて言ったのだった。
「うん、ある」
「それは何?」
クロードはナディアをじっと見つめ、真剣な表情のまま言ったのだった。
「愛だ」
「え、愛!?」
クロードの意外な言葉にナディアは驚いた。
「ああ、俺は君の愛が欲しい」
ナディアはそれを聞いて吹き出しそうになった。
この人は一体何を言っているのだろう。急に恋愛小説の一節でも朗読しはじめた?
しかしナディアは笑いそうになる気持ちを抑えて、その話を聞いてみることにした。何やら今までで一番いい場所へ繋がっている道がそこにある気がしたのだ。
「どういうことかしら?」
「要するに、君が俺と結婚するんだ。そうすればクリストフの命もいらない」
「そんなことでいいの?」
「そんなことって、君にとっては結婚ってそんなに簡単なことなの?」
「違うのかもしれないけど。今の私にはよくわからなくなってる。だって、他の選択肢がクリストフ様の命を代償にすることと、私がアンリエット様の想い人であるクリストフ様と結婚することでしょ。それを思えば、そんなことでいいのかって思えてしまう。でも本当に同じ価値なの? クリストフ様の命と、私との結婚」
「ああ。錬金術的には、愛と死は等価なんだよ」
「本当?」
クロードは、それに対して曖昧な微笑で返した。
ナディアはクロードの提案を少々考えてみたが、すぐに心は決まった。
「わかった。私があなたと結婚すればすべてうまく行くんでしょ? 受け入れるわ」
「決断が早いな。本当にいいんだな?」
「ええ」
それですべてがうまく行くのなら。
これで少なくともこれでクリストフが命をむやみに投げ打つことはない。私がこの男と結婚する代わりに、彼にはしっかり生きてもらおう。
まさかアンリエットの病気が本当に治ることはないだろうけどね。なにしろあらゆる医者がさじを投げた病気だ。そんなに簡単に治せる訳がない。
「一応言っておくが、王女を治療を開始する前に、俺と結婚してもらうぞ」
「わかったわ」
それはそうでしょうね、とナディアは思った。だって、王女様の病気が治せないとなった後に、結婚しろと言っても私が聞くわけないもの。料金は先払い。やぶ医者の手口だ。
「その後、私があなたを愛すればいいんでしょ?」
ナディアは仕事の手順を確認するような口調で言った。
「できるのか?」
「それでアンリエット様が悲しまないなら、王宮のみんなが幸せになるなら」
「そのために俺を愛してくれるのか?」
「ええ、そのためにあなたを愛するわ」
「そうか。でも、それって愛って言えるのかな?」
クロードは、面白そうな表情をしてそう聞いた。
「さあね。でも私、努力するわ」
そのナディアの言葉に、クロードは驚いた顔をした。そして、
「良い女だな」と呟いた。
***
ナディアとクロードの結婚が発表されると、彼女は王宮の人々から同情の目で見られたのだった。
皆、王女が医者に診てもらうための交換条件として、ナディアが結婚を受け入れたということを知っていたのだ。
望まぬ結婚、そういう風に囁かれた。
クリストフは、それ以降ナディアに対して申し訳なさそうにするのだった。
私があんなことを言ったせいで、ナディアを巻き込んでしまった、と何度も謝った。
ナディアは私のことは気にしないで、それより私がいなくなるんだから、アンリエット様をしっかり見てあげて下さい、それにあなたは絶対にこれから元気に生きて下さい。それが私やアンリエット様のあなたに対する願いです。
そう言うとクリストフは、健気に頷き、「きっとアンリエットを大切にするから」と力強く言った。
みんなから可哀想に思われていたが、ナディアはそれほど悲観的ではなかった。
だってもう決まったことだもの。まあ、そういうものとして受け入れるわ。
ただ一人祝福してくれた人もいた。アンリエット王女だ。
彼女には、クリストフが命を代償にしようとしたことや、ナディアが治療の交換条件として結婚を受け入れたことは秘密にしていたのだ。
ナディアはただ、とある人と結婚するから、王女様の侍女を辞めるとだけ伝えたのだった。
「おめでとう。ナディア。私、本当に嬉しいわ」
「でも、アンリエット様のお願いを叶えることができなくなりました」
「そんなのいいわよ。あなたにそういうお相手がいるなんて知らなかったわ。言ってくれればよかったのに」
アンリエットはそう言いながら、納得の行かない様子もあった。
なんで私の命はもう長くないのに、今辞めてしまうの。結婚をもう少しだけ遅らせることくらいできるでしょ。きっと、そう言いたいのだろうが、それはわがままだとわかって言わないようにしているのだろう。
でも結婚を遅らせることはできない。だって、アンリエットが生きているうちじゃないと治療はできないし、そのための結婚なのだ。錬金術での治療なんて怪しげで眉唾物だけど、クリストフの最後の頼みの綱だから。
ナディアはアンリエットに余計なことは言わないでいた。
アンリエットは本当のことを知ったら納得しないだろう。でもナディアが結婚のために辞める、というなら、おめでたい話だけですべてが完結する。それが一番いいだろう。
***
ナディアは荷物をまとめて、クロードの家に向かったのだった。
その日は朝から引っ越し作業をしたが、彼女のために用意された部屋にどうにか荷物を運び入れたときには、もう夜だった。
しかし、二人は全く新婚らしくない出だしを切ったのだった。
まあ成り行きを考えれば当然だったが。
ようやく落ち着いたナディアに、クロードは言い放ったのだ。
「今から俺は作業を始める。その間はこの部屋には、絶対に入らないでくれ。集中したいから」
そう言うと、ナディアの返事も聞かずに、仕事部屋にしているらしい部屋に入って行ってしまった。
ナディアは「慌ただしい人ね」と意に介さず、リビングのテーブルに向かって腰を下ろし。テーブルの上にあった果物を手に取った。
なかなか、これいけるわね。
ナディアが呑気に果物を食べていると、クロードのいる仕事部屋から、なにやら呻き声のようなものが聞こえてきたのだった。
しかしナディアは、「絶対に入るなって言ってたものね」と呟いて、放っておくことにした。
その声は一定時間続けて聞こえたり、と思うと聞こえなくなったり、というように、聞こえたり聞こえなくなったりを繰り返した。
しばらくすると、仕事部屋から今度はクロードがぶつぶつ呟く声が聞こえた。
しかもその内容が不穏だった。
「なんて駄目なやつ」とか、「馬鹿じゃないのか」と罵倒する内容。
それから、「俺は何で生きているんだ」とか「惨めだ。俺はもう駄目だ。消えてしまいたい」とか、そういう苦しそうな声が聞こえる。
やがて、物がぶつかるような音がしはじめた。何かを部屋の中で投げているらしい。
だんだんとそれは酷くなり、ナディアはついに耐えられなくなった。
「クロードが何を言おうと知らないわ」
そう呟いて、仕事部屋の扉を開けて、ナディアはその中に遠慮なく足を踏み入れたのだった。
部屋の中は大惨事だった。
ナディアにはがらくたにしか見えないものが足下に散乱し、さらにクロードが投げたものが飛んできたりした。ナディアはそれを避けたり、物をかき分けたりして、クロードのところにたどり着いたのだった。
そして苦しい叫び声を上げながら、ひたすら周りのものに当たり散らしているクロードを、ナディアはぎゅっと抱きしめた。
しばらくはクロードは暴れていた。彼は爪を、自分の手の甲に強く立てて引っかいたりしていた。見ると彼の体は引っかき傷だらけだ。自分で付けたのだろう。
しかしナディアが抱き締めていると、次第に落ち着いてきた。体から力が抜けたようになり、荒い息をしてナディアの腕の中でぐったりとしたのだった。
そして我に返ったように呟いた。
「すごいな。錬金術中にこんなにしっかり理性が戻るなんて。なんだこれは。これが愛か?」
クロードは消え入りそうな声でそう言ったのだった。
「いいえ、ただの抱擁よ」
ナディアはそう笑って言った。
酷い有り様の仕事部屋の中でも、ナディアがそんな風に笑ってくれたので、クロードは更に落ち着いた気持ちになったのだった。
そしてしばらく呼吸を整えると、クロードは言ったのだった。
「もしよかったら、このまま一緒にいてくれないか。朝までかかるかもしれないけど」
「わかった。いいわよ」
クロードは作業を再開した。
彼は様々な器具をいじったり、何やらメモをしたり、ぶつぶつ何か呪文のようなものを唱えたりした。そうすると、大きなガラスの容器の中に入った液体が、光ったり色を変えたりした。
クロードが呪文のようなものを唱える度、クロードの体が震えはじめるので、その度にナディアは彼の手を握った。そうすると、震えが収まった。
さらに、時折「もう無理だ」とか弱音を吐くので、「大丈夫よ」とか励ましたりするのだった。
そんなことを長時間続けていると、いつの間にか外は明るくなっていた。それから数時間が経ったころ、ようやく作業は終わったのだった。
その場にへたり込もうとするクロードを、ナディアは支えながらリビングに連れていった。
そしてお湯を沸かして、温かい飲み物を作って飲ませた。
クロードは話すのも辛そうなくらい衰弱していたが、ゆっくりとその飲み物を喉に流し込んだ。
ナディアはそれを何も言わずに見守っていた。
やがて、少し元気が出てきたのか、クロードは口を開いたのだった。
「一日で終わるとはな。いつものペースなら三日はかかると思ってたのに」
「いつもこんなことを三日間も続けているの? まさか寝ずに?」
「いや、大抵は一晩で終わるよ。でも今回のは特別、骨の折れる作業だからな」
「一晩でも、あんなのとんでもないわ。ちなみにやっていた作業って」
「もちろん、王女の病気を治す薬だ」
「そうなのね。あなたを疑っていた自分が恥ずかしいわ。結婚したら、アンリエット様を治療してくれるとは言ってたけど、最初の日に、すぐさまやってくれるなんて。あなたのこと思い違いしてた」
「そんなものさ。錬金術師の言うことを信じるやつなんていないんだよ。君に限らずさ。だから全然気にしていない」
クロードは、少し寂しげに笑って、そう言った。
「ところで、クロード。アンリエット様の薬、作業が終わったって言ってたけど、まさか完成したわけじゃないわよね。工程が一つ終わったとか?」
「いや、薬は完成したよ。もうあとは王女がそれを服用するだけだ。五日後に業者が来るように手配してある。専用の冷蔵庫の中に包みが一つだけ入れてあるから、悪いけど渡してくれないか?」
「わかった」
「ナディアも、その業者と一緒に王宮に行ってもいいぞ。王女様の経過が気になるだろう」
「確かに、そうね。でもあなたは?」
クロードは、力なく笑って言った。
「俺は一ヶ月は家から出られないかな。いつもは一週間くらいなんだけど、今回のは特に消耗が激しいから」
「なら私も行かないわ」
「いいのか? 薬が効くのか確かめなくても」
「効くに決まってる」
ナディアがきっぱりとそう言うと、クロードは目を丸くした。
「錬金術師の言うことを信じるなんて馬鹿なやつだ」
その時、クロードは体がふらついて、テーブルの上に手をついたのだった。
「もう横になりましょう。連れていってあげるから」
ナディアはクロードを支えながら寝室に連れていった。
クロードはベッドに横になると、
「作業後にベッドで寝れるなんてな。ナディアが来てくれてよかったよ。それにしても、錬金術師なんかと結婚するなんて馬鹿なやつ……」
そう呟くと、クロードは気を失うように眠ってしまった。
ナディアは、その眠る姿をしばらく見つめてから部屋を出ていったのだった。
***
それから一ヶ月後、クロードはすっかり元気になっていた。
「王宮から状況を報告する手紙が来ていたわ」
「どんな感じだろう」
とクロードはやや緊張した面持ちで尋ねた。
ナディアはそんなクロードの顔を面白そうに見てから、ほほ笑んで言った。
「見違えるように良くなっているそうよ。もうしばらくしたら、クリストフとの婚約を発表するって」
「そうか。よかった、安心したよ」
クロードは心底ほっとしたような顔をした。
「すべてうまく行ったわね。あなたと結婚してよかったわ」
「そうか」
とクロードは苦笑いして言った。
ナディアは気になっていたことがあったので、聞いてみることにした。
「でも、本当はクリストフ様の命なんか代償に必要なかったんでしょ」
クロードはわざとらしく首を傾げて見せた。
「さあ、どうだろう。でも、もしそうなら君も俺と結婚する必要はなかったことになるな」
「そうね」
「もしそうだったら、俺との結婚、後悔するかな?」
クロードは不安そうな表情でナディアの様子を窺った。
「さあ、どうかしら」
クロードはそれを聞いて苦笑した。
「はあ。錬金術師みたいな返事をするね。本当に厄介だ」
「クロード。それで、これからはどうするの? 慌ただしくて聞いてなかったんだけど、錬金術師が普段どんな風にしているのか私知らない。もし手伝えることがあれば手伝うけど」
「それなんだけど」
クロードは、次の言葉を言おうか迷っているように間を置いた後、続けたのだった。
「俺は旅に出ようと思う」
「旅? 急ね」
「うん。今までの俺はこの家を拠点にして、ここから手の届く範囲のことしかしてこなかった。でもそれだけじゃなくて、広い世界に出て行って、いろんな人のために自分の力を使うのもいいかなって、ふと思ったんだよ」
「いいんじゃない?」
「ありがとう。きっかけはナディアの言葉なんだけど」
「私、何か言ったかしら」
「王女様や王宮の人たちのために俺と結婚するって言ってたことだよ。他人の幸せのためにそこまでできるんだって驚いたんだよ。それでいろいろ考えたんだ」
「ふうん。私ってそんな大した人間じゃないと思うけど。別に望んでそうしたわけじゃないし、他に選択肢がなかったからそうしただけ」
「そう口では言ってもさ。君が実際にやってることは全くそれ以上だよ。まあ、それで、旅にはナディアも一緒に来てくれると嬉しいなって思うんだけど」
ナディアはその言葉に不思議そうな顔をした。
「それは当然でしょ。逆になんで一緒じゃないと考えたの? だいたいあんな風に仕事をするあなたが、一人で旅なんて無理でしょ」
「そうなんだ。聞いておいてなんだけど、実はナディアがいる前提の計画なんだ。俺は、錬金術の負担や反動の大きさから、ずっとこの家から離れられなかった。でも君と一緒なら旅にも出られる自信が出てきた」
「全く、仕方がないわね。でも旅も良いかもしれない。私も王宮や王都からほとんど出たことはないし」
「じゃあ決まりだな」
そうして二人は旅の支度を始めた。
王宮からの手紙には、アンリエット王女からの手紙もあって、ナディアに申し訳なく思っているという内容が繰り返し書かれていた。
クリストフから、自分の治療のための条件としてナディアがクロードと結婚をしたことを聞いたという。
自分のために望まぬ結婚をさせてしまって、とても心苦しい。私に出来ることがあったら、何でも言って欲しい。そういうことが書いてあった。
ナディアがそのことをクロードに言うと、
「そんなこと言われてもなあ。そうだな。じゃあ安心させるために、旅先で、画家に俺たち二人の幸せそうな絵姿でも書いてもらって送るとか?」
「そんな、一方的に送りつけるの? 迷惑じゃない?」
「じゃあ、向こうにも滞在先に送ってもらえばいいんじゃないか? あっちは仲良しなんだろう?」
「たしかにそれはいいかもね」
「本当にいいのか? 絵姿を書いてもらうのは結構大変かも。二人で隣同士座って、長時間にこにこしなきゃいけないかもしれないぞ」
「別に嫌じゃないわ。アンリエット様のためならそれくらいできる」
「アンリエット様のためならね。相変わらずだね」
そう言ってクロードは笑った。
旅の支度をしながら、ナディアは思いついたことがあった。
「旅先で仕事をするなら、名刺とかあった方がいいわよね」
「ああ。まあ、そうだな」
「私が考えてあげようか。文面とか」
「ほう、どんな感じだろう」
「私が今、考えついたのはね。こんな感じ」
ナディアは小さな紙片を持ってきて、そこに文字を書いた。
エセ医者或いは悪徳錬金術師
クロード
「どうかしら?」
クロードは、それを見てふふと笑った。
「悪くない。俺にぴったりだ。じゃあ君のは?」
「私の? 私は……こうよ」
その妻
ナディア
「それだと別々にしたらわからないだろう。それに君には、その肩書きだけじゃ物足りないな」
「じゃあ、こうかしら?」
猛獣使い
ナディア
「いいね。あとは、君が鞭を持って歩けば完璧だな」
「やめて」
そんな風にして二人は準備を整え、出発の日を迎えた。
ナディアは手配した運送業者の馬車に荷物を積み込んで、先に目的地に送っていた。クロードは送る荷物はなく、出発の日に手提げ鞄を一つだけを持っていた。
「意外と軽装ね」
「まあね。必要な物は現地調達すればいい。それにさ、一番大切なものは、しっかり持ってる」
そう言って、クロードはナディアの手を握った。
「また調子いいこと言って。さあ行くわよ」
そう言うと、ナディアがいきなり歩きはじめたので、手を引っ張られたクロードは転びそうになった。
「ああ、待ってよ、ナディア」
しかしナディアは足を止めないので、クロードは一生懸命足を動かしてついて行くのだった。
端から見たら仲の良い夫婦にしか見えない二人は、こうして旅に出たのだった。