彼と彼女の憂鬱3
ジェイスの答えはしばらく無かった。
ギルは男の顔を注意深く観察する。
戸惑った様に笑って、それから表情を硬くして、やがてうっすらと微笑んだ。
「…ごめん」
時が、凍りついた様だった。
「今更、だよ、ユーリ。先にいなくなったのはユーリだろ?この道を、選んだのはユーリじゃないか」
ギルは呆然として、動かない背中に目を向ける。
「俺は…つらかったよ。ユーリがいなくなって、すごくつらかった。でもここまでやって来たんだ。今の生活を手に入れて…新しい幸せだって、ある。今更、戻れない」
意地にしか聞こえない。
ユーリの為に何か言ってやりたかった。けれどほっとしている自分もいて、だから何も言えない。
ギルは唇を噛み締めた。
「結婚するんだ」
「……え?」
ぼんやりとしたユーリの声。
「村に帰って、親父の後を継ぐ」
ユーリは何も言わなかった。
ジェイスは視線を反らしながら、挨拶をして、やがて去って行った。
どれくらい経ったのだろう。
根が生えたように動かなかったユーリが、ふらりと歩き出した。
「ユーリ?」
ギルは慌てて後を追う。
けれども彼女の足が城に向かっているのに気付くと、距離を置いて後ろを歩いた。
ユーリは意外な程しっかりした足取りで、人にぶつかる事もなく淡々と歩いている。
何て言えばいいんだろう。
頭をせわしなく働かせた。
けれどもどんなに考えても、やっぱり気の利いたせりふは思い浮かばなかった。
こんな時に、いつもの軽口を叩く訳にもいかない。
本気の恋をした事がないから、こんな時どうすればいいかもわからない。
己の恋愛遍歴を思い浮かべながら、ギルは暗い気持ちになった。
泣くほど誰かを好きになった事もない。
好かれるのは嬉しいから、告白されれば誰とでも付き合ってきた。1人でいるよりずっといい。
いつだったか、ギルは話した事がある。1人でいるのは嫌なんだと。
「1人だとさ、頭おかしくなりそうなんだ。なんか叫びだしたくなる」
深刻な顔をしたルーセルとは対照的に、ユーリの反応はあっけらかんとしたものだった。
「ふーん。…変なの」
誰にも言った事のない本音だったから、実は結構ショックだった。
でも、ユーリが女遊びしてばかりのギルから離れないでいてくれるのは、あの言葉を覚えているからかもれない。
そう。多分ユーリは、ギルの心の闇に気付いている。
「女に囲まれて死ぬのが夢」なんて言うと、人は皆ギルを女たらしだと思うけれど、ユーリはその裏の言葉に気付いている。
だからいつも心配してくれていたのだ。
それなのに、今自分はユーリに…
「あれ?」
顔を上げたら視界にユーリの姿がなくて、ギルは素っ頓狂な声を上げた。
慌てて辺りを見回す。と、橋の欄干に立つユーリの姿があった。
子供のように欄干に手をついて、下を見ている。
城の周りはかつての戦の名残か濠が残っている。高さはかなりあり、落ちれば命はない。
昔はここに猛毒を持った蛇なんかを放していたらしい。今では川から水を引いて、生活用水路として使われている。
「ユーリ?」
ギルは駆け寄ろうとして、思わず足を止めた。こちらを向いたユーリの瞳が、今にも泣き出しそうだったから。
「…しんでやる」
「え?」
ギルは耳を疑った。
ユーリが欄干の上に上り始める。
「ええっ!?」
「来ないでよ!」
「止めろよ!」
言いながらも、ユーリの行動を、未だにギルは信じられずにいた。
ユーリは本当に、死のうとしているのだろうか。
あの、いつも笑っていて人の事ばっか気にかけてるユーリが?
通行人が、1人2人と足を止めて行く。
ざわめきが広がっていく。
「自殺」という言葉が耳をついた瞬間、心臓が早鐘のように打ち出した。
「ユーリ…」
ギルは1歩1歩近寄りながら、ユーリに向かって手を伸ばす。
伸ばした腕が震えた。
何と言っていいかわからない。この腕を取って欲しかった。
「止めろよ」
気の利いた言葉が何も出てこない。
思うのはただ、死ぬなという、祈りにも似た気持ちだけ。
「もう終わりよ」
こんなに弱いユーリは見た事がなかった。
ユーリはいつも人の事を第一に考えられる優しい人間で、そんな彼女にずいぶん助けられてきた。
ユーリは強い人間なのに。
悔しさがこみ上げてきた。
「逃げんのか」
ユーリが動きを止めた。
「わかってんだろ。そんな事したってもう、あいつは戻って来ないんだ」
すがるようにユーリを見つめる。
冗談だと笑い飛ばす、いつものユーリに戻って欲しくて。
「…わかってるわよ」
じわり。再びユーリの瞳に涙があふれ出した。
「そうよ。もう遅いのよ。あたしがあの時逃げたのがいけなかったのよ。今更、やり直しなんか出来なかったのよ。今素直になったって遅かったのよ」
しまった言葉を間違えた。気付いてももう遅い。ギルは必死になって言葉を探した。
「死んだらもう会えないんだぞ!?」
「いいわよ、もう。聞いたでしょ、結婚するんだって!」
「じゃあ俺たちは!?」
「……」
ユーリが初めてギルを見た。
「今まで…ここでやってきた時間は、ユーリにとって全然意味のないことだったのか?」
「……」
言い返せないユーリを見て、ギルはさらに1歩近づいた。
「俺は、ユーリがつらかったのなんてちっとも知らなかった。いつも笑ってて、楽しそうだったから。ユーリだって新しい生活の中で幸せを見つけたんじゃないのか?」
ユーリの瞳が歪む。それを見たら、もう頭でなんか考えてられなかった。
「ユーリがいなくなったら、皆悲しむ。アンを1人にしたら不安だって言ってたじゃないか。俺だって、ユーリがいなくなったらつらい」
言ったら何故か泣きそうになった。胸が熱くなる。ユーリがいなくなるなんて本当に嫌だった。例えそれが、ユーリの幸せになるとしても。
「ルーセルだってシャルだって、きっと皆泣く。なぁ俺たちじゃあ、あいつの代わりにもならないのか!?」
言葉を放って、答えを待つ。
周りの人達も、息を潜めていた。
やがて。
「―――う」
小さなうめき声が聞こえてきて、ユーリの手がゆっくりと顔を覆った。
一瞬遅れて、辺りにユーリの泣き声が響く。
辺り一面に広がる大声。
困惑する人々と同じく、思わずギルもぎょっとしてしまった程だ。
けれどそれでとても安心して、気を取り直してユーリの元へ向かう。
ユーリはその場にへたりと座り込もうとした。
「あ」
「ユーリ!」
座り込もうとしたユーリが大きくバランスを崩した。
そこは橋の欄干の上だ。
ギルは飛びつく様に抱きついた。
腕に強い衝撃が走って、一瞬世界がぐるりと回った。
そして、ざわざわと、人々のざわめきが戻ってくる。
青い空しか見えなかった視界に、城の門番の顔が入り込んだ。ひどく焦っている。
「大丈夫か!?」
何が何だかわからない。
腕の中で、何かが動いた。
「…ユーリ…?」
混乱する頭で腕の中へと問いかけてみる。
ユーリが顔を上げた。涙で頬は濡れているが、そこにはちゃんと理性の光があった。
しばらく瞬きを繰り返していた彼女は、次の瞬間慌ててギルの上から降りた。
「ごっ、ごめ…ん…?」
何か異変を感じたのか、自身の足元を見る。
その顔色が変わった。
「…ダメ」
ユーリが口元に手を当てて、そのままふっと倒れこんだ。
「うえっ」
再び体に圧力がかかる。ギルはみっともなくうめいた。
「ユ、ユーリ?」
何とか上体を起こして、肩を揺さぶってみる。…気を失っていた。
どいて下さいどいて下さいという声がして、別の兵士が現れた。
「ギル?大丈夫か?」
「あ、ああ…」
見知った顔にほっとして言葉を返す。
「どうしたらいい?動かして平気か?」
兵士は戸惑ったようにギルとユーリの顔を見比べる。
その様子に、ようやくギルはユーリの足元へと視線を向けて。
ぐらり、とめまいがした。
ユーリの足はおかしな方向に曲がっていた。
呆然と、ユーリの青白い顔を見つめる。
けれどすぐに、振り切るように兵士に顔を向けた。
「担架を持ってきてくれ。医務室に運ぶんだ」
「…ふぁぁ」
目覚めたユーリの第一声は、何とも気の抜けるものだった。
ちょうど1日の仕事が終わって、ギルは片づけをしていた。先生はすでに帰っている。
「平気か?」
顔だけベットへ向けて問いかける。
ユーリはきょとんと彼に顔を向けて、それから恐る恐る自分の足に目を向けた。
彼女の右足は包帯でぐるぐるに固定されており、天井から吊るしたひもで支えられている。
「ギルがやってくれたの?」
「ああ。先生もだけど」
「そっか…ありがとう」
「・・・・・・!」
言われた瞬間、ずっと堪え続けてきた何かがあふれ出した。
処置している間、ずっと目を背けてきたもの。
恐怖。怒り。悲しみ。焦り。不安。
「もうすんなよ」
怒鳴る訳にはいかなくて、かすれた声になった。
ユーリはすっかりいつもの調子で、ちょっと焦ったような顔になる。
「しないわよ。あ、この怪我は別に落っこちようとした訳じゃないからね!ちょっと足がもつれたのよ!?」
「…わかってるよ!」
水洗いしていた器具を、わざと音を立てて置く。
ユーリがびくっと肩を揺らした。
何か。
何か正体のわからないどす黒いものが、体の中で荒れ狂っていた。
ユーリに対する怒り。
理不尽な怒りだとわかっているのに、彼女を怯えさせるだけだとわかっているのに、止められない。
こんな事ユーリに言ったって仕方が無いのに。今傷ついているのはユーリなのに。
自分の感情に身をまかせる訳にはいかなくて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
俯く耳に飛び込んで来たのは、笑うユーリの声。
「ありがとう」
ギルは驚いて顔を彼女に向けた。
ベットに上体を起こして、にこにこ楽しそうに笑うユーリ。
「ギルが私の為に泣いてくれるなんて、ちょっと思わなかったわ」
「え」
戸惑いながら頬に手を当てる。確かに湿っていた。
「そっかー。そうよねー。怪我しただけでも泣いてくれる友達が、私にはいるんだもんねー」
「や、別に…」
慌てて視線を反らす。
「でもそれって、ギルにだって当てはまるわよ」
からかわれた訳ではなかったらしい。戸惑って向けた視線の先で、ユーリは真剣な顔をしていた。
「え?」
「ギルがいなくなったら、私も同じように泣くって事」
ギルはぽかんとしてユーリを見つめた。
「女の子と付き合うのを止めろって言うんじゃない。でもわかって欲しいのよ。私だってルーセルだってアンだってシャルティン様だって、皆ギルを好きだって事を」
頭じゃ全然理解出来ないのに、不意にそれは胸に波紋を広げて、目頭を熱くした。
子供の頃に見た、死んでゆく男の周りに集まった人達。
恋人、友達、両親、兄弟。
あんな暖かな空間を、ギルは知らなかった。
だからそれを手に入れたくて、自分がいつか死ぬ瞬間も、あんな風に死にたかった。
その為に、自分を愛してくれる人が欲しくて。
「な、何言って…」
まくった袖を戻すフリをして顔を隠す。
「ルーセル様は今も覚えてたのよ。あんたが前に、1人じゃ嫌だって言った事。心配してるの、知らないでしょ?」
ルーセル。アンと一緒に暮らすようになって仕事も忙しくなって、すっかり疎遠になっていた。
そんなもんだと思った。人は誰でも、友達より恋人を取るものだと。
「ルーセル様が言ってたわ。友達がいつも死ぬ瞬間を考えてるのは悲しいって」
こんな時に。
振られて、死のうとして、怪我をして。自分の方がよっぽどつらいくせに。
どうして人の事なんか気にしてられるんだ。
「お前…本当にいつか損するぞ」
あふれてくる涙を隠すように、背後を向いて声を押し殺して言った。
明るいユーリの笑い声が聞こえた。
「いいの。だって私…ギルがいなかったら生きてなかった」
あの時の、死んでいく男に向けられた暖かさ。
それはちゃんと、ここにもあった。
彼女は特に文句を言ったりしなかった。
「こうなると思ったわ」
「え?」
別れたいと言ったギルを、彼女はどこかおもしろそうに見つめている。
「皆知ってるわ。ユーリとのこと」
「……」
それはあの橋での事を言っているのだろう。今はまだ療養の為休業中だが、ユーリにとって暮らしづらい噂であることは事実だ。
「あんまり、詮索しないでやってくれ」
そう言うと、彼女は大きくため息をついた。
2人がいるのは洗濯物の庭だ。白いシーツが揺れる。
けれど、いつものユーリの姿はない。
「ほんとうに、好きなのね…」
「え?」
何を言われたのかわからなかった。
彼女は口元ににやりと笑みを浮かべる。
「安心して。あんなやりとりを見せ付けられちゃあ、誰もあなたに今後ちょっかいを出したりしないわ」
「え…」
何を言っているのだろう。彼はただ気のない相手と付き合うのはやめようと思っただけだ。
「あら。気付いてないの?」
「なに言ってるんだ?」
「ふふ。これは今後が楽しみだわ」
「はぁ?」
結局ギルが思ったこと。
「あっ、ギルー。これ知ってる?ユーリが好きなお菓子なのよ」
女はわからない。
「ギル。それは俺がしとくから、ユーリの所に行ってやれ」
訂正。
男もわからない。
でも、自分の事を気にかけてくれる人はこんなにいて。
俺は結構幸せ者だな、と思った。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
彼と彼女の憂鬱はこれで終わりです。
今後は、ルーセルの兄、シャルティンの話をアップしたいと思います。
ユーリとギルの今後もまた書きたいと考えていますので、また読んでみて下さい。