表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/21

第9話

小さな衣擦れの音で目が覚めた。


はっとして目を開けたアンの枕元に膝をついていたのは、ミズベの姫の傍にずっといた、黒髪の青年だ。

「逃げなさい」

不思議な深い声だった。

「……え?」

「早く。見つかってしまう」

「え、ええ?」

「いいから早く…」

青年が、アンの腕を掴む。


その時だった。


「何をしているの…」

天幕の入り口に、人影があった。

月明かりで照らし出された顔は、ぞっとするほど美しい。

「姫」

青年の顔に動揺が現れる。

「何をしているの…」

独白のような呟き。

「どうして…どうしてあなたなの。ルーセル様だけじゃなく、サーチェスまで…どうして…」

姫の瞳はどこかうつろだった。

「どうして…私は辛いことだって何でもしてきたわ。王女として、義務を果たしてきたのよ。自分を抑えて…なのにどうしてあなたなの。どうして私は幸せになれないの…どうしてっ……!」

姫は呟きながら、懐から小さなナイフを取り出した。

振り下ろされる、白銀の刃。


どん


不気味な沈黙を、辺りが支配した。




「え……?」

呆然として、姫は目の前の相手を見上げた。

黒髪の青年は、優しく笑ってその場に崩れ落ちる。

「…サーチェス!!」

乾いた音を立てて、血に染まったナイフが落ちた。

「何で、どうして……」

震える手で溢れる血を止めようとするが、血の量が多すぎでどこが傷口なのかわからない。

サーチェスはその手を取ってもう1度姫に笑いかけた。

「姫…」

「しゃべらないで」

「姫…聞いてください。私は、あの女を逃がそうとしました。わかるでしょう?ルーセル様の心は、姫のものではありません」

姫は涙で濡れた顔を歪めた。

「姫は、私を助けて下さいました。その日から私は姫の為に…あなたが望む事ならどんな事でも、叶えてきました。…けれどもそれは、間違っていたのかもしれません。私などが傍にいなければ、あなたはもっと…幸せになれたはずなのに……」

「やめて…わかったからもうしゃべらないで!」

「いいえ、姫。……私は死にます。聞いて下さい。…もう、こんな事は止めて下さい。あなたもわかっているでしょう?世の中は、あなたが思うほど汚い所ではありません。…姫が笑えば、笑い返してくれる人だっているんですよ」

「―――……」

「…姫、今まで本当にすみませんでした。…でも、私は、あなたと生きていて、幸せだっ…」

不快な呼吸音が続き、姫は青年の体をぎゅっと抱きしめた。

命を繋ぎ止めておくかのように。




振り下ろされる、白銀の刃――…


そして―――…


そして…


流れる血。

赤い血。

ルーセルの、血。




あの時自分はひどく凶暴な気持ちだった。


――じゃあ、あたしが死ねって言ったら死ねるの?


――死ねるよ。


自分はルーセルを殺そうとした。

そして、それを忘れたふりをして生きてきた。


逃げるように。


ルーセル。


どうしよう。


どうしようどうしようどうしよう。




「アン!!!」




懐かしい声が聞こえた。




ルーセルの姿を見た瞬間に、アンの瞳が大きく見開かれ、そして気を失って倒れこむのを、ギルは確かに見た。

が、視線はすぐに部屋の中央へと移る。

そこではミズベの姫の腕の中、黒髪の男が血だらけで抱きかかえられていた。

明らかに彼は死に向かっている。

まずはそちらが優先だ。

「ユーリ。治療道具を探して来てくれないか。多分天幕のどこかにある」

「わ、わかった」

言うや否や駆け出して行くユーリの足音を聞きながら、ギルは男の元へ駆け寄る。

「おいあんた、手を離して、寝かせてくれないか?」

すっかり放心状態で座り込む姫の肩を揺さぶった。

一体何があったのか知らないが、今は患者が第一だ。

大きな悲しみに彩られた瞳を見つめ、ギルはしっかり頷いた。

「大丈夫。まだ生きてる」

その言葉で姫の瞳にかすかに光が戻る。

「ルーセル、手伝ってくれ。アンは気を失ってるだけだ」

アンの傍にいたルーセルに声を掛けると、彼はすぐにやって来た。

「本当に?」

ギルに指示された通りに傷口の服を切り裂きながら、ルーセルは震える声で問いかける。

「ああ、アンはどこにも怪我はしてない」

視線を合わせずにギルは答えた。


間違いは言っていない。

が、これが全てではなかった。

アンは、ルーセルを見て気を失ったのだ。あんな尋常ではない表情をして。

「あったわ!」

ユーリが医療箱を手に駆け寄ってくる。

中身を確認して、ギルは2、3足りない物をさらに取りに行ってもらった。

「何か手伝う事は」

他の天幕を見回ったアスカルドが戻ってきた。ミズベの兵士たちは、誰の仕業が知らないが魔法で眠らされているそうだ。どちらにしろ騒ぎが大きくならずに済むなら好都合である。

「こっちは大丈夫だ。それよりもそこの姫様と、それからアンをベットにでも寝かせてやって」

「え…」

アンの名前にルーセルが反応する。

「ルーセル。手、動かすな」

「あ、ああ、ごめん」

アスカルドはアンを抱き、姫を連れて天幕を出て行った。

アスカルドが何も聞かずにいてくれた事が有難かった。


本来ならば応急処置の心得のあるアスカルドにルーセルと代わってもらうべきだろう。

が、アンが目覚めた時にそこにいるのがルーセルだけだったら…歓迎できない事態が起こるかもしれない。



ミズールの天幕の外で、ギル達はサミンの天幕へ帰る準備をしていた。

例の青年は一命を取り留めた。

魔法で眠らされた兵士たちはまだ目を覚まさない。

魔法をかけたのが青年であるならば、問題なく目覚めるだろう。

もう日も昇ろうとしていた。

事を大きくしないためにも、早く戻るべきであろう。

アスカルドが他の隊員を呼び寄せ、人数分の馬を用意させた。


ユーリはまだ気が済まないらしく、ギルの隣に立ってぶつぶつ言っている。

「何よあれ。自分が何したかわかって…」

確かにユーリの言い分はわかる。

姫は何も言わず、放心したように黒髪の青年の隣に座り込んでいただけだから。

だがもう関わりたくない、というのがギルの本音だった。

と言うよりも、暖かいベットの中で何も考えずに眠りたい、というのが。

止める元気がないギルの代わりに、ルーセルがユーリを諌める。

「仕方ないよ。アンも無事だったし。…帰ろう」

ルーセルは護衛隊の馬に乗せられたアンを見てほっと息を吐く。

「じゃあ僕、姫に一言言ってくる」

天幕に戻るルーセルの背を、暗い表情のままギルは見送る。


ルーセルは全て終わったと思っている。

そう考えてため息をつきたくなった。

ミズべの姫とは縁が切れたし、アンも戻ってきたと。

無事に。


「で?」

隣に立つユーリが、1歩ギルに近づいた。肩が触れ合うくらいの近さだ。

その声は隣に立っていなければ聞こえないくらいの大きさ。

「何が?」

「すっとぼけないでよ。何か心配事があるんでしょ。…アンの事で」

「………」

はぐらかすべきか、言うべきか。


ギルはしばらく考え込んだが、その間がユーリに答えを与えてしまっていた。

「嘘言おうとしたってダメよ。早く話しなさいよ。ルーセル様が来ちゃうでしょ」

ギルはユーリに目をやった。

彼女の瞳は真剣で、真っ直ぐにギルを見つめている。

彼は決心してようやく口を開く。


――もしかしたら、例えば。




「……トラウマ?」

静かにルーセルは問い返した。

荷箱に座ったギルが、アンの脈を取りながら頷く。

あれからまる1日が経っていた。

しかしアンは未だに目覚めず、一行はここアスウィールの天幕に足止めされたままだ。

「ああ。…アンはあの時の事を、忘れて、また思い出した。そんな変なやり方をしたからかもしれないけど、アンはお前みたいに心の整理がついてないんだ。だからきっと、ナイフとか血を見てパニックを起こした」

「――…」

ルーセルはぼんやりと思い返した。

遥か昔の、幼い日の事を。


ルーセルの中で、それはもはや笑い話にも等しい出来事だ。

アンにはっぱを掛けられて、自分で自分を刺したなんて。

傷は消えずに残ってしまったけれど、自分では勲章みたいなものだった。

それが、今更こんな事になってしまうなんて。


アンの心に、傷を残してしまうなんて。

今も彼女を苦しめてしまうような、そんな傷を。

アンのベットの脇に座るユーリが、気遣わしげな視線を向ける。

「そう言えば…たまに、嫌な夢を見ることがあるって言ってたわ」


ルーセルはじっとアンの寝顔を見つめた。

ずっとアンが目覚めるのを待っている。

けれど、目覚めた時何と言えばいいのだろう。

ルーセルは握り合わせた両手を口元に当てた。

謝ればいいのか?でも、アンはそれを望むだろうか。

そもそも、謝って済む問題じゃないだろう。

瞼がぴくりと動いたような気がして、ルーセルは腰を浮かした。


「アン…?」

間違いない。アンは目覚めようとしている。

「アン!」

アンがうっすらと目を開き天井を見た。

屈みこんで、ユーリが優しく語り掛ける。

「気分はどう?」

アンの視線はゆっくりとユーリに向かい、軽く瞬きを繰り返した。

「え?あたし…」

額を押さえながらベットから起き上がる。


「よかった……」

ルーセルの吐息に、ようやくアンがこちらを見た。そして驚愕に目を見開く。


ばっと、顔を背けた。


「……アン?」

「来ないで」

その声は硬く、そして震えていた。

「来ないでお願いあっちへ行って早く」

「え?アン…?」

手を伸ばそうとしたら、アンの怯えた瞳と出会った。

すぐにアンはぎゅっと耳に両手を当て、目を閉じ、震える体をルーセルから遠ざける。

「ルーセル。出よう」

ギルに肩を掴まれて、ようやくアンの言葉全てが、自分に、自分だけに向けられたものであると理解した。



拒絶。



「だってあたしルーセルの事傷つけちゃうから絶対に危なくて。だから。早く行ってよどっかに!!」

「―――」

「ルーセル!」

半ば引きずられるようにして、ルーセルは天幕から出た。




「ルーセル、しっかりしろ」


ギルが言った。


「アンを助けられるのは、お前だけなんだからな」


どうやって。だって自分の顔すら見たくないって言ってるのに。



しばらくして、天幕から出てきたユーリが言った。


「アンからルーセル様に、ごめんなさいと、伝えてくれと…」






―――――つらかった。



つらくてつらくて、泣けなかった。


















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ