第8話
「は?」
サミン国天幕にて。
ルーセルとアンの帰りを待っていた人々は、非常識な速度で馬車を飛ばして帰ってきたルーセルの言葉を、呆然として聞いていた。
アンがいなくなった。
ミズールの姫と踊った後、ルーセルはずっと壁の花だった。
アンの姿を確認しなかったのなんてほんの一瞬だ。
なのに気付いたら、アンの姿が見えなかった。
医務室にも行った。中庭も探した。
マクレードにもそれとなく聞いてみたし、宰相にも掛け合って人が引けるまで待ってみた。
しかし。
「見つからないんだ…」
途方に暮れて、ルーセルは明らかに極度の興奮からくる荒い息の中膝をつく。
「だ、大丈夫ですよ。あの子はあれで間の抜けた所がありますし、ついうっかり殿方の後をついて行ったり…ってあらいやですね、私ったら。とにかく、明日になればけろっと帰って来ますから、今日はもうお休みください」
慰めにもならない言葉を吐いて、ケリーはルーセルの背中を押す。
しかしルーセルは彼女の手を振り払って嫌悪もあらわに言い切った。
「アンはそんなことしない」
ケリーは軽くため息をつく。
もちろん彼女だってアンがそんな事をするとは思っていない。
ただルーセルを元気付けようと、大した事はない、という事を伝えたかったのだが……どうやら裏目に出てしまったらしい。
しかしアスカルド達がアンを探しに出掛けてしまった今、ルーセルに勝手に歩き回られては困るのだ。仮にも王子なのだから。
しかし、そんな彼女の心配もよそに、案の定ルーセルは再び天幕から出て行こうと立ち上がった。
「じっとしてなんかいられない。僕もアンを探しに行く」
「いけません。あなたは自分が王子だという事をお忘れですか」
「だけど…」
「アンは必ず帰って来ます。だから王子はここにいればいいんです。あの子の居場所は、ここしかないでしょう?」
「………ああ」
果たしてそれは、アンにとって良い事なのだろうか。
そう思いつつも、ルーセルには頷く事しか出来なかった。
そして。
そんなやりとりを天幕の外から盗み聞きしていたギルとユーリは、どちらからともなく目を合わせた。
「ミズべ…」
「可能性はあるよな」
天幕から離れた場所に腰を下ろして、2人は顔をつきあわせた。
ルーセルは天幕に押し込められ、中には共にケリーがいる。ルーセルの性格からして、これならば出て行く事は出来ないだろう。
「あの姫はルーセルに執着してたし……アンに個人的な恨みもある」
「…でも、本当にここまでやるかしら?」
首を傾げるユーリにギルは軽く頭を振る。
「ルーセルの話じゃあ、その姫は結構自己中心的というか、思い込みが激しいって言うか。アンを連れ去ったって言われても、俺は信じるね」
自慢気に胸を張るギルを、ユーリはきっと睨み付ける。
「何言ってんのよ。元はと言えばあんたのせいじゃないの」
彼は気まずそうに視線をそらす。
彼にしてみてもこれは予想外の事態だったのだ。
まさかここまで行動的というか諦めが悪いとは。
「ちょっと待ってよ。じゃあアンはまさか…こ、殺されちゃったり……」
自分の言葉に、ユーリはぶるっと身震いした。
ギルは眉間にしわを寄せる。
その可能性も、ないとは言い切れないのだ。
というよりも、あの姫だったらそれくらいやりそうな気がする。
そんなギルの表情を見て、ユーリはすっと立ち上がった。
「行くわよ」
「は?」
「ギルにだって責任あるんだから付き合ってよ。ミズべの天幕に行くわよ」
「ええ!?」
「だってじっと待ってるなんて出来ないわよ!!」
思ったよりも声が大きくなってしまい、ユーリははっとした顔で辺りを見回す。
誰にも聞かれてはいなかったようだ。
「突然行ったって、追い返されるのがオチだろ」
ため息をつきギルも立ち上がる。
「あーもー何であんたはそんなに落ち着いてんのっ!もっと焦ってよ!!」
「あーわかったわかった。落ち着いて」
そう言って彼女の肩をつかむ。
ユーリは思わず固まった。
「考えてみろ」
真剣な顔でギルは言う。
「アンを殺すのはいくらなんでも短絡的過ぎだ。そこまで馬鹿だとは思わない。それにだ、大事な事を忘れてるぞ。アンはミズべにさらわれたと決まった訳じゃない」
「……そうだけど」
「そうだよ。だから焦って墓穴を掘るようなマネしないの」
「じゃあ、やっぱりアスカルド様達が帰るのを待ってミズべに…」
「あ、それはダメだ」
「……はい?」
この人は本当にアンを助ける気があるのだろうか。
ユーリの視線が鋭くなる。
「だって護衛まで動かしたら、国交問題にも影響するかもしれない。要らない折衝は起こせないだろう」
「……ギルの言うことはわかるわ。でも…いざとなったら、私はミズべに乗り込むからね」
ギルは諦めたように肩をすくめた。
「それで結局、俺ばっか苦労するんだよなぁ」
「どうして……」
アンは呆然として呟いた。
「だってあなた邪魔なんですもの」
罪のない顔で、ミズールの姫はころころと笑う。
目の前で笑う姫も、無表情にその隣に立つ青年も、アンには訳がわからない。
「邪魔…?」
「そうです。私とルーセル様は結ばれるのです。あなたには可哀相ですが」
「――……」
何を言ってるのだこの女は。
「だってルーセルは…」
アンというニセの恋人を立ててまで、彼女との結婚を断ったのに。
「ウソ、でしょう?」
挑戦的な姫の笑いに、アンは目を見開いた。
姫は腕を組み、心底アンに同情している、という顔をして言葉を続けた。
「あなたの事を調べさせていただいたの。女中、ですってね。ルーセル様も殿方ですもの。他の女を味見したくなる時だってありますわよね。だから私は怒ってはいません。けれど、あなたとはいつかお別れしなければならないのです。わかるでしょう?彼は王族です。必要な知識を身につけた王族と、結婚しなければならないのです。あなたがサミンに戻るのが辛いと言うのなら、私が新しい奉公先を見つけてあげましょう」
姫は嬉しそうにぺらぺらと話し続ける。
突然の事に、アンの思考は止まってしまった。
だが徐々に、怒りが沸いてくる。
「嫌です」
そんな答えが飛び出してくるとは思ってもみなかったらしい。
姫の表情はぽかんとした驚きの表情から、怒りの表情へと変わって行った。
「…何ですって?あなた誰に口をきいているのかわかっているの?」
「私の主人はあなたじゃありません」
姫は顔を赤くしたが、すぐに自分が優位に立っている事を思い出し、冷静さを取り戻す。
「でも、どうせあなたとルーセル様は結ばれはしないでしょう?」
「………」
アンは唇を噛んだ。
そんなのわかってる。彼女に言われなくたってわかりきってる事だ。
身分の違いがあるからではない。それだったらまだ慰めもあるかもしれない。
でもルーセルは、アンの事を好きではないのだ。
大切に思ってくれない訳ではない。
ただ、アンがルーセルを思う気持ちと、ルーセルがアンを思う気持ちが違うだけ。
そしてその事実は、どんな事よりもアンの心を痛めつけた。
何とか言い返そうと口を開くが、そこからはどんな言葉も出ては来なかった。
意外にも、口を開いたのはそれまでずっと黙っていた黒髪の青年だった。
「姫」
「なに?」
話をさえぎられたからだろうか、姫の瞳が険しくなる。
「今宵はもう遅いです。そろそろお休みになられてはいかがですか」
「そうね。……そうするわ」
意外にも素直に頷く。ぎっとアンを睨みつけて、姫は背を向けた。
姫が通る間、青年は静かに入り口の幕を支える。
そのまま行ってしまうのだろうと思っていたが、彼はかすかにこちらを見た。
(すまない)
「…え?」
瞬きをするアンの目の前で幕が降り、鎧を着込んだ兵士が立つ音がした。
「出てきた」
ユーリが小さく呟いた。
ギルもかすかに頷く。
2人がいるのはミズべの天幕の近くだった。木の影に隠れて、様子を探っていたのだ。
各国の天幕は大抵が見晴らしのいい丘などに密集している。
見つけるのは簡単な事だ。
しかし8つもあるミズべの天幕の外には武装した兵士が立っており、迂闊に近づく事が出来ないでいた。
のだが。
今、視線の先には、ミズべの姫その人と、1人の男がいる。
姫には会った事がなかったが、あんなに派手な人が姫でないはずがない。
2人はじっと息を殺した。
「あの女気に入らないわ!!」
甲高い女の声を聞き取るのはたやすい。どうやらずいぶん荒れているようだ。
「殺してしまいましょう。私に楯突いた事を、後悔させてやるのよ」
ぎょっとして2人は顔を見合わせた。さらに耳を澄ますが、それに対する男の答えは聞こえてこない。
おまけに、冷静になったのか姫の声も小さくなってしまった。
「どうして!…ああ、確かに…そうすればルーセル様は…!」
2人はそのまま、連れ立って別の天幕へ入って行った。
詰めていた息を吐き出して、ギルとユーリはどちらからともなく顔を見合わせた。
口にせずとも、2人は同じ事を考えていただろう。
大変なことになった。
月がぽっかりと光る小高い丘の上。
サミンの天幕へ戻るため、森への小道に足を踏み入れながら、ギルとユーリはそろってため息をついた。
2人は意気消沈していた。
とりわけユーリは酷かった。
あのまま天幕に突っ込んで行こうとした所を、ギルが必死になって止めたくらいだ。
「私、アスカルド様に言うわよ。あのままじゃアンが危ない」
「ああ」
もはや自分達でどうにかすることは出来なくなってしまった。
ルーセルが姫を説得して済む話ではなくなっている。
「ルーセル様には、知らせるべきかしら…」
「……うーん…」
「黙っているべきだな」
「!!!!」
「!!!!」
突然の背後からの声に、2人はぎょっとして振り向いた。
そして同時にほっと肩の力を抜く。
「アスカルド様…」
「もう…。驚かさないで下さいよ…」
月明かりの射さない木立の影から現れたのは、護衛隊のリーダー、アスカルドだった。
目には厳しい光を浮かべている。
「2人してスパイの真似事か。全く、危険な真似をしてくれた。我々がどれだけ探し回ったのか、わかっているのか」
「…すみません」
ギルがびくびくとしながら頭を下げる。
それとは対照的に、ユーリは噛み付かんばかりの勢いでアスカルドに詰め寄った。
「アンが見つかったんです!早く助けて下さい!」
アスカルドは厳しい表情を変えずに、2人の背中を押した。
「それは我々に任せて、天幕に戻りなさい。王子が心配している」
「アスカルド!!」
新たな声に、さすがのアスカルドも動揺の色を見せた。
間違えようもない。
向こうの丘から護衛もつけずに1人駆けてくる影は…
「王子!」
「ルーセル!?」
ぎょっとしたギルも叫ぶ。
「アンは?見つかったのか!?」
どうやらケリーを突破してきたらしいルーセルは、荒い息を繰り返しながらそう問う。
思わずギルと視線を交わしたユーリに、ルーセルは硬い表情を向ける。
「見つかったんだな」
それはもはや、問いかけというよりは断定の口調。
「教えてくれ。早く行こう!」
あまりの剣幕に押され困惑する2人とは対照的に、アスカルドの表情は硬いままだ。
「なりません王子。危険です」
ルーセルはその視線を真っ直ぐに見返した。
「行かせてくれ。…ミズべなんだろう?だったら、僕の責任だ」
アスカルドはじっとルーセルを見る。ルーセルも彼を見返した。
「仕方ありません。…向こうには魔法使いがいます。黒髪の男です。皆、気を抜かぬように」