彼と彼女の憂鬱2
マールの宿。
入り口に仁王立ちになって、ユーリは大きく深呼吸した。
よっぽど緊張しているらしい。別れた女だらけの城で仕事をするギルには、わからない感情だった。
しかしいざ行ってみたら。
「え…」
ユーリの表情は固まった。
受付に立つ女性が、申し訳なさそうな顔をする。
「何時頃出たんですか?」
ギルはユーリの背後から身を乗り出して聞いてみた。
朝食を取ってすぐとの答えが返ってくる。今はもう昼過ぎだ。
「……」
ギルはどうしたものかと隣に立つユーリを見た。
彼女は表情を失っている。
「…帰ろう、ユーリ」
これは早く帰らせて寝かせるべきだと判断した。それくらいユーリはショックを受けていた。
腕を引くと、黙って彼女はついてくる。
大通りを手を引いて歩きながら、ギルは考え込んでしまった。
らしくない。全くユーリらしくなかった。
軽口を叩いても、帰ってくるのは沈黙ばかり。慰めようにも何と言っていいのかわからなかった。
大体なんて言うべきなんだ?
ユーリのこれは失恋になるのだろうか。
「ギル」
不意にユーリに手を引かれた。
ギルはどきっとして背後を振り向く。
捕まれていた腕を抜きながら、下を向いていたユーリが徐々に顔を上げた。
そこに見えたのは、いつも通りの笑顔。
ギルはほっと肩の力を抜く。
「ありがとう。もう平気よ」
「いいよ。…ったくらしくないな。ユーリのいい所はいつも笑ってる所だろ」
言いながら、彼女の頬を軽く叩く。
その手を払うユーリの顔にも笑顔があった。
「なによそれ。なんかそれじゃあただの馬鹿みたいじゃない」
「いやいや褒めてんのさ」
隣に並んで歩き出す。
「会いたかったなぁ」
上を向いて、ユーリが口元に笑みを浮かべながら言う。
「…ジェイス、だっけ」
「…うん」
ユーリはぽつりぽつりと話し出した。
「カルカロ村の、村長さんちの息子なの。同い年でね」
2人は小さい頃から許婚として決められていたそうだ。小さな村だったから、歳の近い子供は少ないと言う。
「恋をするにも、相手はお互いしかいない訳よ」
「…不幸だなぁ」
「あんたならそう言うと思ったわ」
ユーリはおかしそうに肩を揺らす。
「でもさぁ。彼が留学する事になってさぁ」
「留学?」
「あ、ユーリさん!」
突然声を掛けられた。
2人はそちらに視線を向ける。今いるのは城門へと続く橋の上だった。
声の主は、門番だろうか。
「はい?」
若い門番が1人こちらに駆け寄ってくる。
「今ユーリさんを尋ねてきた方がいたんですけど!会いませんでした!?」
「え」
ギルは驚いて足を止めた。
「帰るまで待つってしばらくここにいたんですけどー!」
ユーリが声を張り上げる。
「その人どこに行ったかわかる!?」
「アンの所にいると思ったんで、お店の場所教えましたー!」
「ありがとっ!!」
言うや否や、方向転換し走り出す。
「ええっ!?」
そのあまりの素早さに、ギルは思わず出足が遅れた。
それでも反射的に追いかける。
(ったく…会いづらいって言ってたのはどこのどいつだ…!?)
ギルは走っていた。
予想外にユーリは足が速くて、しかも何度も通ったアンの店への道、あっという間にギルは彼女を見失ってしまっていた。
何故だかわからないが胸がざわめく。
やばい、と思った。
時間からして、もうジェイスはいないだろう。ユーリが落ち込むのは目に見えていた。早く行って慰めてやらないと。
ようやくアンの店に辿り着くと、店先にアンが立っていた。
ギルの姿を認めるなり、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ギル!ユーリが行っちゃったの!」
「行ったって、どこに?」
荒い息の中、辺りを見回す。
「あ、あっちの方に・・・」
戸惑うアンの言葉を遮って、畳み掛けるように尋ねた。
「ジェイスはもう行ったんだろう?」
「え、うん」
それだけ聞けば十分だ。
「わかった」
ギルは再び駆け出した。
ほっとした事に、ユーリはすぐに見つかった。
というか、探しに行こうとしたらこっちに向かって歩いてきていたのだ。
「ユーリ」
「ギル。どうかしたの?」
がくっと肩から力が抜けた。
「お前探しに来たに決まってるだろ」
「あ。…ごめん」
きょとんとしていたユーリの瞳が、少し揺れた気がした。
「…大丈夫か?」
「アンは?」
言葉が重なった。
聞かれた意味がわからなくて、ギルは口元を引きつらせる。
「私黙って出てきちゃって。アンは心配してなかった?」
「……」
何と言おうか。
何て言っていいのかわからなかった。
だからギルはひとつ頷く。
平気だよ、という意味を込めて。
「…心配かけてごめんね」
「え?」
ユーリの言葉に、ギルは驚いて顔を上げた。しかしそこにはいつもの気楽そうな笑顔がある。
「帰ろっか?」
「でね、聞いてくれる?」
隣を歩くユーリが、思いついたようにそう言った。
今度こそ2人は、王宮へ向かって歩いている。
「さっきの話の続きよ」
「ああ…」
正直、あまり聞きたくなかった。
自分は相手の気を紛らわすのが上手いのであって、真面目な失恋話には何と言っていいのかわからない。
しかし、話をするという行為が心の負担を軽くするのは知っている。医学書にもどっか、そういう話が載っていたし。
「って、どこまで話したっけ?」
「ジェイスが留学する事になった所まで」
「ああ、そうよ留学!」
何を思い出したのか、ユーリが眉を吊り上げた。
「あいつってばこのあたしを3年もほったらかして行くのにちっとも心が痛まないのよ!」
酷いと思わないっ!?詰め寄られて、咄嗟にギルは大きく頷いた。
「しかも待っててとも言わないのよ!ダメならダメでいいって!」
「それで…」
「別れたわ」
ユーリは何故だか勝ち誇ったように笑う。
「ユーリらしい…」
ギルは笑った。
そこへ。
「ユーリ!」
再び第3者の声。
ギルとユーリは一緒になって声のした方向を見た。
立っていたのは1人の男。
両手に余るほどの荷物を抱えている。
歳はギルと同じくらいで、人の良さそうな顔立ちをしていた。ひょろりと背が高い。
ギルは緊張した面持ちでユーリを見た。
彼女の唇が「ジェイス」と動くのを、瞳に涙が浮かぶのを、暗澹たる気持ちで見つめていた。
今のは見間違いだったのだろうか。
1人蚊帳の外に置かれながら、ギルは首をかしげた。
視線の先には、楽しげに笑うユーリとジェイスの姿。
先ほど見た気がしたユーリの涙は、今はどこにもない。
「あっ、ギル!来て来て」
彼女がギルに向かって手招きをする。渋々男の前に出たギルはぺこりと頭を下げた。
「どうも」
「ギルって言うの。こっちに来て出来た友達でね。あっ、なんとこれでもお医者様なんだよ!」
「優秀なんですね。あ、僕はジェイスと言います。ユーリとは同郷で」
「はぁ…どうも」
ギルは何と言っていいかわからず、そのまま口を閉じた。
「……帰るの?」
明るい顔のまま、ユーリがぽつりと尋ねた。
「うん」
ジェイスも淡く微笑む。
そこには多くの言葉に出来ない感情があるようで、ギルは居心地が悪かった。
心配だけど、自分がいるべきじゃない。このまま帰ってしまおうか。
そう思ったのに、ぐいっと腕を引っ張られた。
「じゃあ私も行くわ。元気でね、ジェイス」
「ユーリ?」
あっけに取られたジェイスを残して、ユーリはずんずんと歩いていく。
「い、いいのか?ユーリ」
人ごみの中に、ジェイスの姿はもう消えていた。
けれども彼はまだ何か、話したい事がありそうだったのに。
振り返って立ち止まろうとするギルを引っ張るように、ユーリの足は止まらない。
「おいユーリ!」
とうとうギルは力任せに、ユーリの腕を引っ張った。
「いいのかよ?会いたかったんだろ?」
夜も眠れないほど悩んで、それでも会いたかった相手のはずなのに。
掴んだユーリの腕が、かすかに震えた。
「行って話して来いよ。後悔…しないように」
過去に何があったかは知らない。けれど、はっきりした事がひとつだけあった。
「まだ好きなん…」
「ギルには関係ないでしょう!!」
ギルは驚いた。
吐き出された彼女の言葉が、泣き声混じりだったから。
「ユーリ」
力を込めて肩を引く。振り向いたユーリの顔は、やっぱり涙でぐしょぐしょだった。
やっぱりずっと、無理していたんだ。あの笑顔は全部嘘で。そう思ったら胸が痛かった。
道の端に連れて行って、持っていた包帯で顔を拭いてやる。
ユーリは顔をしかめた。
「なによこれ」
包帯の事だとわかったが、無視をした。
「行って来いよ」
「……どこに」
憮然とした顔で答える。目が腫れているが、これは仕方ないだろう。
「わかってんだろ。このまま別れたら後悔するんだろ、だから泣いてる」
ユーリが行ったら。
その先を考えると心が痛かった。
ユーリは故郷に帰るだろう。そうしたら、自分は大切な友達を1人失う事になる。
自分の考えを振り切るように、努めて明るい声を出す。
「ほら、早く」
通りへ向かってユーリの背中を押してやる。
「ギル…ありがとう」
それでも不安そうなユーリの顔。
笑ったギルの顔が、次の瞬間驚きに変わった。
それを見て、ユーリも不思議そうに彼の視線の先を追う。そして目を見開いた。
「話したい事が、あるんだ」
そこにはジェイスが立っていた。
「私も、話したい事があるの」
ギルに背を向けたユーリの背中は緊張の為か強張っていた。
話の腰を折る訳にもいかず、場違いだとは思いながらもギルはその場を離れられない。
「あの時…逃げてごめんね」
ジェイスは驚いたように目を見開いて、それからふっと笑みを浮かべた。
「ほんとだよ。俺もさぁ、やられたと思ったもん」
「…なにそれ」
ユーリの肩からほんの少し力が抜ける。
それが、再びぐっと強張った。
ギルは知らずにつばを飲み込む。
ユーリの緊張が、こちらにも伝わってくるようだ。
人通りは多いのに、人のざわめきは1枚壁を隔てているかのようにしか聞こえなくて、ここだけが隔離されているようだった。
ユーリの心臓の音が聞こえる。激しく、大きく。
しばらくして、それはあり得ない事だと気がついた。これは自分の心臓だ。
ユーリ。
いつだってアンの、人のことばっかりを気にしてる損な奴。
いつも笑顔で、ギルが女癖が悪い事を知ってもずっと友達でいてくれた。
友達思いで――…そう、自分の事だって心配してくれて。
そんな友達と離れてしまう事は、とてもつらい事だけど。
でも、それでいい。
やがて耳に届いた、ユーリの言葉。
「行かないで」
からっぽの胸の奥に、その言葉は虚しく響いた。