第3話
翌日は、ダンスのレッスンだった。
一応パーティではダンスも行われるが、絶対踊らなければならないという事はない。
主役は婚約する王子とその花嫁だ。
貴族でもないアンが誘われる事もないだろうし、もし誘われても適当に理由をつけて断ってしまえばいいだろうと、彼女は軽く考えていた。
もともと人前で何かをすることは苦手だ。
にも関わらずレッスンをしなければならなくなったのは、彼女の前に立つ男女のせいである。
「よろしくね。今更自己紹介しなくたってわかるわよね?」
快活そうに笑う30代前半の明るい女性、ソープ・テリア。
「よろしくな」落ち着いた雰囲気の男性、ソープの夫のケビン・テリア。
それぞれ国の要職についている2人が踊りの名手である事は有名だ。
そして2人の国王に対する、
「もし誘われた時に踊れなければ相手に失礼になります!」
という強引な押しによって、ダンスのレッスンが開講されたのだ。
アンに断る余地はない。
例え仕事を代わって周りに迷惑をかけることになっても、王の命令は絶対だ。
「すみません。遅れて…」
パーティが行われることもある大広間に駆け込むと、まだルーセルの姿はなかった。
メイド達が毎日磨き上げる床には、アンの顔が反射しそうだ。壁には歴代の王と王妃の肖像画が飾られている。
まだ明るいためシャンデリアに明かりは灯されていないが、中央に立つと何だか目が眩みそうだった。
すでに来ていたテリア夫妻は、アンが来ると踊っていた足を止めた。
見事なプロポーションを誇るソープがアンに近づいて、白いくつを手渡した。
「大丈夫よ。ルーセル様もまだ来てないし。それよりもこれ」
「?」
「履いて頂戴」
アンは生まれてこのかたハイヒールなど履いたことがない。
メイドの仕事では少し高さはあるが歩きやすい靴が支給されている。
「…こ、こんな感じですか?」
言われるままに履いてみたものの、どうにも違和感がある。
「腰は曲げないでね」
ソープに言われ、前につんのめりそうな体を後ろに戻す。
アンは自分の足元を見下ろして、全然似合っていなくてため息をついた。
「大丈夫。ずっと履いていれば慣れてくるわ」
「……はぁ」
何だかもう先が思いやられてきて、アンは泣きたくなった。
「すみません!遅くなりました」
ちょうどルーセルがやってきた。走ってきたのか、少し息が上がっている。
確か今日はどこかの国から使節団が来ていると言っていた。
ルーセルは彼らの相手をしていたのだろう。今日はいつもの普段着ではなく、派手過ぎない程度に刺繍の入った王族の衣装を着ている。
立派に公務をこなす公人としての顔に、アンはどきまぎしてしまう。
「アンも、ごめんな。仕事抜けてきてくれたのに待たせちゃって」
彼女はぶんぶんと首を振る。
「さぁ、時間は限られてるから早速始めましょう。カウントは私がとるわね」
ソープが言い、ダンスのレッスンは開始された。
手を繋ぐなんて、一体何年ぶりだろう。
握った手の小ささと、引き寄せた腰の細さに気付いて、いきなりルーセルは緊張した。
大きな手と、長い指。
触れていきなり意識してしまって、アンの鼓動が速まった。
お互いにどぎまぎしてしまう………。
「腰が引けてるっ!!ほら今のっ、ステップが違う!!」
―――余裕などなく。
「違うでしょっ?そこはこう!1、2、3…わかった?」
「は、はいっ」
テリア夫妻はとても厳しい先生であった。
ぎゅ。
嫌な感触に慌ててアンは足をどける。
「ごめん!」
ルーセルは引きつった笑みを浮かべてみせた。
痛かったらしい。
気付けばいつの間にか敬語でなくなっているのだが、そんな事にも気付かない。
「集中力も切れてきたし、そろそろ休憩にしよう」
ケビンの提案に、真っ先にアンは頷く。それを見てルーセルが吹き出した。
休憩時間となったのだが、アンとルーセルはすぐに練習を再開していた。
ケビンは仕事を見に行き、ソープは飲み物を取りに行っている。
「違うよ。1、2、3で回るんだろ?」
「違うよ。1、2、くるっだよ」
「え?そうだっけ?」
「だってそうじゃなきゃ…。あれ?」
さっきの復習をしていたつもりなのだが、すぐにわからなくなってつまづいてしまった。
立ち止まってしまったアンの手を引いて、ルーセルがにやりと笑う。
「思い出さない?」
「?」
首をかしげるアンの手を取ったまま、ルーセルは足でリズムを取り始める。
今習ったものとは明らかに違う、軽快な足運び。かなり早いリズムだ。
アンの顔にみるみる笑顔が浮かんでくる。
それは、小さな頃に2人して城を抜け出して行った時に、街の酒場で教えてもらったダンスだった。2人ともそれを気に入ってしまって、下手くそなステップで城の中でも踊っていた。
音楽を口ずさみながら、アンもルーセルに合わせて踊りだす。
不意に、酒場のあのうるさいような音楽がこの場に戻ってきたような気がした。
バイオリンと口笛。テーブルを叩く音。手拍子。人々の歓声。
人の声が少し静かになる。でもそれは、次の踊りへの準備の音楽。そう、次はタップダンスだ。
幼い2人は訳がわからなくて、見よう見まねで踊っていた。
それを見て人々が笑う。もちろん不快な笑われ方ではなくて、気持ちのいい笑い声だ。
やり方を教えてくれた人までいる。
ルーセルのタップは信じられないくらい上達していた。どこかでこっそり練習したに違いない。アンは未だに訳がわからないけど、負けじとタップを踏む。
ハイヒールを脱ぎ捨てて、体全体で踊りまくる。ルーセルが大声上げて笑う。
息が上がってきたけれど、2人はダンスをやめなかった。
最後は2人組になり円に並ぶ。2回女の人が回って大きく手拍子。相手の手を取って軽くあいさつ。
踊ってくれてありがとう、そんな感謝の気持ちを込めて。
そして次の相手へと……
「あ、いないんだった」
突然現実に引き戻されて、アンは瞬きを繰り返した。
酒場の熱気も音楽も、手拍子も、歓声も、何もかもが消え去ってしまった。
言いようのない寂しさが胸を襲う。
と――…。
パチパチパチパチ…
「ブラボー!!!」
驚いて振り向くと、そこにはテリア夫妻、そして何故かユーリとギルまでもがいた。
「びっくりしたぁ。2人にそんな特技があったなんて」
感嘆したギルの拍手はなかなかやまない。
「それってあれでしょ?ポルカでしょ?どうして2人が知ってるのー?」
とソープが目を丸くすれば、
「いや素晴らしい!!やはりダンスはこうでなければ!!大体最近のダンスは……」
とケビンが語りだして、
「ごめんあたしが悪かった。そりゃーアンが選ばれるわよね。そんな息の合ったダンスが出来るんだから!」
ユーリがそれぞれの手に飲み物の入ったコップを配りながらしみじみと言う。
「…………」
どちらからともなくアンとルーセルは離れる。
「…なんか、見られちゃいけないものを、見られちゃった気分…」
疲れた顔でルーセルが呟いて、アンは思わず吹き出した。
途端に4人が顔をしかめる。
「うわ…」
「見せ付けないでよ…」
「若いっていいわねー、ホホホ。」
「このバカップルめ…」
さらに居心地が悪くなり、ルーセルが慌てて言った。
「ま、まあそれは置いといて。練習始めましょうよ」
ソープ達が用意を始める。
「じゃ、ルーセルよろしくな」
「?」
ギルの言葉にルーセルは怪訝な顔をした。
「俺もダンス教えてもらうことになったんだー。ギャラリーは多い方がいいって」
「!?」
顔をひきつらせるルーセルを見て、ギルはさらににんまりと笑う。
―――絶対からかいに来たんだ!
ルーセルは確信した。
「え?」
隣でアンも怪訝な顔をしていた。
「だから、あたしも一緒にダンス教えてもらう事になったの」
にこにこと笑うユーリ。
「ふぅん…」
「ふぅんて。もっと他に言うことは無いわけ?」
「別に…でも突然なんで?」
「突然じゃないわよ、別に。前々からダンスって興味あったし。そしたらギルが相手探してるって言うから。あたし今日抜けられるし」
「え、そうだったの?」
ユーリがダンスに興味があったなんて初耳だ。
「そりゃーあたしみたいな田舎者にダンスなんて似合わないじゃない!」
けらけらと笑ってユーリは言うけれど、その気持ちは結構切実なものであることをアンは知っている。
王宮で働く多くの者は地方から出てきた人々だ。
華やかな世界に憧れるけど、こんなに近くにその世界はあるけれど、決してその中には入れない。
そう考えると、パーティーに行けるなんて人生最大のラッキーだとアンは思う。
今まで嫌でしかなかったドレス作りや作法やダンスを、少しは我慢しようとアンは思った。
パーティーにはメイドとしてではなく、ルーセルのパートナーとして行くのだ。
メイドだってやれば出来るんだと言う事を人々に示せるくらいの、
素敵なダンスを。
「完璧じゃない?」
その日の夕方、もう日が落ちかかっている頃、ようやくソープがそう言った。
ほめ言葉なんて本当に初めて聞いたので、アンとルーセルは感動のあまり顔を見合わせた。
ちなみにギルとユーリは、すでに仕事に戻っている。
今までの苦労を思い出して、ソープは深々としてため息をついた。
「1日で仕上げろだなんて、絶対無理だと思ったのに……やれば出来るものねぇ」
その傍らで、ケビンも口元に笑みを浮かべている。
「ありがとうございました」
アンはルーセルと頭を下げた。
「いいえ。楽しんできてね。アン、ハイヒールも様になってるわ」
そう言い残して、ソープとケビンは去って行く。
「いよいよだね」
どこか緊張した面持ちで、ルーセルが呟いた。
「………はい」
考えてみれば、アンはこの国から出た事なんて1度もない。
期待と不安で、その夜はなかなか寝付けなかった。