きみの名3
それから。
シャルティンとはいろいろな話をするようになった。
彼は1日に1度は必ず時間を作って会いに来てくれる。
「ジュリ」
私の名を呼んで、いつも楽しそうに笑う。
私たちはいろいろな話をした。
好きな本の事、国の事、家族の事。
何だか夢のように、毎日が過ぎていく。
好きな人といられるのがこんなに幸せな事だなんて、私は今まで知らなかった。
彼は、驚くほど想いを寄せている相手の事を語らない。それが彼の想いの深さのようで、私は心が痛かった。
けれども、シャルティンは私を好いてくれている。
心を得る事は出来ないけれど、いつかは……私にはそんな期待があった。
けれど、それは間違いだったと思い知った。
あっという間に月日は過ぎ、結婚式を来月に控えたある日。
私は1度国へ帰るため、部屋で荷物の整理をしていた。
私の手元をぼんやりと見ながら、シャルティンが呟いた。
「もうすぐ結婚か…」
その声の響きに、私ははっとして彼を見る。
彼の瞳は何も映していなかった。
映っているのはきっと、近くて遠い、彼女のこと。
ああ、彼はまだ彼女を愛している。
わかっていたはずだったのに、受け入れられない自分がいた。
「終わりにしなければ、なりませんね」
残酷な言葉を私の唇が紡ぐ。
彼の肩がかすかに強張った。
こんな風に近くになればなるほど、彼女の存在が2人の仲を遠ざける。
もう、耐えられなかった。
「終わりにしましょう」
私は言った。
「私が帰る間に…終わりにするんです。この想いを。それぞれ相手に告げて、新しく私たちの関係が始められるように」
信じられないとでも言いたげに、彼が眉を寄せる。
失くしたくないほどに、彼女への想いは大切なのだ…。
泣きそうになった。
ぐっと唇を噛み締める。
「わかった」
はっとして顔を上げた。
彼の顔は私に向けられていた。
ぞっとするほど、冷たい顔だった。
サミン国より遥か北に位置する私の国、コウ国。今年は寒いらしく、こちらへ戻ってきてからずっと雪が続いていた。
王城は広く、寒さをしのぐために、城のいたる所に絨毯が敷き詰められている。
1階部分は国民に対して開放されており、店や図書館などが並ぶ。昔は店と言ったらここしかなかったそうだが、月日が経ち、城の外の方が店が多くなっている。
そのため階段を降りると、暖をとりながらおしゃべりに興じる老人達や、図書館へ来る人々などでにぎわっている。
サミン国へ戻る準備を済ませた私は、せっかくだからゆっくり祖国を見て回ろうと、1階へ降りてきていた。
ぼんやりと歩きながら、シャルティンの事を思う。
彼は、想う相手に気持ちを伝えたのだろうか。
今で共に過ごしてきた中で、彼が想う相手が身分の違う人なんだろうというのはなんとなく感じていた。
彼の弟の話をする時、いつも少し羨ましそうに、まぶしそうに話していたから。
シャルティンはこの結婚は断れないと考えているけれど、もし想い人とうまくいったら、それもわからないな、と思った。
彼は彼女と結婚するために全力を尽くすだろうし、大らかなあの国ならば、2人の結婚も認めるだろう。
「そうなったら、またここへ戻ってくるのね…」
シャルティンにあんな無理難題を押しつけたのだ。
自分だって、想いを伝えるくらいしておけばよかったなと思う。
もう、会えないかもしれない。
「ジュリ?」
突然名前を呼ばれて、驚いて振り返った。
図書館の入り口から出てきたばかりの男性が、こちらを見て目を丸くしている。
「ケイ!」
私は人目もはばからず、彼に抱きついた。ケイも笑いながら抱き留めてくれる。
私たちのそんなやりとりに、道行く人は驚いて注目している。
「ジュリに会えるとは思わなかったよ」
「私も。今準備で帰ってきてたのよ」
彼は私の従兄弟だ。そしてこの国の次期国王でもある。
小さな頃から遊びも勉強も一緒にした。兄弟のような存在だ。私がシャルティンを想っている事も知っている。
私たちはその場で話し始めたが、彼はやはり忙しいようだ。
少し会話をすると、また会う約束をして行ってしまった。
彼の背を見送りながら、少し寂しい気持ちになる。
約束はしたけれど、次にいつ会えるかなど全くわからない。
「シャルティンにふられたらまた会えるわね」
自分で言ってわらってしまった。
と。
見知った後ろ姿を見つけた気がした。
慌てて、今すれ違った人間を探す。
外から来たのだろう。防寒具を着込んだ男。
背の高いその男を見つけると、私は走って前に回った。
「…なにを、してるんですか」
「よくわかったねぇ」
私は結婚の準備の為にここに帰って来ていて。
同じように、シャルティンも王宮にいるはずで。だから目の前に立つ彼も、その人のはずがなくて。
ひょうひょうとした、まるでシャルティンその人のような動作で、黒髪の青年は笑ってみせた。
シャルティンだった。
間違いなく、彼だった。
私は呆れてしまう。
彼はご丁寧にも髪を黒く染めていた。変装、のつもりなのだろうか。
「髪を黒くしたくらいで、変装にはならないんじゃないですか」
そもそも変装する必要があったのだろうか。
「…そうかな。でも今まではばれた事なんか…」
そのまま口元を押さえて黙り込む。
その目はここではないどこか遠くを見ていた。
まとう雰囲気は彼らしくもなく、硬い。
何かあったのだろう。おそらく、彼女と。
仕方なく客人という名目で彼を迎え入れた。
突然の高貴な客人に皆は上へ下への大騒ぎだったけれど、それも終わり、今は夜。
客間で、私達は向かい合ったソファーに座っている。
「…じゃあ、私はそろそろ眠ります」
2人きりになってからどんなに待ってみても、彼は何も言おうとしない。
諦めて私はソファーから立ち上がった。
その時突然、背後から抱きしめられた。
「好きだ」
胸が高鳴ったのは一瞬だった。
視線を落とした所にある、シャルティンのきつく握り締められた手。それとは対照的に、私を抱く力は軽い。
私に言ってるんじゃないことはわかりきっている。
予想はしていた。彼はきっと、想いを伝える事はしないって。
でも口に出さずにはいられなくて。
けれど1人では淋しすぎて。
「好きなんだ。だから…だからどこにも…」
血を吐くような叫び。
もしかしたら、彼は泣いているのかもしれない。
そう思うと苦しかった。悔しかった。私は彼をこんな風に出来ない。
こんなに傍にいるのに、心は離れたままだ。
どうする事も出来ずに、私はその場に立ち尽くしていた。
けれどどうしてだろう。その日から、歯車は少しずつ狂っていった。
シャルティンは、私の名前を呼ばなくなった。異常なほどに優しくなって、私をじっと見つめるようになった。
熱のこもった眼差しで、憂いを含んだ眼差しで。
心臓が高鳴ると同時に、背筋が冷たくなっていく。
「彼女も、きみと似てる」
いつかの彼の言葉が脳裏をよぎる。
彼はもしかしたら、私に想い人を重ねているのかもしれない。
でも、それでもよかったのだ。
いつかそれが過去のものとなって、私を見てくれる日が来るのなら――…
夜も更けた頃だった。
小さなノックの音に、眠れずにいた私はすぐに反応する。
そっと扉を開けると、立ってたのはシャルティンだった。
「少しいいかな?」
彼に連れ出され、私達は中庭に出た。
空には星が輝いている。
私は努めて彼の顔を見ないようにしながら、とりとめのない話を続ける。
王族でなければ出来ないような話。
醜いけれど、私と彼女は違うのだと、わからせたかった。
けれど、終わりはあっけなく訪れた。
彼に手を掴まれて、私は凍ったように動けなくなってしまったのだ。
「話があるんだ」
震えているのは私の手だろうか、彼の手だろうか。
「僕は君を愛している。…君は?」
もしかしたら。
愚かな事に、私の心は淡い期待に捕まってしまった。
もしかしたら、君とは私の事なのかもしれない。
彼はあの人ではなく、私を愛してくれているのかもしれない。
ゆっくり、ゆっくりと、私は顔を上げる。
彼の手に力がこもる。
そして……私は見てしまった。
あの人の話をする時の彼の目を。
私じゃなく、彼女を見つめる彼の目を。
「いや!」
たまらずに私はその場から逃げ出した。
もう耐えられない。
もう嫌だ、もうたくさんだ。
一生誰かと重ねて見られるなんて、そんなの嫌だ。
最初はそれでもいいと思っていた。
彼女に言えなかったことを私に言って。
彼女とできなかったことを私とする。
同じ秘密を共有する相手として、特別な存在になれればよかった。
でも、本当は違う。
彼に愛されたい。
私が彼を想うように想われたい。
彼の心が欲しかった。
一晩中泣き明かしたせいで、私は翌朝ベットから起き上がれなかった。
起こしに来てくれたメイドが、私の顔を見て何か察したのだろう。
「大丈夫ですか?疲れが出たんでしょう。今日はお休みになりますか?」
その言葉に、私は思わず泣いてしまった。
彼女はベットの傍に膝をつくと、ハンカチを差し出す。
「何かお話したい事があれば、お聞きしますが」
「ううん、いいの。…ありがとう」
必要以上に何も聞かない、彼女の優しさが心に染みた。