第1話
穏やかな時間が、流れていた。
春の午後、王宮の渡り廊下。
あの人の姿だけを追って、笑い合ってさえいればよかった日々。
その日も勉強の時間を終えた王子ルーセルは、自室に戻るため渡り廊下を歩いていた。
王子と言っても服装は一般庶民と変わらない。南国の暑さを和らげるための、通気性のよい服だ。
日に焼け少し色が落ちた黒髪に、人の良さそうな黒い瞳を持った、なかなかの好青年だ。
今年18になる彼は、しかし結婚どころか女性に全く興味がなく、王妃を悲しませている。
もっとも彼は第2王子という身分であるので、結婚を急ぐ必要もなければ相手も自分で決められるため、好きなことを学び好きなことが出来た。
幸せな環境だと、彼自身もよくわかっている。
ふと前方の人影に気付き、彼は顔をほころばせた。
「アン」
振り向いた少女が、彼に気付くと笑顔になる。
アンはルーセルより1つ年下の、薄い赤茶色の髪と瞳を持つメイドだった。
足早に彼女の隣に並ぶと、彼女の持つバスケットからするいい匂いに気付いた。
「今日は何作ったの?」
「パイです。王子にも食べていただこうと思って、今お持ちする所だったんですよ」
笑いながら、バスケットの中のナプキンをちょっとつまんでみせる。
「あ、じゃあ中庭で食べようよ。今ちょうど空き時間なんだ。久しぶりにアンとも話したいし」
「じゃあ私お茶か何かもらってきます。王子はこれお持ちになって、先に行ってらして下さい」
彼が何か言う前に、アンはバスケットを押し付けると駆け戻って行く。
ルーセルは壁際に寄ってアンを待った。
こんな時間を、彼はとても愛していた。
「パーティ!?」
同じ日の夕暮れ。
父に呼び出されたルーセルは王の執政室にいた。正面には父、その横には母までいる。
「そう、お前に行って欲しいんだ」
父からの呼び出しの理由は、父王の名代として他国の王族の結婚式に出てほしい、というものだった。
「〜〜〜」
ルーセルは頭を抱えた。
本来ならば社交界に顔を出すのは兄シャルティンの役目のはずだ。
けれど兄は諸国漫遊の旅に出たきり未だに帰って来ない。
嫌がらせだ絶対、と胸の中でルーセルは毒づく。
そもそもルーセルは社交界というものが苦手だ。
なのに前に1度だけ行ったパーティーで、どこか国の姫に見初められてからというもの、兄はしばしばこんな事をする。
きっと本人、『ボクっていい事やってるなぁ』なんて思っているだろうからタチが悪い。
「……わかりました」
もはやルーセルに選択肢はない。兄がいないなら、王の名代が務まるのは自分だけだ。
「ルーセル、あの子も来るらしいわよ」
浮かれた母が言う「あの子」こそが、例の姫だ。
「母上、いつも言ってますが、結婚するつもりはありませんから」
はっきりそう言ってやると、母はがっかりした様子を隠そうともせずこう言った。
「結婚はともかく、お付き合いしてみる気も起こらないの?」
見兼ねた父が口をはさむ。
「まあ、こればかりは私たちがどうこう言っても仕方ないだろう。ルーセルの好きにしたらいい。ただ…あちらは1人娘だ。その気がないなら、早く断るのがお互いのためだぞ」
「……はい」
断ってはいるのだ。けれどあちらが納得してくれない。
王の間を辞したルーセルは、大きくため息をついた。
「お前も大変だよなぁ」
そう言ったのはルーセルの友人であるギルだった。
「そーゆーのはショック療法が1番だ」
「ショック療法?」
ちなみにこのギル、医者の卵でもある。
「物分りの悪い姫様に、あーだこーだ言ったって通じないだろ?だから事実を突きつければいいのさ」
「……事実?」
「だから、本物の恋人を連れて行けばいいんだよ。お前の事だから、傷つけまいとしてはっきり言えなかったんだろ?」
「いや、そんなことは……って、そうじゃなくて。誰を?」
「は?……だから、恋人を…」
「………それって」
ルーセルとギルはお互いに目を見合わせた。
ギルが探るように口に出す。
「アンだろ?」
ルーセルは固まった。
「ちっ……違うよ!!」
一瞬のち、ルーセルは立ち上がり、ギルは目を丸くする。
「嘘だろおい、ちょっと待て。俺の観察眼は曇ってるというのか?いやまさか。じゃあ一体誰が…」
「誰もいないって」
ため息をつきつつルーセルはいすに座りなおす。
「……まじで?」
ギルはさらに目を丸くした。
ルーセルは頷いてみせる。
「まじで」
「え――――――!!お前それは17の健康な若者としてどーよ!!」
突然ギルが声を上げるので、ルーセルは慌てて彼の口を塞いだ。
ここは城の保健室である。
中庭に面しているためどこから人が聞いているのかわからないのだ。
ちなみにギルはここで見習いとして仕事中であり、師でもある城の専属医師は患者を診るため席を外している。留守番の間にカルテの整理を頼まれているらしいが、今は机の上に投げ出されていた。
ギルはいすに深く座ると、首をひねった。
「しかしあんなに仲良さそうな所見せ付けておいてなー。今更違うなんてなー」
ギルがぼそぼそと呟く。
「……ほっとけよ」
開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。
それが冷たくて、ルーセルは自分の顔が熱くなっているのを感じた。
ギルはいすから身を乗り出し、向かいに座るルーセルに顔を近付けた。
「とにかくアンを連れて行って、これが僕の好きな人ですごめんなさいって言ってくればいいんだよ」
「……なんでアンなの」
彼は小さくため息をついた。どうやらルーセルは、どうあってもアンを好きだと言うことを認めたくないらしい。
「だってお前と1番歳が近いだろ。身長だって合うし、全然知らない奴を連れてくわけにはいかないだろ」
「………」
「アンじゃ不満だってか?」
さらに身を乗り出して顔を覗き込まれ、思わずルーセルは身を引いた。
「違う…けど…」
「じゃあいいじゃん。決まり決まり。あ、お前ちゃんとアンに頼んどけよ。あと王にも」
「え」
「え、じゃねーよ。何?他にいい方法があるか?」
「だ、だってやっぱりアンまで連れてくわけには…」
「甘い!」
びしっと人差し指をルーセルに突きつけて、ギルは笑ってみせた。
「お前今まで散々あの姫に苦労させられて来たんだぜ?いつ結婚して下さいって言われるかわかんない状況だろ、今。だから今のうちにはっきり断っておかないと、後で大変な事になるぞ」
「………」
ルーセルは顔を青くした。
確かにそうだと思ったからだ。
人のいいルーセルにさえこう思わせるほど、あの姫は異常なのだ。
ギルは心の中で呟いて、さっさと背中を押してやることにした。
「ほら、早く言って来いって」
「うん……」
ルーセルはふたたびため息をついた。
「最近よくため息ついてますね」
不意に背後から話しかけられて、ルーセルの心臓が飛び上がった。
「!あ、アン!!」
「はい?」
にこにこと笑いながらアンが彼の隣に並ぶ。
「ため息をひとつつくと、幸せがひとつ逃げて行くんですよ?」
アンはかごを抱えなおしながら言った。かごの中には大量のタオルが入っている。が、量が多くてはみだしている。
今日はなんだか心臓に悪い事が続く。
ぼんやりとそんな事を考えながら、ルーセルはかごからタオルを半分取り上げた。
「ありがとうございます」
アンはすごく申し訳なさそうな顔でお礼を言ってくる。
「……いや」
こういう瞬間が、ルーセルは大嫌いだった。
結局自分達の間には、越えられない壁があるみたいで。
だからわざと明るく笑う。
「僕は紳士だからね」
「でも全部持ってはくれないんですね」
くすくす笑いながらアンが言う。ルーセルはほっとした。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
けれど次の瞬間、両親や、ギルの言葉を思い出す。
気は進まない。
けれど、何か行動しなければ自分は流れで婿にされてしまうだろう。
「アン」
「はい?」
「頼みがあるんだけど」
「私に出来ることでしたら」
ルーセルが足を止めたので、彼女もその場に立ち止まる。
きょとんとした目で彼を見上げている。
ルーセルは大きく深呼吸をした。なぜだろう。顔が熱い。
「恋人のフリをしてほしいんだ」
「………え?」
「本物じゃなくて!フリでいいんだっ!ぱっ、パーティーの間だけでっ!断りたくてっ!!ってあの、ある女性が、しつこくて…!大体まだ結婚なんて早いしっ!!!」
「お、王子、落ち着いて下さい」
見れば、アンは必死になって笑いを堪えているようだった。
急に恥ずかしくなって、ルーセルは視線を落とす。
もっとわかりやすく落ち着いて協力を頼むつもりだったのに。
これではあまりに格好がつかないではないか。
少し考えていたアンが、ゆっくりと顔をあげた。
「……私で、いいんですか?」
「アンがいいんだ」
不思議とすんなり言葉が出た。
しばしの沈黙。
「喜んで」
アンの返事に、ルーセルは恐る恐る顔を上げた。
彼女はにこにこと笑っている。
ルーセルも今度こそほっとして笑顔になった。
「…ですけど王子。今のでそんなに照れてちゃ、本番では大変なことになりますよ」
「………ほっといてくれ」