第9話
小さな衣擦れの音で目が覚めた。
はっとして目を開けたアンの枕元に膝をついていたのは、ミズベの姫の傍にずっといた、黒髪の青年だ。
「逃げなさい」
不思議な深い声だった。
「……え?」
「早く。見つかってしまう」
「え、ええ?」
「いいから早く…」
青年が、アンの腕を掴む。
その時だった。
「何をしているの…」
天幕の入り口に、人影があった。
月明かりで照らし出された顔は、ぞっとするほど美しい。
「姫」
青年の顔に動揺が現れる。
「何をしているの…」
独白のような呟き。
「どうして…どうしてあなたなの。ルーセル様だけじゃなく、サーチェスまで…どうして…」
姫の瞳はどこかうつろだった。
「どうして…私は辛いことだって何でもしてきたわ。王女として、義務を果たしてきたのよ。自分を抑えて…なのにどうしてあなたなの。どうして私は幸せになれないの…どうしてっ……!」
姫は呟きながら、懐から小さなナイフを取り出した。
振り下ろされる、白銀の刃。
どん
不気味な沈黙を、辺りが支配した。
「え……?」
呆然として、姫は目の前の相手を見上げた。
黒髪の青年は、優しく笑ってその場に崩れ落ちる。
「…サーチェス!!」
乾いた音を立てて、血に染まったナイフが落ちた。
「何で、どうして……」
震える手で溢れる血を止めようとするが、血の量が多すぎでどこが傷口なのかわからない。
サーチェスはその手を取ってもう1度姫に笑いかけた。
「姫…」
「しゃべらないで」
「姫…聞いてください。私は、あの女を逃がそうとしました。わかるでしょう?ルーセル様の心は、姫のものではありません」
姫は涙で濡れた顔を歪めた。
「姫は、私を助けて下さいました。その日から私は姫の為に…あなたが望む事ならどんな事でも、叶えてきました。…けれどもそれは、間違っていたのかもしれません。私などが傍にいなければ、あなたはもっと…幸せになれたはずなのに……」
「やめて…わかったからもうしゃべらないで!」
「いいえ、姫。……私は死にます。聞いて下さい。…もう、こんな事は止めて下さい。あなたもわかっているでしょう?世の中は、あなたが思うほど汚い所ではありません。…姫が笑えば、笑い返してくれる人だっているんですよ」
「―――……」
「…姫、今まで本当にすみませんでした。…でも、私は、あなたと生きていて、幸せだっ…」
不快な呼吸音が続き、姫は青年の体をぎゅっと抱きしめた。
命を繋ぎ止めておくかのように。
振り下ろされる、白銀の刃――…
そして―――…
そして…
流れる血。
赤い血。
ルーセルの、血。
あの時自分はひどく凶暴な気持ちだった。
――じゃあ、あたしが死ねって言ったら死ねるの?
――死ねるよ。
自分はルーセルを殺そうとした。
そして、それを忘れたふりをして生きてきた。
逃げるように。
ルーセル。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
「アン!!!」
懐かしい声が聞こえた。
ルーセルの姿を見た瞬間に、アンの瞳が大きく見開かれ、そして気を失って倒れこむのを、ギルは確かに見た。
が、視線はすぐに部屋の中央へと移る。
そこではミズベの姫の腕の中、黒髪の男が血だらけで抱きかかえられていた。
明らかに彼は死に向かっている。
まずはそちらが優先だ。
「ユーリ。治療道具を探して来てくれないか。多分天幕のどこかにある」
「わ、わかった」
言うや否や駆け出して行くユーリの足音を聞きながら、ギルは男の元へ駆け寄る。
「おいあんた、手を離して、寝かせてくれないか?」
すっかり放心状態で座り込む姫の肩を揺さぶった。
一体何があったのか知らないが、今は患者が第一だ。
大きな悲しみに彩られた瞳を見つめ、ギルはしっかり頷いた。
「大丈夫。まだ生きてる」
その言葉で姫の瞳にかすかに光が戻る。
「ルーセル、手伝ってくれ。アンは気を失ってるだけだ」
アンの傍にいたルーセルに声を掛けると、彼はすぐにやって来た。
「本当に?」
ギルに指示された通りに傷口の服を切り裂きながら、ルーセルは震える声で問いかける。
「ああ、アンはどこにも怪我はしてない」
視線を合わせずにギルは答えた。
間違いは言っていない。
が、これが全てではなかった。
アンは、ルーセルを見て気を失ったのだ。あんな尋常ではない表情をして。
「あったわ!」
ユーリが医療箱を手に駆け寄ってくる。
中身を確認して、ギルは2、3足りない物をさらに取りに行ってもらった。
「何か手伝う事は」
他の天幕を見回ったアスカルドが戻ってきた。ミズベの兵士たちは、誰の仕業が知らないが魔法で眠らされているそうだ。どちらにしろ騒ぎが大きくならずに済むなら好都合である。
「こっちは大丈夫だ。それよりもそこの姫様と、それからアンをベットにでも寝かせてやって」
「え…」
アンの名前にルーセルが反応する。
「ルーセル。手、動かすな」
「あ、ああ、ごめん」
アスカルドはアンを抱き、姫を連れて天幕を出て行った。
アスカルドが何も聞かずにいてくれた事が有難かった。
本来ならば応急処置の心得のあるアスカルドにルーセルと代わってもらうべきだろう。
が、アンが目覚めた時にそこにいるのがルーセルだけだったら…歓迎できない事態が起こるかもしれない。
ミズールの天幕の外で、ギル達はサミンの天幕へ帰る準備をしていた。
例の青年は一命を取り留めた。
魔法で眠らされた兵士たちはまだ目を覚まさない。
魔法をかけたのが青年であるならば、問題なく目覚めるだろう。
もう日も昇ろうとしていた。
事を大きくしないためにも、早く戻るべきであろう。
アスカルドが他の隊員を呼び寄せ、人数分の馬を用意させた。
ユーリはまだ気が済まないらしく、ギルの隣に立ってぶつぶつ言っている。
「何よあれ。自分が何したかわかって…」
確かにユーリの言い分はわかる。
姫は何も言わず、放心したように黒髪の青年の隣に座り込んでいただけだから。
だがもう関わりたくない、というのがギルの本音だった。
と言うよりも、暖かいベットの中で何も考えずに眠りたい、というのが。
止める元気がないギルの代わりに、ルーセルがユーリを諌める。
「仕方ないよ。アンも無事だったし。…帰ろう」
ルーセルは護衛隊の馬に乗せられたアンを見てほっと息を吐く。
「じゃあ僕、姫に一言言ってくる」
天幕に戻るルーセルの背を、暗い表情のままギルは見送る。
ルーセルは全て終わったと思っている。
そう考えてため息をつきたくなった。
ミズべの姫とは縁が切れたし、アンも戻ってきたと。
無事に。
「で?」
隣に立つユーリが、1歩ギルに近づいた。肩が触れ合うくらいの近さだ。
その声は隣に立っていなければ聞こえないくらいの大きさ。
「何が?」
「すっとぼけないでよ。何か心配事があるんでしょ。…アンの事で」
「………」
はぐらかすべきか、言うべきか。
ギルはしばらく考え込んだが、その間がユーリに答えを与えてしまっていた。
「嘘言おうとしたってダメよ。早く話しなさいよ。ルーセル様が来ちゃうでしょ」
ギルはユーリに目をやった。
彼女の瞳は真剣で、真っ直ぐにギルを見つめている。
彼は決心してようやく口を開く。
――もしかしたら、例えば。
「……トラウマ?」
静かにルーセルは問い返した。
荷箱に座ったギルが、アンの脈を取りながら頷く。
あれからまる1日が経っていた。
しかしアンは未だに目覚めず、一行はここアスウィールの天幕に足止めされたままだ。
「ああ。…アンはあの時の事を、忘れて、また思い出した。そんな変なやり方をしたからかもしれないけど、アンはお前みたいに心の整理がついてないんだ。だからきっと、ナイフとか血を見てパニックを起こした」
「――…」
ルーセルはぼんやりと思い返した。
遥か昔の、幼い日の事を。
ルーセルの中で、それはもはや笑い話にも等しい出来事だ。
アンにはっぱを掛けられて、自分で自分を刺したなんて。
傷は消えずに残ってしまったけれど、自分では勲章みたいなものだった。
それが、今更こんな事になってしまうなんて。
アンの心に、傷を残してしまうなんて。
今も彼女を苦しめてしまうような、そんな傷を。
アンのベットの脇に座るユーリが、気遣わしげな視線を向ける。
「そう言えば…たまに、嫌な夢を見ることがあるって言ってたわ」
ルーセルはじっとアンの寝顔を見つめた。
ずっとアンが目覚めるのを待っている。
けれど、目覚めた時何と言えばいいのだろう。
ルーセルは握り合わせた両手を口元に当てた。
謝ればいいのか?でも、アンはそれを望むだろうか。
そもそも、謝って済む問題じゃないだろう。
瞼がぴくりと動いたような気がして、ルーセルは腰を浮かした。
「アン…?」
間違いない。アンは目覚めようとしている。
「アン!」
アンがうっすらと目を開き天井を見た。
屈みこんで、ユーリが優しく語り掛ける。
「気分はどう?」
アンの視線はゆっくりとユーリに向かい、軽く瞬きを繰り返した。
「え?あたし…」
額を押さえながらベットから起き上がる。
「よかった……」
ルーセルの吐息に、ようやくアンがこちらを見た。そして驚愕に目を見開く。
ばっと、顔を背けた。
「……アン?」
「来ないで」
その声は硬く、そして震えていた。
「来ないでお願いあっちへ行って早く」
「え?アン…?」
手を伸ばそうとしたら、アンの怯えた瞳と出会った。
すぐにアンはぎゅっと耳に両手を当て、目を閉じ、震える体をルーセルから遠ざける。
「ルーセル。出よう」
ギルに肩を掴まれて、ようやくアンの言葉全てが、自分に、自分だけに向けられたものであると理解した。
拒絶。
「だってあたしルーセルの事傷つけちゃうから絶対に危なくて。だから。早く行ってよどっかに!!」
「―――」
「ルーセル!」
半ば引きずられるようにして、ルーセルは天幕から出た。
「ルーセル、しっかりしろ」
ギルが言った。
「アンを助けられるのは、お前だけなんだからな」
どうやって。だって自分の顔すら見たくないって言ってるのに。
しばらくして、天幕から出てきたユーリが言った。
「アンからルーセル様に、ごめんなさいと、伝えてくれと…」
―――――つらかった。
つらくてつらくて、泣けなかった。




