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時代に翻弄された、ある少女のその後の人生

バスはスピードを出して一路分院へ向かっていた。車中は緊張感が支配して、誰も言葉を発しなかった。皆の顔は一様に不安が支配していた。基地の方角に目を転じると、海軍の零式艦上戦闘機が次々と飛び立って行くのが確認出来た。ただ事では無いと誰もがその事を実感していた。

 分院入口へ着くと衛兵から、直ぐに防空壕へ行くように指示を受ける。バスは分院裏の丘に設営されている防空壕前へ急行した。防空壕では既に篠田が入り口で待機していた。陣頭指揮を執って皆に指示を出していた。

 バスを降りて景山は取って返して篠田に帰着の報告をする。

「ただ今戻りました」

「おう!休暇中だってのに大儀だったな、皆無事だな」

「はい、全員無事であります、事の詳細はご存知で有りますか?」

「おうよ!午前中に偵察に出た海軍の偵察機が敵さんの艦隊を発見したらしい、なんでも空母がワンサカいるそうだ。それらが此方の方角に向かって来てるってんだ、どうやら此処も無事ではいられなく成りそうだぜ」

 昭和十九年二月二十二日、この日始めてマリアナ諸島が米軍の空襲を受ける、この攻撃によりマリアナ諸島に展開していた航空機の

八割近くが被害を受けてしまう。大本営に取っては寝耳に水状態だったのだ。

「海軍さんの予測だと、後十分もすれば、敵さんがどっとやって来るそうだ、此処ら飛行場は格好の餌食だろうよ」

「じゃあ壕へ退避しないと」

「おう、お前らは先に入ってろ、俺は此処に居る、折角の空中戦を見ない訳には行かないだろう、ああして海軍さん達は、今や遅しと編隊組んで待機してるんだ」

 篠田の指差す方向には飛行場上空で待機の

旋回をしている零戦が確認出来た。

「では私もお供させて頂きます」

「うん?おめえも好き者だな、まあ良いだろう、死にそうに成ったら壕へ飛び込め、婦長は如何する、付き合う勇気は有るか?」

「トンでもありません、私達は退避します」

 こんな時に空中戦を見ようとする篠田の豪胆さに感心しながらも、愛子は皆を先導して壕の奥深くに陣取り。落ち着かせる。

「大丈夫、此処なら安全だから」

 篠田の言った通りの約十分後、遠くの空に豆粒程の点が見え出した、それは段々と大きく成り、飛行機の集団と確認できる迄に成って来ていた。素人目にもかなりの数が確認出来た。篠田が肩から下げた双眼鏡覗きながら、

驚愕の声を上げる。

「いやあ!こりゃ拙いぞ、敵さん尋常じゃない数だ、ザッと見ても五十機、いや六十から七十機は居るぞ。迎撃に上がった海軍さんは良いとこ二十機だ。多勢に無勢、まず勝ち目は無いぞ」

 米軍の集団は戦闘機と攻撃機に別れ、戦闘機は護衛の為に上空へ、攻撃機は爆撃の為に低空へと進路を取る。そこへ上を旋回していた零戦が獲物を発見した鷹の様に、次々と急降下して行った。

「畜生、海軍連中泣かせるじゃないか。劣勢なのに相手に突っ込んで行きやがった」

 既に空は入り乱れての乱戦状態。最初は高空からの高度差を利して零戦が互角に対戦していたが、直ぐに形勢は逆転してしまう、正に多勢に無勢、一機の零戦を二機三機で追廻して、次々と撃ち落として行く。零戦は見ている端から火を吹き哀れに墜落して行く。歯軋りしながら篠田と景山が観戦していると、

小暮が爆撃機の近づくのを発見する。

「軍医長殿!北の方角から敵機が来ます!爆撃機です」

「何!」

 篠田が仰ぐと、もう直ぐ其処まで来ていた

「拙い、壕に飛び込め!」

 三人は一斉に壕に飛び込む。同時に地鳴りがして、強烈な爆発音が耳を劈く。入り口近くまで土が舞い込んで来た。

「下手くそめ!何処ねらっていやがる」

 篠田が遠ざかる攻撃機に嘆かを切る。

「軍医長殿、違います、此処を狙ったのでは有りません。あそこです」

 景山の指す方へ目を向けると、そこには破壊された病棟が無残な姿を晒していた。三棟の内、一番外側の入院患者収容棟が一番被害甚大だった。

「上手じゃないか!ドンピシャだ」

 先程の嘆かは気が利いていたが、今度の嘆かはヤケクソだった。

 爆撃は約二十分で終わった。早めに退避したおかげで負傷者は少なくて済んだ。迎撃に上がった搭乗員に未帰還者が多数出た。

 この空襲を受け。分院は万が一に備える為に破壊された病棟を破棄して、防空壕へ引越しするように命令を受ける。非常時に治療が出来ない事の無き様にする為だ。入院施設を壕内部に造り、診療所部分だけ壕の入り口に直結している建物を改築して仮住まいとした。上空から解らぬ様に屋根の上を偽装して、容易に判別出来ない工夫を凝らしていた。壕の穴はオムスビ型に掘られて、天井は低く太い一本の壕から枝分かれ式に部屋が区切られる様に掘られていた。奥に行く程湿気が有り、看護に不便な部分も有るが、今はこれで我慢するより手が無いのだ。愛子達看護班は早速、先の空襲での患者のケアを壕の病室で始めていた。愛子と小百合が患者に声を掛けて様子を伺っている。

「どうですか?何か不便は無いですか?」

 患者の傍では素子や綾達が忙しなく包帯の交換やら、薬の投薬やらを行っていた。

「狭くて堪りませんね」

 愛子の後ろに景山が検診にやって来ていた

「えぇ、でも空襲の度に壕へ避難する手間を思えば贅沢は言えません」

「確かに、一々行ったり来たりは大変ですからね」

 景山も看護班に加わり、様態の確認や簡単な検診を始める。患者は皆元気だった。

「今の所問題無いですね」

「はい」

「本多さん、お願いが」

「はい、何でしょう?」

「少しだけ、婦長を借りたいが、良いか?」

 小百合は軍医に{ハイ}と答え愛子に向いてから、意味有り気にニンマリして来た。

「ちょっと変な顔しないで」

「いいじゃない、きっとこの間の続きよ」

 愛子もそれは薄々感じていた、忙しさが一段落着くまでは、愛子は何も言わずにいたが

実際ヤキモキしていた、不謹慎と言われようと自分の感情を抑制するのが、とても苦しく成って来ていたから。

壕の脇の急拵えの腰掛に腰を降ろす。景山がタバコに火をつける、一口吸い込み息を吐く、煙が揺ら揺ら上がって行く。先の続きが聞けると思うと愛子の気持ちは不謹慎だが、高鳴っていた。

「ここ一週間は大変でした。看護班は本当に良くやってくれました」

「いいえ、衛生兵の方々には敵いません、特に小暮先任には脱帽です」

「小暮ですか、奴は流石に軍医長殿の従兵を勤めるだけ有って、良く気が付きます。あれでもあいつ兵暦は長くてね、志願兵ですから彼此足掛け五年在籍しているそうです」

「そんなに長く、若いのに意外です」

「実は新任以来小暮は篠田軍医長と一緒らしいのです、普通は転属に成る時に別れるのですが、あの二人は転属先も同じだそうで、その訳は配属先が決まる度に軍医長が小暮を貰いうけに行くそうで、小暮も運命ですと諦めていました。これは悪い意味では無いですよ」

「解っています、あの御二人は以心伝心ですもの」

「そうですね、実に羨ましいです・・・・」

 何か続きを言いかけて景山は言葉が詰まる。愛子が沈黙に耐えられず先に切り出してしまう。

「軍医殿、先日の事なのですが、あの続き

を私は聞きたい・・」

 愛子が言い掛けたのを、景山が制する。

「待って下さい、その事なのですが。私から言います。・・・・・・今は、・・今は未だ我慢しましょう、お互いの気持は解っています。そうですね」

景山は自信有り気に愛子を見つめる、愛子は黙ってゆっくりとうなずく。

「わかりました、良かった。でも、でもですね」

「でも?」

「あの空襲以来、散発的ですが、此処も爆撃機がやって来る様になりました、何時窮地に立つやも知れません、だから本当の平和が来るまでは、お互いが無事で帰れる迄は、我慢しましょう。でないと何か有った時に私は公平な医者で有る前に、貴方の為の医者に成ってしまいそうで怖いのです。この意味解っていただけますね?」

 言葉では伝えて貰わなくても充分だった。

言葉の端はしに景山の愛情が隠れていたから

、後は時間が解決してくれる、この戦争さえ

終われば、きっと自分を迎えてくれるだろう

。愛子の心は安堵で満たされた。

「解りました。私は軍医殿を信じて従います」

 二人が談笑していると、壁の向こうから小暮の呼び声が聞こえて来る。

「軍医殿!婦長殿!居ませんか?」

「なんだ!ここだ」

 声に気づき小暮がやって来た。

「お話中すいません。軍医長殿がお呼びです、至急来られたしとの事です」

「解った直ぐ行く」

「婦長殿もお願いします。お二人とそれと

私含め三人に用があるそうです」

「解りました、直ぐ伺いましょう」

 急拵えの診察室、三人が部屋に入って来ると篠田が座るように指示をする。篠田の顔が普段より真剣だ、きっと何かあったのだろうと推測出来た。

「実は先程指揮所に呼ばれてよ、大仕事を申し渡されて来た」

「と、言いますと?」

「昨日だが司令部が新設されたばかりのパラオが敵の空襲に合い、大損害を受けたそうだ。ここが受けた空襲の比じゃないらしいんだ」

「初耳です、今連絡が入ったのですね」

「あぁそうだ。それで医療施設も壊滅状態で治療も何も有ったもんじゃないらしいんだ」

「酷い、病院施設に攻撃をするなんて」

「新設部隊の病院なんて精々旗ぐらいしか立って無いからな、敵さんも判別出来無かったんだろう。で、核心は此処からだが、そうゆう事で現地じゃ何もまともな処置が出来ないそうだ、それでサイパンとグアムの病院で重症者を引き受ける事にしたんだ」

「そうゆう事ですか、で、何人位に成りそうでしょうか」

「サイパンで約百人引き受ける、本院で七十人、此処で三十人ぐらいだ。引き取りの輸送機が今立つ、収容したらそのまま取って返して明日朝に帰って来る。それで問題はベッドだが、空きは幾つ有る?」

「大体二十床は有ると思います」

「それじゃあ、足らねえな。婦長、グレ達と急いで仮のベッドを手配してくれ、おいグレ頼んだぞ」

「承知しました、婦長殿!取り掛かりましょう、私は工作課へ行って資材を手配します。

婦長殿はシーツ等の手配をお願いします」

「解りました、直ちに」

「景は俺とオペの支度だ、要手術者がワンサカ来るぞ」

「はい、忙しくなりますね」

 翌朝のアスリート飛行場は未だ日が昇り切らずに空は微かに紅色を帯びていた、朝焼けの澄んだ景色を背に、輸送機の姿が徐々にあ露わに成って来た。基地要員が固唾を呑んで

見守っている。輸送機が到着するや否や次々と負傷した兵が運び出される。此処からが

本番だ。

 分院では最初の負傷兵が到着していた、兵は左腕の肘から下を裂傷しており、かなりの重症だが意識はハッキリしていた。篠田が初診をしていた。

「こりゃひでえや、オイ、何が当たったんだ?」

兵「はい、砲弾が炸裂してその破片が当たりました」

 痛みを堪へて必死に返答する。

「うーん傷も酷いが、先ず処置がいけねえな、止血帯がきつ過ぎる、見ろ、血が指先まで行って無いから壊死が始まってら」

 篠田が指先を触って確認する。

「おい、おめぇは生きたいか?」

兵「はい、生きて国に帰りたいです」

「じゃあ切るより他に方法が無いが如何する?付けときゃあ壊死が回って死ぬかしれんぞ、どっちが良い?」

 兵は一瞬考えるが、直ぐに決断する。

兵「構いません、切って下さい、腕一本で助かるなら安いものです」

「よし!解った。おい、婦長、工作室へ行って鉈と木槌を借りて来い」

 手術に関係の無い予想外の依頼に愛子は返答に窮する

「(鉈?木槌?)・・・・」

「どうした?」

「鉈ですか?」

「そうだ鉈だ!あと木槌も忘れるな!急げ!」

「はい、志保工作室へ、急いで」

「解りました」

 志保が早足で手術室を出て行く。

 工作室へ志保が慌てて駆け込んで来る。息が上がり呼吸が激しくて、用件を中々言えない。漸く呼吸を落ちつかせ事情を話し、工具を抱え勇んで手術室へ戻って行く、鉈と木槌を手にした志保が駆け込んで来た。

「戻りました!これを」

「有難う志保。軍医長殿お待たせしました」

「おう、じゃあ始めるか」

 篠田は皆に配置を指示する。古い止血帯を外し、代わりの止血帯を更にキツク巻き付ける、手の空いてる看護婦は手と足を押さえさせ、景山には鉈を腕に当てさせ構えさせる。

「景、良いか其処からピクリとも動かすなよ」

「はい、絶対に動かしません」

 このやり取りを見ていた、負傷兵が篠田に

不安げに問い質す。

兵「軍医殿、失礼ながら質問です。麻酔はしないので有りますか?」

「何?麻酔だ?次が詰まってるんだ、一々麻酔など、してられるか。貴様は帝国軍人だろうが、歯喰いしばって我慢しろ」

兵「しかし」

「その間に誰かが死んだら貴様が原因だ、それで良いか」

 負傷兵は何も言わずじっと目を閉じ、暫くしてから思い切った様に返事をする。

負傷兵「わかりました。軍医殿、心の準備は出来ました。自分も帝国軍人です、之ぐらいで泣き言は言いません、気持ちよくやって下さい」

「心配ねえよ、任せとけ、皆、抜かり無いか、無いなら行くぞ」

 篠田は気合諸共勢い良く木槌を振り下ろす。

ドンと音と共に切れた腕が床に落ちる。愛子達は思わず顔を叛けてしまう。それと同時に切られた兵も気を失う。

「おい景。さっさと縫合して止血処理しろ。次だ、次のクランケを連れて来い!」

 篠田の治療は一見すると荒々しく、教科書には絶対に載って無い事を平気でやっていた

。だがそれは戦時では之が当たり前だと言わんばかりの対応だった。設備も完璧で無い戦地では、むしろこの臨機応変さが大切だ。そして何よりどんな手を使っても、絶対に負傷兵全員を助けるのだと言う篠田の姿勢が景山や愛子達にひしひしと伝わって来ていた。だから篠田が多少荒っぽい治療をしても景山も愛子も何も不安も不満も感じ無かった。普段暇な時は酒ばかり飲んでいる篠田が、この時ばかりはとても頼もしく生きいきして見えた。



 治療は休み無く続けられた。篠田は患者が居る限りは全く休もうとしなかった。看護班も術後の患者の対応に大童していた、小暮達衛生班の方は主に火傷の処置にてんてこ舞いをしていた。運び込まれた患者の処置が全て終わったのは、最初の患者から数えて既に十六時間を過ぎていた。愛子が最後の患者をベッドに寝かし着けて時計を見ると時間は午後の十二時を回っていた。愛子は小百合と二人で患者の見回りを終え、後を他の看護婦達に任せ、一旦手術室に戻る。手術室のドアを開けると其処では既に篠田と景山が床に大の字に成ってのびていた。何しろ朝から一度も休まず処置し続けていたのだから、二人の疲労は相当な物だろう。二人の横で小暮が一人で後片付けをしていた。

「あぁ、既にご就寝ですね」

「本当にお疲れ様です」

 二人はぐっすり眠る篠田と景山に頭を下げる。

「先任申し訳有りません、後は私達がやりますから先に休んで下さい」

愛子が小暮から引き継ぎを申し出るが小暮は{大丈夫と}片付けの手を止めない

「お疲れなのは先任も同じでしょう、そんなに甘えられません」

「今日の忙しさなんて、ノモンハンの時に比べれば屁でも有りません」

「ノモンハンは、そんなに酷かったのですか」

小百合が問いかけると、小暮はノモンハンの頃の話をしだす、あの時の軍医長の働き振りは驚嘆物でしたと、それを目の当たりにして以来、小暮は軍医長の虜になったそうだ、

 二人にもそれは想像出来た、確かに今日の篠田の働きは実に的確で的を獲ていた。寸分の迷いも無く患者の処置に対応していた。小暮はさらに続けて。

「軍医長殿は隊の軍医の中でも群を抜いて手が早くて、見ていて血気迫る物が有りました。それでも裁き切れずに間に合わない負傷兵が、見ている端から死んで逝くのです。それを軍医長は自分の所為にして悔やんでいました。そうゆう受け止め方をする男気有る人なのです、だから今日は軍医長も満足だと思います。こんなご満悦な寝顔なんて滅多に見られませんから、何時までも見ていたいのです。此処は気にせず私に任せて下さい」

 篠田と小暮の間には長く培って来た深い絆が有るのだろう。

「先任は、軍医長殿がお好きなのですね」

「そうですね、上手く表現出来ませんが、本気で惚れています。女子には中々理解出来無いでしょうが、男が男に惚れるのです、渡世人とかの世界の話ですね。軍医長殿の為なら喜んで死ねます」

 小暮の表情には少しの曇りも無い、本気で

思っているのが語らずとも伝わる。

二人は気持良く此処を小暮に任せる事にして、自分達看護班も当直以外は休む事にする。サイパンに来て一番長かった一日が漸く終わろうとしていた。



 昭和十九年四月。大本営はマリアナ方面の

守りの強化をようやく始める。先ず手始めに満州に展開していた第九戦車隊をこの四月サイパンに展開させた、ほぼ同時に内地の歩兵大隊を派遣させ陸軍の増強を図る。今後予定される海軍の決戦、あ号作戦の際に打ち漏らした米軍が、サイパンに攻め行った時に対応する事が主な目的だった。だが事此処に及んでも上層部では、未だにマリアナ方面に米軍は来襲しないと読む空気が蔓延していた。それが原因で守備隊として派遣されて来た部隊は、士気が低く緊迫感は殆ど感じられなかった。それに反して米軍は、着々とマリアナ方面に矛先を向ける準備をしていたのだ。


 パラオからの負傷兵達の具合も大分良くなり、内地行きの輸送船に便乗して帰還する事が決まった。三日後分院前には救護隊一同が陣取り、負傷兵達を乗せたバスを見送っていた。手にしたハンカチや帽子を振って見送っていた。篠田と景山、小暮も陰からひっそり見送っていた。

「いっちまったな。これで今暫くは暇が出来るな」

「はい、そうでありますね、小暮も暇が出来て万々歳か?」

「我々が暇なのは部隊に取っては良い事ではありませんか、」

「まあそうだよな。それはそうと、今晩やらないか(酒を飲む仕草をして)久々に街に出て派手にやろうぜ、どうだ?ついでにだが、満州から戦車隊が来ているんだが、戦車も拝みたいし。出かけないか?」

「良いですね、お供します、小暮も良いな」

「勿論です、泥酔するまでやりましょう、暫くぶりですしね」

 三人の決議は早かった。

「婦長、そうゆう事で、俺ら三人はこれから戦車の視察に行って来る。悪いが明日の朝まで留守を頼む、呼び出しは緊急時に限る。良いな」

 勝手な事をと愛子は思いつつも、こういう時の男は子供みたいで何だか無邪気で良いなと思ってもいた、そう思うとと、止める気にも成れず、素直に笑って送り出せた。

「はい。承知しました、今日は心ゆくまで飲んで来て下さい」


 ガラパンの繁華街は戦車部隊の到着と、内地からの歩兵部隊の増強で一時的では有るが活気を呈していた。陸軍指定の割と広めの食堂。店内にはテーブル席が二十席程並んでいる、普段は空いている店内も今日は新たな隊の到着のおかげで満席だった。隅の席に篠田達が陣取り、ビールを飲み交わしていた。

「いやぁ流石に盛況だな、之だけ兵隊が島に来たのは始めてじゃあねえか」

「戦車の数も多いですね、あんなに台数を見たのは満洲以来です。此処にあの数が必要ですかね?」

「本当です、此処よりフィリピン方面に回せば良いのにと思います」

 景山が篠田にビールを注ぎながら自分の見解を述べる。注がれるビールを気にしながら

篠田も本心を述べる

「上層部も解ってねえな、此処は米軍さんら素通りするんだ、之だけの戦力は的外れも良いとこだ」

「しかし、壮観でしたね、あの戦車隊の隊列を見たら何だか安心しました。之だけの戦力が有れば例え米軍が来ても大丈夫ですね」

「まあそうだな、備え有れば憂いなしだな」

 三人の話題はもっぱら到着した新たな隊の事と、今後の戦況についてに集中していた。

 飲む程に話題は盛り上がり、篠田の声が一段と大きくなった。暫くして奥の座敷から陸軍の将校と従兵が四~五人出て来た。その将校が篠田に気づき近づいて来た。

「篠田!貴様篠田軍医だな」

 階級章からして大佐だ、昔の篠田の上官らしい。威圧的な話し方から察するに余り良い関係では無いのが直ぐに解った。声を掛けられ階級章に気づいた景山がサット立ち上がり敬礼するが、篠田と小暮はそのまま座っていた。明らかに反抗的な態度だ。

将校(大島大佐)「おや、そこの若造は新任か、流石に軍の仕来りに忠実だな。こら貴様らは上官に敬礼出来んのか!」

 大島の怒鳴り声で店内の他の兵達も気づいて大島に一斉に敬礼する。篠田と小暮も渋々立ち上がり敬礼をして返す。

「ふん、相変わらずだな、その生意気な態度は変わらんな、何時か貴様に痛い思いでも味あわせてやる。それまで長生きするが良いさ。しかしまさか貴様が此処に居るとはな。そうか暇で平和な島の方が貴様にはお似合いか」

「その島に栄転でありますか」

 篠田も負けずに嫌味を言って返す。大島は

余裕とばかりに大笑いする。

「ハハハハッ何も知らんくせに何を言う、精強を誇る我が陸軍百三十連隊がここで終わる訳が無い、主役は大トリと決まっている、いよいよと言う時まで此処で静養するだけだ。米軍は此処へは来やせん、教えてやろう海軍さんは今フィリピン沖で米軍を向かえ撃つ気だ、だからここは蚊帳の外だ、お前の様な無能な軍医には此処の島がお似合いだ。」

 何が有ったかは計り知れないが、この二人には相当な遺恨が有るに違いなかった。大島は言いたいだけ言うと二人を睨みつけて出て行った。

「何なのですか、あの大佐の態度は?」

 訝しげに景山が聞くと、篠田が話し出す。

「あのクソ野郎とは、ノモンハンの時に一悶着有ってよ」

「一悶着ですか?」

「あぁ、思い出すのもムカムカすらあ」

「差し支え無ければお聞かせ頂けないでしょうか」

「そうだな、今後あのクソ野郎と絡むかもしれんから、景の為にも話しとくか」

 篠田は珍しく畏まり、事の詳細を話出す。

「ノモンハンは此処の様に平和な戦場とはかけ離れた所でよ、正に修羅場だったな。流れる空気も殺伐していて、何時死ぬやも知れない雰囲気だった。毎日の様に死人が出てな、傷痍兵の数も半端じゃあ無かった。なぁグレそうだったよな」

 小暮が黙って頷く。

「あの時俺は、運ばれて来たばかりの一等兵を診ていた、そいつは重症だか、今処置すれば何とか成る、俺はそう踏んで必死こいて処置していた。其処へあの大島が負傷した自分の上官を担いで来て、先に上官を処置しろと抜かしやがる。診たら命に影響無い怪我だ、俺は後だと言ったんだ、そしたら大島の野郎がそんな下っ端放って置け、死んだ所で何も影響は無いと言いやがる、だから俺は言ってやったのさ。命に上も下もねぇ!どんな命も全力を尽くすのが俺の信条だとな」

 景山は篠田の話に引き込まれて行く。見つめる目が真剣だ。

「それでアイツは如何したと思う?あの現場の空気で強がっていたのかもしれねえが、銃を抜いてそいつを突き付けて{命令だ}と粋がりやがる。それでも俺は怯まなかったがな」

「銃を!それでその後は如何されたのですか?」

「その時は、上官が仲裁に入ってくれて穏便に済んだんだが、それ以来事有る毎にアイツは嫌がらせをして来てな。小せえ野郎だ、部下には人望は零だが、上官に取り入るのだけは狡猾で実に上手い。英語で言うスタンドプレーってやつだ。腐った狐みたいな野郎なんだ。おっとこんな例えは狐に失礼だな」

 苦笑いしながら例えを正す。

「兎に角、良いか景。あのクソ野郎には要注意だ」

「はい、了解しました」

「さあ、飲み直しだ、嫌な野郎の事なんて忘れて気分を変えようぜ」

 篠田が景山に酌をする、慌ててコップを持ち直し、ビールを受ける、恐縮した顔だ。

「すいません、自分でやりますから」

「いいんだよ、俺と飲む時は無礼講だ。グレなんか良く俺のベッドで寝てやがら、なあ」

「軍医長殿、それは軍医長殿が深酒を勧めるからじゃないですか」

「そうか俺が原因かハッハッハ」

 嫌な事が有っても篠田の切り替えの早さには何時も感心させられる。之が長く戦場に生きるコツなのかも知れない。 



 翌日の昼に昼食を終えた愛子が木陰で景山から昨日の飲みの時の出来事を聞いていた。大島の話になると愛子は驚いていた。

「まあ銃を、随分な事をされる方なのですね」

「そうなのです、もし自分がされたらと思うとゾッとします。軍医長殿の如く怯まず居られるかどうか・・・多分無理でしょうね」

「軍医長殿はああゆう方ですから特別です、大概の人はそんな事をされたら怯むのが当たり前です」

「あの度胸は真似できませんね、手術にしてもあの大胆さは、度胸が無いと出来ません。生まれ持っての物でしょうね」

「人それぞれ得て不得手が有ります。真似出来る事はすれば良いし、出来無い事でも努力すれば良いのです」

 二人の会話する姿は恋人同士その物、只未だ告白して無いのが、二人の間に見えない壁を作って、かろうじて一線を越えずにそれを保っていた。

「それと、昨日の軍医長殿の話で一つ光明を得ました」

「光明ですか」

「はい、自分は父や祖父の勧めで医者を志しました。その為に自分が成りたい医者像という物がハッキリと定まっていませんでした。父や祖父の様に成りたいと言っていましたが、それは受け売りです。自分の内面から自分の心から自信持って言える医者像と言う物が見えていませんでした」

 景山は何かを掴んでいるようだった。愛子は黙って見つめ聞いていた。景山は暫く無言で何かを考えていた、そして一言一句かみ締めるように話し出す。

「軍医長殿の言った信条です。{命に上も下も無い、どんな命にも全力を尽くす}これです。自分も軍医長殿の様な医者を目指そうと、昨日ハッキリそう思えたのです」

 景山の話し方が喜々としていた。余程心を打ちぬかれたのだろう。愛子は好いている人が喜ぶ姿を見ているだけで、自分も幸福感に浸れる事を始めて知る。

「軍医長殿の性格は真似出来ませんが、信条は真似出来ると思います。如何思いますか」

 愛子はゆっくり深く頷いた。

「良いと思います。命に上も下も無い。その通りです、目指して下さい、人にそれを誇れるお医者様を。そして軍医殿のその姿を私にも必ず見せて下さい」

「勿論です。婦長に見せないで誰に見せるのですか。約束します、何時か必ずその姿を婦長にお見せする事を」

「絶対ですよ(笑う)」

「えぇ(笑う)」



 夕日が差し込む軍医長室で窓を背にして椅子に篠田が座って居た。飛び回る蠅を手で払い何か落ち着かない様が伺えた。篠田に呼ばれた愛子と小百合、景山と小暮が入って来た。これから何やら報告が有るらしい。

「おう、ご苦労、悪いな、急に呼びつけて

。今しがた指揮所から帰って来た、報告が有ってな。まあ明日でも良かったんだが、早い方が良いと思ってよ。で、良い報告と悪い報告が有るがドッチの方が先に良いか?」

 唐突に言われて皆は戸惑う、顔を見合わせるが誰もが言い出しかねていた。

「おいおい、そんなに大げさな事か?じゃあ先に良い報告から行くか。ほれこれを見てみろ」

 篠田は徐に内ポケットから一通の封筒を取り出し景山に差し出す。

「何でしょう?」

「昇進書だ。今日付けでおめえは少尉から中尉に昇進だ」

「本当で有りますか?」

「本当だ、おめでとうだ」

「有難うございます」

 皆は景山の周りに集まり一斉に賛辞を送る

中でも愛子は真っ先に景山に寄り添うように

声をかける

「おめでとう御座います」

「てえしたもんだ。着任から半年位か?もう昇進だ。まあ俺の推薦が有っての事だがな、今日だけは感謝してくれよ」

 篠田が恩着せがましく言うが、直ぐに冗談だと解る。目が笑って景山を見ていた。この中で一番喜んでいるのが自分なのを、誤魔化していたのだ。

「それで。悪い報告とは?何で有りますか」

 景山が封筒をポケットに仕舞い込み、襟を正して問う。

「それなんだが、実はなぁ、今まで指揮所で此処ら辺一帯を担当する守備隊連中と顔合わせをしていたんだが。よりに因って派遣部隊があのクソ大島が隊長の百三十連隊なんだ」

「本当で有りますか、それは又面倒な事で。で、今日は何も?何か有りましたか」

 一歩詰め寄る景山。

「あぁ、早速な、此処を担当する限り自分は上官だ、命令は尊守して貰う。次に命令違反した時は容赦しないと、事と場合によっては軍法会議にかけるとよ」

「そんな事を言ったのですか?」

「相変わらずだ。御偉い様が前に居ると大口叩きやがる。着任したての南少将が同行して来ていたが、陸軍の誇りと誉高いお人だからな。そんな上官を前に威勢の良い所をアピールしたかったんだろうよ。なあに何も出来やしねえさ、無知で無能の奴に限って、でけえ口叩きやがる。馬鹿丸出しだ!」

 本気で不愉快なのが肌に伝わって来た、何も無ければ良いが、非常時には何が有るか予測出来無い、一抹の不安が残る。

「救いなのが、奴の常駐場所は市街地の本部だ、だからそんなに顔は合わせないだろう、派遣隊の一部一個中隊が此処いら飛行場に来るだけだ。それらが明日到着する、それから又一仕事有るから手配だけ頼む」

 別封筒の指示書を出し小暮に渡す、小暮が中を確認すると、そこには{緊急時避難場所確保要領}と書かれた指示書が入っていた。

「何なのですか、これは」

「簡単に話すと、米軍が上陸して来た時の為に、山の中に適当な避難場所を見つけて置けと云う事だ。馬鹿らしい、上層部の奴ら本気で米軍が此処に来ると思ってやがる。面倒だが明日早速派遣隊の中から何人か調査員が来るから、衛生班と看護班から何人か人を出してくれと言われてな。同行して避難に向く場所を検討して欲しいそうだ」

「はい畏まりました」

「まったくよ、山中で何を見つけろってんだ。無駄足させるが頼むぞ」


 翌日、診療室前に移動用のトラックが待機していた、景山と小暮、愛子と小百合が外出着を来て準備万端で連隊からの調査隊の到着を待っていた。山に分け入るので景山と小暮は軍靴にゲートルを巻き上げてのいでたちで、愛子と小百合は自家製のモンペを着て、肩から万が一の時の為に包帯嚢を袈裟懸けしていた。暫くして調査隊の一行が分院にやって来た。隊長の少佐の顔を見て景山が驚きの声を上げる。

「雨宮!雨宮だな」

 相手の少佐も直ぐに気づいた。

「景山か!貴様景山だな。ちょっと待て{暫し考えて}光成か?只成か?」

「八年いや七年振りか、無理も無い。よし少し考えろ」

 雨宮はじっと景山を見つめて思案していた

、だが考えあぐねていた。何かヒントを得ようとしていたが、双子の中でも飛び切り似ている景山の容姿からは、ヒントは見つけにくかった。次の瞬間雨宮はイキナリ片手を大きく振り上げて、景山の頭上へ振りおろした。

咄嗟に景山は右手でそれを払いのけていた。

「光成だな、貴様光成だ。」

「卑怯者め、利き腕で判断したな!」

 二人は久しぶりの再会に立場を忘れて喜び合う、取り残された周りも、事情は大体飲み込めていた、旧知の友の再会だと。

「軍医殿、お知り合いなのですね」

「あぁそうだ。こいつとは府立九中の同期でな、弟共々大変中が良くて、何時も一緒に勉学に励んでいたのだ」

「三人の仲でこいつが一番頭の出来が悪くてな、俺と只成がよく勉強の面倒を見ていたのだ」

「それを言うな。こいつは只成と並んで特別優秀なのだ、証拠にこいつは中学四年で陸士に飛び級で合格したのだ。驚きだろ、四年で陸士だ、九中始まって以来の出来事だ。しかも既に少佐だ、どれ程優秀か解るだろう、さては陸大も主席で卒業したな」

 雨宮はその通りだと言わんばかりに、腰に

ぶら下げた軍刀を前に翳す。

「あぁそうだ、見ろ、この軍刀を、卒業の時に陛下からの恩賜の物だ。これを下げているのは我が連隊でも私と指令官の南少将だけだ」

 見事に飾られた鞘が恩賜の軍刀を物がたっていた。

「それで只成は如何しているか?帝大を出て医者でいるはずだが、今は貴様同様軍医か」

「あいつは結核に罹患してな、今は自宅で

療養中だ。その御かげで兵役免除だ、良いのか悪いのか解らんがな」

「そうか、結核ならしかた有るまい。兎に角元気で何よりだ、此処でまさか貴様に合うなんて、やはり縁が有るのだな」

 二人は改めて再会を喜び合っていた。


 山中の小道を景山達一行が地図を片手に歩いていた、少し行っては立ち止まり辺りの地形を確かめて又歩くを繰り返していた。かの避難場所を決める下見をしていたのだ。

「雨宮。質問だが、こんな事は必要か?米軍は本当に来るのか?」

「しらん。俺は命令されたまでだ。本音を言うと、馬鹿らしいと思っている。米軍が素通りするのは海軍の御偉いさんから聞いている。大佐の立案だからしょうが無いだろう」

 雨宮の言葉尻に大島大佐への不満が見て取れた、本心を聞き出そうと景山は更に質問をぶつける。

「そうか、命令ね。貴様も大変だな、あの大佐殿の下では。苦労も絶えないだろう」

 本音を突いた質問に、雨宮は知っているのかと言いたげな表情に成る。

「何か内の部隊の事情を仕入れているのか」

 景山はしたり顔に成る、不満が有るなら話易い。

「あぁ少しな、内の軍医長殿から聞いている。相当確執が有るそうだ」

 軍医長の話を聞くと、雨宮は心得たとばかりに話だす。

「あの軍医とは、貴様の所の軍医長の事か!あの話は大佐殿から耳に蛸が出来る位聞かされている、クソ生意気な軍医が居ると」

「そうだ、で、その話を聞いて如何思ったのだ?」

「貴様だから本音を言うぞ。実に痛快な軍医も居たものだと思ったさ。内の隊じゃあ大佐殿は鼻摘み物だ、部下で誰一人好いている者は居ない。大体が親の威光であそこまで出世した人だ。隊だって俺や他の者が仕切らないと何も動かん。それなのに自分で動かしていると思い込んでいる、幸せなお人だ」

 景山は雨宮の本音が聞けて安心する。雨宮が居れば大佐とのいざこざが有っても何とか成るだろうと胸を撫で下ろす。

 二人が会話をしている所へ、先に辺りを物色していた隊員が何かを見つけたらしく、勇んで駆け寄って来た。

兵「少佐殿。候補地と思われる建物を発見しました」

「そうか、では案内しろ。皆こっちへ急げ」

 雨宮の声に引きずられ、一行は兵の方向へ

歩を進める。程なくして目的の建物が視界に入って来た。

 朽ち果てかけているバラック造りの平屋の建物。建物の脇から太い銅管が森から道方向へ伸びていた。柱には南洋興発水道部と書かれている、昔使っていた施設らしく、使わなく成って随分経つらしい。放棄されていたのが幸いして、木々が鬱そうと生え、大きな木が建物全体を覆い尽し、空からの発見はし難いと思われた。建物の近くに僅かだがまだ水が湧き出て水場に成っていた。内部は正面入り口付近が一番大きな区画でおおよそ四十畳程、後は細かく区画された部屋が五つ有った。避難場所としての条件は揃っていた。

 建物の内部を確認した一行が入り口付近に

集合していた。

「景山どうだ、使えそうか」

「少し汚いが、非常時なら問題無いだろう、婦長は何か意見はあるか」

「水場が有るのが良いと思います、いざ使う時は助かります」

「雨宮の立場では如何なのだ?使い良いとか有るか」

「そうだな、先ず発見しづらいかどうかだが、その点は合格だ。いい具合に木立に埋もれて、空からも発見は困難だろう、それに直ぐ後ろに小山を控えていて見張りも立て易い、問題無しだ」

「そうか、戦闘の専門家の見立てが有れば全て良しだ。後は位置確認だが」

 景山は雨宮と地図を眺め確認すると皆を集め、場所を覚えておく事を伝え撤収する。


 軍医長室に景山と雨宮が報告をしに来ていた。星が既に空一面を支配して、こうゆう時のサイパンの夜は実に静かだ。

「おう、ご苦労さん。良い場所が有ったらしいな」

「はい、雨宮少佐が予め目星を付けていた場所が、正に適地で、僥倖でした。少佐に感謝です」

「私は事前にあの場所に何か有ると、地図で調べておいただけです。偶々です」

「いやいや仕事ってのは、その事前の準備が大事なんだ、若いのに少佐に成るのも頷けら。そう言えば、おめえらは旧知の仲らしいじゃないか」

「はい。府立九中の同期で大親友です」 

雨宮は照れくさそうな仕草をする。

「失礼ですが、我が部隊の大佐殿に楯突いた軍医長殿ですね」

「ああそうだ。なんだ有名みてぇだな」

「ええ、大そう有名です。お会いできたら是非一度お礼を言いたくて」

「ほう、{心得たと言う表情をして}そうかい、そうゆう事かい。なら話は早いぜ、酒でもやりながら話そうか」

 篠田はデスクの一番下の引き出しから、ウイスキーを取り出しデスクにデンと載せて見せる。

「軍医長殿まだ報告が終わっていませんが」

「いいではないか景山、軍医長殿がああ言ってらっしゃるのだ、俺は是非そう願いたいぞ」

「雨さんよ、こいつは変に仰々しい所が有るんだが、昔からか?」

「えぇ、縦横斜めキッチリしていて、それが為に勉強でも応用が利かないのです。まるで杓子定規みたいです。少し頭を丸くしろ、これは命令だ(笑う)」

「おっと、いい意味でコイツハ一本取られたな。命令と有れば断れまい、そうかこれから景を飲みに誘う時は命令すれば良いか」

「軍医長殿!それは困ります。おい雨宮よけいな事を。こうゆう時に階級で物を言うな」

 景山はどうにも逃げられずに観念した様だ

「どうやら決まりの様ですね、異存は有りません、軍医長殿。ウイスキーは久振りです、やりましょう」

 酒好きな篠田に取って飲む理由は何でも良い、雨宮も相当好きそうだ。こうゆう時は絶好の機会だ、三人は早速酒の準備をし始める

「おいグレ、すまんが何か肴を頼む」

 隣室に控えていた小暮が顔を出すと、その手には既に缶詰が幾つか握られていた。

「心得ています、先程酒保に行って手配しておきました。自分もご一緒出来ますよね?」

 満面の笑顔と共に小暮が入って来た。

「あぁ勿論だ。そう来なくちゃ」


 守備隊が到着してからのサイパンの状況は

、四月から五月に掛けて、守備隊の陣地構築作業でそれなりに慌ただしく、活気が満ちていた。それに反して戦闘に拠る負傷兵が出ないのと、前線基地からの搬送組が途絶えた為

、分院の方は閑散としていた。だがこれは嵐の前の静けさだったのだ。この後の六月十五日に、米軍の大群が一機に攻め入って来るのをまだ誰も予想出来ずにいた。

 六月。サイパン島に取って運命の日がやって来た。早朝の分院では篠田とすっかり意気投合した雨宮が、何時ものメンバーで篠田の私室で午前様を超えて、朝日が明けるまで飲んでいた。それだけ此処二ヶ月は平和だったのだ。

「自分は篠田軍医長殿の様な方が上官に欲しい。おい景山貴様は幸せだぞ」

 少しばかり絡みも入りかなり酔っている様子だ、景山も同様に酔っている、雨宮の問に反論する。

「これは人徳だ、俺は運が有るのだ」

「なあに今に見ていろ、あんな奴直ぐに抜いてやる、その時は見ものだぞ」

「いいぞ、若いのは威勢が良いのは頼もしい限りだ。でかい口はこうゆう時に叩くもんだ」

 元気な三人を他所に小暮は既に出来上がり

、篠田のベッドにダウンしていた。

「小暮おい、貴様何時もだらしないぞ、直ぐに酔ってしまいおって」

 景山に茶化されても無反応、深い眠りに着いていた。窓からは朝焼けが少し垣間見えて来ていた、その空を篠田が確認すると、酔った腰を持ち上げて、僅かにふら付きながら立ち上がる。

「軍医長殿どちらへ」

「外で雪隠だ、空が朝焼けかけている、こうゆう時は気分良く外でするのが一番だ」

「そうで有りますか、自分も一緒します、おい景山お前もそろそろ出るだろう」

「ションベンなど幾らでも出る、三人で一気に大地にお見舞いと行くか」

 三人はならんで朝焼けの空を見上げ、放尿をする、良い気分な表情をしているが。雨宮が遠くの空に何かを発見する。

「あれ。何だ?遠くの空に何か光って見えるぞ」

 怪訝な声で景山にも促す。

「そうか、何も見えんぞ、酔っているから目の錯覚だろ」

篠田もその方角を見つめる。

「いや、何か居るな、飛行機か、そうだ飛行機だ、それも大群だぞ。変だな、海軍さんからは飛行機の増援部隊の話は聞いてないが。陸軍機か?」

「軍医長殿、隊本部からは何も聞いておりません、やはり海軍機では」

 そうこう話している内にも、機影はどんどん大きく成る。幾つかが散開して低空で進入して来た。次の瞬間三人の酔いは一瞬で覚める、米軍機に拠る空襲の始まりだったのだ。

 ドカン!遠くで爆発音がこだまする、三人

は我に返る。

「まずい!コイツハ、久しぶりの空襲だ」

「自分は直ちに隊に戻ります」

 雨宮は挨拶だけすると、勇んで駆けて行く

残った二人は慌てて部屋に戻り身支度を済ませる。

「でも変です。警報が鳴りません、指揮所は何をしているのでしょう」

「先の空襲で電探がやられた、材料が無くて未だ復旧していない。それにこの暗さじゃ見張りも効かないだろう。今日は多分遣られっぱなしだろ。おいグレ起きろ、何時まで寝ていやがる」

 篠田はデスクに有る物差しで小暮の頭を叩く、痛さで小暮が目を覚ますと、間髪入れずに命令する。

「グレ、招集だ、今の音で皆起きているはずだ、直ぐに此処へ呼べ。景、看護班を集めろ、ひとまず集合だ」

景山と小暮「了解しました」

 以前の空襲時に次の非常事態に備え、既に

防空壕に引越ししていた分院は、その病室自体が避難施設だ、特に逃げる必要は無い。今

は兎に角情報収集に努め、各人に的確な指示を与え、空襲後の急患の受け入れ準備に取り掛かる事にする。

 診察室に篠田を中心に衛生班と看護班全員の顔が揃っていた。篠田が指示を出している時にも、外は引切り無しで爆撃音がしていた。

今日の空襲は今までのそれと明らかに違っていた、音が途切れないのと、音の大きさからして違いがハッキリ理解出来た。空襲はその後約一時間続いた、ようやく終わりを告げたと思われた時に、篠田や景山達が外に出て様子を伺うと、その様子は一変していた。指揮所も何も建物という建物は全て廃墟と化していた、

メラメラと火を湛え燃える建物、煙を上げているどれもこれも何一つ無事の建造物は無かった。

「こりゃあひでえな、今迄で一番だ。どうなっちまったんだ、なあ景?」

「いったい何人被害が有るか、心配です」

そう言って愛子の顔を見る景山、愛子も不安の心根を吐露する。

「軍医長殿、どうすれば?」

「指揮所にも電話が通じねえ。受け入れ態勢だけは完璧にしておけよ」

「はい。小百合急ごう」

「解った」

 愛子と小百合は急いで診察室へ戻る。篠田と景山はまだ辺りの確認作業をしていた、その時遠くに雷鳴が聞こえた、だが雷にしては少し変だった。

「おい景!今雷がしたか?」

「はい、確かに。でも変です、雨雲一つありません」

 二人が不振に思っていると、今度は甲高い笛の響きと共に、爆発音が近くで炸裂する。さっきの雷鳴は艦砲射撃の発射音だったのだ。陸軍育ちの二人には、艦船の砲声は聞き慣れていない、砲声が雷鳴に聞こえたのだ。

「今度は何だ!飛行機は飛んでねえぞ」

「軍医長殿、大砲です。恐らく戦艦からです、あんなに大きな着弾です、でないと合点が行きません」

 飛行機に拠る爆撃が一段落すると今度は沖に勇躍する米軍の戦艦群から一斉射撃が始まったのだ。主だった施設へ絶え間ない攻撃だ。無論飛行場もその標的の一つだ。

 篠田と景山は泡食って愛子達の居る壕に逃げ込む。

「如何しました?また空襲ですか」

「いや、恐らく船からの艦砲射撃です」

「船?じゃあ米軍が直ぐ近くに?」

小百合が不安げに問いただす

「未だ確認は取れねえが、まあ間違いは無いと思うな」

「大変、大丈夫ですか」

「婦長よ、連絡が取れん事には如何にも出来ねんだ、待つより方法はねえな」

 米軍の艦砲射撃は絶え間なく続いた、朝に初弾が飛んでから昼に一旦止んで、小休止の後に午後又再開され、それが夕方まで行われた。初日だけで島の景色は変貌してしまった。夕刻に成り辺りは漸く静けさを取り戻す

、暗くなると目標が不確実な為米軍も撃っては来なかったのだ。



 夜に成り分院へは続々と負傷兵が運び込まれて来た、初日だけで通常のベッドは満杯に成ってしまった。篠田も景山も、勿論愛子達も上へ下への状態だった。寝る暇も休む暇も、食事の時間さえも取れなかった。そうこうしている内から又負傷兵が搬送されて来る、手の空いている者は誰一人居なかった。

永久子「班長殿、又クランケです、何処に案内しますか」

「状態は、どれ位の症状なの」

永久子「火傷です、上半身の五分の一です」

「それ位は私達で処置して、軍医達だけでは手が足りないの」

永久子「はい、解りました」

素子「班長殿、ベッドが足りません、如何しますか」

「無いなら、通路に寝かせなさい、通路が塞がるまではそうして」

美佐子「班長殿、副長殿が呼んでいます、処置室へお願いします」

「解った、直ぐ行くと伝えて。小暮先任、壕の入り口近くに天幕を張って下さい。このままだと、クランケで溢れます、外でも寝かせる場所を確保して下さい」

「解りました」

 引切り無しのやり取りが長く続けられた。

体が幾つ有っても足らなかった。

 小暮は設営隊から天幕一式を携えて戻り、早速準備に取り掛かる。其処へ持ち場に戻っていた雨宮が戻って来た。外での作業をしていた小暮に近づいて来た。

「小暮先任、こっちは如何か?」

「少佐殿お戻りで。施設は無事です、軍医長殿達は今手が離せません、負傷兵の山です。少佐殿の方は如何で有りましたか?」

「(肩を落とし)我が派遣隊は、ほぼ全滅だ」

「本当でありますか」

 小暮の表情が曇る。

「初弾が就寝中の隊舎に命中したのだ、軽症の歩ける者だけ連れて来た。後を頼む」

 雨宮の後ろに五、六人の兵隊が控えていた

、傷は浅いが表情に生気が無い。

「はい、了解しました。少佐殿はどちらに行かれますか?」

「市街地へ行く。本部と連絡が取れん、色々手を尽したが、電線が切れたらしい。斯くなる上は行って指示を仰ぐしか無い。軍医長殿と景山にはその旨宜しく伝えてくれ」

 そういい残して雨宮は夜陰に消えて行く。


 分院が落ち着きを取り戻したのは、翌朝の事だった。だがしかし、朝日が昇ると同時に又米軍の攻撃が始められる。最初は昨日と

同じ航空機に拠る爆撃だ、昨日の攻撃で大概の迎撃施設が被害に遭っていた為、日本軍に

拠る組織的迎撃は全く行われなかった。その為か、米軍の航空機は我が物顔で低空飛行をして、ピンポイントで爆撃をして行った。

 愛子と小百合、景山と小暮はそれを壕の付近で見上げていた。

「くそう、やりたい放題じゃないか、対空砲は如何したのだ」

「軍医殿、昨日の攻撃で被害が出たのでしょう、これではお手上げです」

「今日も昼間中続くのですか?」

「今夜又忙しいぞ、時間が有る者は積極的に休む様にしないと体が持たないぞ」

「でもこの爆撃音では満足に休めません」

小百合が諦め顔だ

「確かに、並みの神経じゃあどんなに疲れていても、無理だな」

「軍医長殿だけです、今寝ています」

「あの人は並みでは無いからな、特上だ」

「ノモンハンの時もそうでした。後方基地の近くに敵の爆撃機が放つ爆弾が着弾しても、疲れた時は平気で寝ていましたから」

「羨ましいけど、真似は無理ですね」

「あぁ婦長の言う通りだ、真似出来無いな」

 この日の攻撃も前日と同様に航空機の攻撃が終わると、間髪入れずに艦砲射撃が開始された。昨日と同じ段取りで攻撃が続けられ、その攻撃がそれから三日間続行された。島は今次大戦中で最大の被害を被っていた。毎晩運び込まれる負傷兵で分院は足の踏み場も無い状態になっている。愛子達は獅子奮迅の働きをして応対した。

綾「班長殿、又クランケが運びこまれました」

「そう、何人?」」

綾「三人です」

「外で待って貰うより他に手は無いは、天幕の下で待たせて」

綾「その天幕も一杯です」

 愛子は天を仰ぐ。

「そう、じゃあ設営部隊の壕に行って貰って、あそこなら未だ余裕が有るはずよ」

綾「解りました、設営部隊の壕ですね」

 綾が返事をして戻るのを確認して壕の方を見回りする。一番奥の病室で、志保が座り込んで手を合わせているのを見つける。

「志保どうしたの」

 愛子に声を掛けられても志保は暫く其のまま動かなかった。そんな志保を愛子は黙って見守っていた

「すいません、今お祈りをしていました、先程逝かれました」

 視線の先には黙って横たわる少年兵の姿が有った。

「そう、随分若い兵隊さんね、可愛そうに。最後は何か言い残したの?」

「はい、一言。かあちゃんに会いたい、と」

「無理も無いはね、志保とそんなに変わらないもの。志保、大丈夫?気は滅入って無い」

「はい、大丈夫です。戦地での事は父から聞かされていましたから」

 この後に及んでも志保は相変わらず一番気丈な心を持っていた。

「班長殿、一つお聞きしても良いですか?」

「良いよ、極秘事項以外ならね」

 場の空気を和らげようと、少しだけ冗談めいて言う。

「このままの状態は何時まで続くと思われますか、班長殿の考えをお聞かせ下さい」

 実直な性格の志保らしい質問だった。愛子も解る事なら伝えようが有るが、今は何の判断材料も無いのだ。

「御免、それは、今は何とも言えない、何の情報も無いの、言えるのは、日本軍は米軍程ひ弱じゃ無いって事。だからきっと巻き返すはずよ、戦車隊だって控えているし。もう少しの辛抱よ」

「そうですね、日本軍が負ける訳ありませんよね。唐突な質問をしてすいませんでした」

「良いのよ、誰でも気に成る事だもの」

 この夜、設営隊と通信隊の尽力で漸く電話が復旧する。早速色々な情報が入って来た。

それに拠ると一連の攻撃で守備隊の被害が甚大で有る事。人員その他諸々が不足している事。虎の子の戦車隊がいよいよ出撃する事。

など、見えて無い事が少しだが解り出して来ていた。

 四日後の早朝は未だ空が薄暗い最中から、飛行場周辺が慌ただしく動き始める。この前日に米軍が上陸を始めたのだ。飛行場の航空隊も搭乗員を含む全員が、米軍撃退の為に次つぎと、上陸地点の守備固めの為に出かけて行く。飛行場には分院の医療隊だけが取り残された。軍医長室では、今後の対策会議を開いていたが避難するのか、その場合動けないクランケは如何するのか、各人から意見が出るが結局は何も決められずに終わってしまう、誰もこれだと言う明確な方針を出せなかった。

「参ったな。残るにしても安全は保障されねえし、避難するにしてもクランケを如何するかが問題だし。如何ともしがてえな」

 篠田が思案に暮れていると、衛生兵が何やら慌てて駆け込んで来る。

衛生兵「軍医長殿、報告であります」

「何でえ、慌てて。」

衛生兵「百三十連隊の指令官殿が裂傷を被って緊急に治療して欲しいといらしてます、外でトラックにお待ちですが、如何いたしますか?」

「何!南少将が。良し直ぐに診察室にお通ししろ」


 雨宮が南少将を抱え通路を入って来た、上官の大島大佐も一緒だった。雨宮の軍服が酷く汚れ、所々破れているのに対して、大島のそれは到って綺麗で何処も破れていなかった。雨宮は一先ず先に南少将を診察室へ入れると通路のベンチにドッカと座り込んで、下を向いたままじっと何かを堪えていた。横に景山が座ってもそれに気づかないでいた。

「おい雨宮、無事だったか。良かった心配していたぞ」

 雨宮は景山の問いかけに辛そうに返答する

「景山、我が連隊は全滅だ」

「まさか、そんな事が。本当なのか?」

「我が隊は橋頭堡の第一列線に居た。その為に米軍の戦車隊に突進されて、蹂躙された、成すすべも無く終わりだった。生残りをかき集めようにも統制も何も取れない、辛うじて連絡の取れた者だけ連れて来たが。たったあれだけだ」

「我が方の第九戦車隊はどうした、当然反撃したのだろう?」

「今回の戦闘で思い知ったのだが、米軍の戦車が金庫なら、我が軍の戦車はブリキの菓子缶だ、あんな物相手にならん。小学生が横綱相手に相撲を取って敵うかどうかだ、それ位彼我戦車の装甲に差が有る」

「では戦車隊もやられたのか?」

「やられる?見ていて泣きたくなった。こっちの戦車は何発も当てる、腕はこっちが断然上だ。だがな、全て弾き飛ばされるのだ。翻って先方の弾はまるで当たらん、五発に一発位だ、しかし一発当たればそれで終わりだ、爆発炎上してお釈迦だ」

 悔しそうに涙を堪えている雨宮。景山はこんな雨宮の表情を見るのは始めてだった。


 南少将が苦痛に顔を歪めて篠田の診断を受けていた。右太ももを大きく裂いた傷口からはまだ出血が続いていた、砲弾の破片で出来たらしく、複雑な形の傷口だった、素人目にも縫うのは困難なのは予想出来た。愛子と小暮は傷口を消毒しながら、篠田の判断を待っていた。傍で大島が篠田を睨んでいる。診察を終えた篠田が初見の診断を伝える。

「指令殿、ハッキリ申して良いですか」

「あぁ構わん、覚悟は出来ている」

「大動脈が切れています、繋ぐにしても道具も設備も有りません、血が行き渡らないとこのままでは足先から壊疽を起こします。切断すれば命に別状は有りませんが、このままにしておくと何れ死に到るかも知れません」

「死に到るとしたら、どれ位生きられるのかね」

「そうですねぇ、個人差は有りますが、一ヶ月位は問題無いでしょう。其処から先は何とも言えません」

 このやり取りを聞いていた大島が篠田に食ってかかる。

「切らずに何とかするのが医者の仕事だろうが。この藪医者、道具や設備など無くても何とかせんか。気合で直せ、馬鹿者が」

「大佐殿、無理を言わんで下さい。精神論で人が治せたらそれこそ医者など要りませんよ」

「口答えするな、又反論するか!命令だ

切らないで治さんかこの無能の木偶の坊が」

 横で一々口出す大島を南が一括し、出ていく様に命令する、大島は当てつける眼つきで

篠田を睨み渋々退出する。

「すまん、恥ずかしい所を見せて。一月は生きられるのなら、それで充分だ、切らんで良い。連隊を全滅させた以上これ以上生き長らえようとは思わん」

「しかしそれでは」

「いいのだ、もう良いのだ」

「解りました。では止血と防腐処理だけ

させて下さい。後は鎮痛剤を定期的に打たせてもらいます。多少眠くなりますし、熱が出るかもしれませんがいいですね」

「ああ、それで良い。頼む」

 篠田は処置を終えると、愛子を室外に呼びだし、少将に対しての諸注意を与える。

「婦長。少将は既に死を覚悟してら」

「はい、お二人のやり取りを見ていてそう感じました」

「南少将殿は名の知れた名将だ、陸軍の兵隊に取って英雄なんだ、居るだけで兵の士気がまるで変わる。簡単に死なれては困るんだ

、自決なんぞしないと思うが、目立つ所に寝かしつけたら、定期的に見回るように。気にかけてくれ」

「解りました」

 その日の夜。燃料節約の為、非常灯のみに

された壕の中は薄暗く、湿気も手伝いドンヨリとしていた。愛子は小百合と夜の見回りをしていた。手にした懐中電灯を頼りに、ギッシリ詰まっている患者の中を慎重に歩を進める。篠田からの注意は小百合以下班員全員に伝え済みだ、何も無ければ今日はこれで休める。

「ねえ愛子、流石にこの暗さだと、足元が怖い、クランケにも我慢強いて申し訳無いはね」

「換気がもう少し効けば良いのだけど」

「長く居るなら改善したい所ね」

「そう、さっきの話だけど、少将殿の事、気になるから、もう一度だけ見てくる」

「従兵が付いているから平気でしょ」

「うん、でも従兵の方も大分疲れていたみたいだし、何か気になるの」

「愛子の心配症は直らないな。仕方ないもう一度だけね」

 二人は少将が居る壕へ歩を進める、狭く足もとが覚束ない分、歩調は至って静かだった。

 二人が南少将の壕に近づいて、中に懐中電灯を向けると、その光に何かがギラリと反射した、軍刀の刀身が反射した物だったのだ。

南が軍刀を肩に当て、首を擡げそれに沿わせて自決しようとしていた。愛子の予感通りに傍らの従兵は疲れてすっかり頭を垂れていた為、南の行動に全く気づいていなかった。

二人は慌てて止めに入る。

「いけません、止めて下さい」

 愛子は咄嗟に軍刀を取り上げる、怪我と鎮痛剤の影響で力ない南の腕から離すのは簡単だった。

「頼む、どうかそれを渡してくれ。陛下からお預かりした大事な兵達と連隊を、この私が不肖の為に全滅させてしまった。如何して生きていられよう、死んで詫びるしか妙案は無い。だから頼む」

 南は二人に深く頭を下げる。

「お気持は察します、しかし少将殿は陸軍軍人の英雄です、兵隊さんの心の支えです、少将殿が死んだのを知ったら、どれだけ兵の士気に関わるか、御考え下さい」

 南は俯いたまま何も話さない。

「それにこの軍刀は、直接陛下から下賜頂いた物とお聞きしました。この様な事の為に陛下が下賜したと御思いですか」

 愛子の言葉に続き小百合も南に言葉を掛ける。

「雨宮少佐殿が自慢していました。連隊でこの軍刀を持っているのは自分と少将殿だけだと。少将殿にとっても御自慢の物ですよね」

 南は二人の言葉に少し発奮して目をかっと開き答える。

「自慢所か私の命だ。陛下の御心がその軍刀には込められている、無礼な扱いは厳禁だ」

「では御聞きします。これで自決するのはこの軍刀に無礼では有りませんか?軍刀に込められた御心が喜びますか?」

 南はこの問いかけに返答が出ないで只俯いてしまう。

「少将殿、申し訳ありませんが、この軍刀は此方でお預かりいたします。お元気に成るまでは心配です、然るべき場所に保管します」

「それは・・・そうか、そうだな、連隊をやられて自分も怪我をして少々心が参っていた。君達の言う通りだ、陛下に対して失礼な事はしたらいかん。解った、大切に保管してくれ」

 二人に宥められ、心に落ち着きを取り戻した南は、痛む足を気にしながら漸く眠りに付く。二人は軍刀を比較的湿気の少ない薬品庫の奥の棚に安置して、盗まれぬ様にこれを二人だけの秘密にする。


 二日後に市街地の戦闘は佳境を向かえようとしていた。日本軍守備隊が押され、ジリジリと内陸方面へと後退していた。米軍は嵩にかけた攻撃でどんどん戦線を前に進めていた。もはや日本軍にそれを止める手立ては無かった。日々の戦闘報告は途切れながらも分院の大島や雨宮にも入って来ていた。状況から考察して確実な事は分院も、もう直ぐ無事では居られなくなる事だ。翌朝に見張りの歩兵が慌てて診療所脇の仮指揮所へ駆け込んで来た。大島と雨宮が何事かと身を乗り出す。

歩兵「たっ!大変です。米軍が進行して来ます、第二列線を突破した模様です」

「何い!本当か」

「でっ、如何な状況だ、何処まで来ているのか?」

歩兵「チャランカナヤの市街地に入っています、他の守備隊は撤退した様子です」

 報告を聞き大島は大慌てになり・

「何とした事だ、飛行場が有る此処へ来る事は必至だな。愚図愚図してられんな」

「如何しましょうか、指令殿にお伺いしますか?」

「馬鹿を言うな雨宮!昨夜戦況報告にお伺いした時には高熱で魘されて、まともに話せなかったではないか」

「そうで有りました」

「今は私が判断する、指令殿があの様子では、用を成さないからな。最高指揮官が倒れた時は次官が指揮を執る、これは軍の決まりだ、何か不満が有るか?」

「いいえ、不満など。(面従腹背な様子)でっ、ご指示は?」

「直ぐにあの馬鹿軍医長共を集めろ。此処を撤収する」



 篠田以下主だった者が全員軍医長室に集められていた、大島は雨宮を従えて慇懃無礼な目で篠田を睨み付けていた。

「非常事態だ。これから言う事は全て厳守だ、米軍は直ぐ其処まで来ている、此方へ来る事は間違いない。早期に撤収に取り掛かれ」

 室内の皆がどよめく、不安顔だ。

「解りました。で、どれ位時間に余裕が有るのですか?」

篠田がやや横柄に聞くと。雨宮が咄嗟に答える。

「軍医長殿、猶予は有りません、米軍の進捗状況は予想が立ちません、早いに越した事は無いと思われます」

「失礼ですが大佐殿、患者は如何するのでありますか、置いて行くのでありますか」

愛子の不安げな問いかけに皆一様に頷く。

先送りにしていた問題だ。之まで協議して来た中で最大の懸案だった、誰も顔を見合わせて返答に屈していた。大島が苛立ち顔で話し出す。

「意識が有る者には潔く自決しろと俺が命令する。意識が無い者共はお前えらが処分しろ」

 横で雨宮が驚きの表情をする、部屋に居た者全員の目線は大島に注がれた。

「大佐、処分とはどうゆう意味ですかね?」

篠田が如何にも横柄に問い返すと。

「処分は処分だ。他に意味が有るか?」

「詰まり俺に殺せと仰いますか?」

「そうだ」

 ニヤリと不適な笑みをする大島、間髪入れずに雨宮が大島に具申する。

「大佐殿、それは軍規違反で有ります。その様な事をしたら軍法会議物です」

「黙れ!雨宮!貴様誰の部下だ。今は非常時だ!具申のつもりなら却下だ」

「少将殿の見解は如何なのです、お聞きに成ったのですか?」

「貴様!惚けるな、何度も同じ事を言わせるな、少将殿は昨晩から高熱で魘されているではないか、今と成っては俺が此処の最高責任官だ。いいか之は命令だ、先程厳守と申しつけただろうが、篠田さあ!早く返事しろ!」

 室内の空気が凍り付く

、大島と対峙して篠田が一歩も引かぬ体で立っていた。愛子や小百合、景山と小暮は只見守るだけしか出来なかった。

「あのさぁ大佐よ。出来ねえ相談だな、確かにシナ事変の時もノモンハンの時も、死んで逝くと解っている兵の苦しみを察して、楽にしてやった事は何度も有るさ、だがな、生きると解っている兵の命を絶った事など一度も無い。俺の仕事は命の火を絶やさねえ事だ、その火を自らの手で消すだと?俺の主義に反すらぁ」

 上官である大島に最低限の言葉使いだけ守っていた篠田が、何時ものベランメエ調に成った。本気で喧嘩をするつもりなのが解った

「生きて虜囚の辱めを受けず。貴様この言葉を知らんのか!」

「知ってるさ、だからって俺に殺せとはお門違いも良いとこだぜ、捕まって捕虜になるのが如何してそんなに駄目なんだ、え!大佐よ!」

「その言葉使い、篠田!貴様、俺を侮辱しおって。良いだろう(銃をホルダーから抜き出し篠田の腹辺りに押し付け詰め寄る)これでどうだ。言っただろう、次は無いと、命令違反をしたら軍法会議だと、これが俺の軍法会議だ!」

「大佐殿。止めて下さい、馬鹿な真似はしないで下さい」

「うるさい雨宮!知っているぞ。貴様は指令殿のお眼鏡に適って可愛がって貰っているのを良い事に、俺を馬鹿にしている事を。どうなんだ!」

 大島は既に自制が効かない様子だ、誰が何を言っても聞く耳を持っていなかった。

「大佐殿、そんな事は・・・・・・・」

「ふん、何も言えまい。さあ如何するのだ。殺るのか殺らないのか?どっちだ?」

「断る。例え死んでも構わねえさ」

「貴様!もう一度言う。命令だ!殺れ!容赦しないぞ」

 大島は篠田の腹付近に近づけていた銃を、

篠田の顎下から捲し上げて、さらに凄んで脅して来た、殺伐とした空気が支配する。いきり立った大島は引き金を引きそうだ。景山が大島の肩にすがり説得する。

「大佐殿、どうか納めて下さい。他に方法が有る筈です」

「黙れ!他に方法など無い!さあ早く殺れ!」

「出来無いと言ってるだろう。何度も同じ事言わせんなよ。さあ引けよ、いいから引けよ、えぇ?それとも口だけか?親の七光り大佐殿!まともに引き金は引けないか?えぇ?」

「何いぃ!貴様」

 篠田の言葉が大島の羞恥心に火を点けてしまった、次の瞬間大島は引き金を引く。ズドンと大きな音と共に篠田は後ろにもんどり打って倒れる。すぐさま皆が駆け寄るが、心臓付近を射抜かれた篠田は、既に呼吸が荒かった。小暮が泣きながら抱き上げ必至の形相で

篠田を呼ぶ。

「軍医長殿!あぁ軍医長が」

愛子は思わず顔を背ける、小百合は篠田に縋りつき

「死なないで下さい!」

「軍医長殿、何か言って下さい」

景山も篠田を抱きかかえ大声を出す、雨宮は大島の隣でじっと下を向き、唇を噛み締めて、怒りをグット堪えていた。

「景山、次は貴様に聞くが、殺るのか、殺らないのか、どうだ?」

 大島は更にいきり立ち景山に詰める、景山はすくっと立ち上がり、大島を睨み付けて、ハッキリした口調で返答する。

「断ります。例え死んでも構いません」

「ほう、面白い、貴様も篠田の様に成りたいか。ならば介錯してやろう」

 大島は景山の額方向に銃口を向ける。その時愛子が咄嗟に前に出でて、景山を庇い大島に向かって叫ぶ。

「軍医殿を殺さないで下さい。(涙交じりの声で)私が殺ります、それで良い筈です。銃を下げて下さい」

 愛子は必至だった、愛する人を守る為なら

自分が手を汚しても構わないと思った。

「ほう面白い、婦長が。ならば約束して貰おう、守らねば景山に死んで貰うぞ、良いな」

「解りました。守ります、だから絶対に軍医殿には手を出さないで下さい」

 愛子の必至の形相に押されたか、大島は納得した様だ。

「よかろう、猶予は無い。直ぐに取り掛かれ」

 大島は言い捨てるとさっさと部屋を出て行く。大島の足音が遠のくのを確認して、雨宮が近づいて来る。

「すまぬ景山」

「貴様の所為では無い。しかし如何してだ!あいつは何様だ!」

 そこで小暮が気づく、息絶え絶えの篠田が何かを話そうとしていた。

「あぁ軍医長殿が何か話したがっています」

 小暮の言に一同は篠田の周りに集まる。

 篠田は事切れそうな声で、何かを必至で伝えようとしていた。

「畜生目、あの小物が本当に撃つとはな、グレ、世話に成った。すまんが先に逝く、許せ」

「自分も直ぐに逝きます。軍医長殿だけ先になんて逝かせません」

「駄目だ、死に急ぐんじゃねえ。景、本意で無いのは解るが、あの馬鹿の言う事を聞け、死ぬのは俺一人で充分だ、非常時なんだ、誰も咎めたりしねえ。良いな」

「軍医長殿、私には出来ません」

「殺されるよりはましだろう、それにおめえが死んだら他の誰が治療をする。おめえは未だ若いんだ。此処で死ぬのは早すぎらぁ。

上官の命令だ、責任はあの馬鹿に有る、おめえは何も問われねえさ」

「そうだ、何か有ったら俺が証言する、貴様の死など考えたくも無い」

「雨さんもあぁ言ってら、おめえには罪はねえ、良いか」

 そう言うと篠田は事切れてしまう。

「軍医長殿!あぁ私の軍医長が、軍医長が

!どうして!私はあの大佐を許しません。絶対にゆるしません」

 小暮の絶叫が部屋に木霊する。篠田を抱きかかえその形相は悲しみと憎しみに満ちていた。


 意識無く寝ている患者の腕を取り。景山が黙々と機械仕掛けの人形の様に注射を打ち続けていた。その頬には涙が溢れ流れていた。愛子と小百合が変りを申し出ても、それを拒み、全て自分で執り行った。如何なる理由が有るにせよ、人の命に終止符を討つ任務を、景山は誰にもさせなかった。心の重荷を一人で引き受けるつもりなのだ。


 僅かな兵と衛生兵、そして看護班が必要最低限の装備で分院前に集合していた。担架に乗せられた南少将はグッタリして意識は朦朧のようだ。大島が大声を上げ急かしている

。点呼の合図も無い内に、大島はさっさと出発してしまう。慌てる時間さえ無く、まして持ち物の点検などする余裕すら無かった。

 退避場への道程はジャングルを突っ切って行くしかない、道路へ出れば空からの攻撃に晒される、自動車の類は一切使え無い。雑草の中を行く行軍は慣れている兵でも難儀な事だ。まして婦女子にはとても過酷な事だった。歩いている途中で愛子は景山が力無く肩を落としているのが気に罹った。あんな非情な任務をしたのだから無理も無い、放って置く訳には行かなかった。愛子は少しずつ間を詰めて景山の隣に付く、しかし何時もの景山なら愛子の気配に気づくはずが、今は全く反応が無い、愛子は黙っていられなかった。

「軍医殿、大丈夫ですか?大事有りませんか?」

 普段なら気さくな返答が有る筈なのに、景山からは何も返事が出て来ない、下を向いた横顔からは、思い詰めた雰囲気が漂っていた。

「軍医殿、如何したのです、私です。御返事して下さい」

 聞えよがしに大きめの声で呼ぶと、景山は漸く気がつく。

「あぁ、婦長何時から其処に?」

「先程から何度もお呼びしていました。大丈夫ですか?」

「すみません、気がつかなくて」

 景山の目には微かに涙が溜まっていた、それを気づかれないよう拭う。

「幾ら振り解こうとしても、患者達の顔が目から離れないのです。脳裏に焼きついてしまって」

「無理も無いです、軍医殿だけでは有りません、私も辛いです」

「自分で助けた命を自分で絶つなんて、私は医者失格ですね、続ける資格など有りません」

「そんな事言わないで下さい。仕方が無かったのです、あの状況では他に選択の余地は有りませんでした」

「解っています、しかしいっその事撃たれた方がどんなに楽だったか」

 繊細な心の景山には負担が過ぎてしまった

のだ。愛子は立ち直るのを祈るしかなかった

「そんな事言わないで下さい、私に立派な姿を見せると約束したではないですか。あれは嘘ですか?」

「あれは、あの時と、今では状況が違います。・・・私は私なんか・・・・」

 景山が何か言いたげだが、言葉が見つから無いようで、もどかしさが伝わってきた。今の景山には何を言っても妙薬には成りそうに無い。その時、遠くで愛子を呼ぶ声がするのに気づき、愛子は一旦景山の元を離れる。声の主は雨宮だった。心配事が有り気な顔で愛子を呼んでいた。

「少佐殿、お呼びですか?」

「あぁ、婦長。大佐殿が呼んでいます、ご立腹です、早く願います」

 先頭から離れて歩いていた愛子には、大島の様子など計り知れなかった。不安が心を過ぎった。(何かしら、ご立腹だなんて)今は行って確かめるしか無い。愛子は不安を押し殺して大島の元へ参じる。先頭に着くと既に小百合が待っていた、大島の傍には担架で横たわる南と、その従兵達が待機していた。従兵達は一様に顔を腫らしていた。明らかに殴られたのが解るほど、頬が赤く成り、有る者は口から血を流していた。

「婦長、聞きたい事が有る」

「はい、何でありますか?」

「指令殿の軍刀は如何したか?」

 愛子は、あっ!と思った、隠しておいたまま、大島に急かされて出発した為、軍刀の事はすっかり忘れていたからだ。

「そっちの副班長にも聞くが。従兵に聞いた所、お前ら二人が保管しているそうだが、何処に有る」

「申し訳ありません。早急の準備に追われて、忘れておりました」

「何!お前ら!忘れてしまったで済むと思うのか!指令殿が目を覚ましたら如何する?えっ!応えてみろ、指令殿は常日頃から自分の命より大切だと憚らない軍刀だ。それを忘れただと!」

二人「申し訳ありません」

「申し訳ありませんで済むか!直ぐ取りに行け、どちらか一人で構わん、たった今直ぐに行け!」

「大佐殿!しかしすでに出立してから随分経ちます、米軍が占拠しているかもしれません

。危険過ぎます」

 雨宮が助言すると、間髪入れずに雨宮の顔を殴りつける大島。雨宮は倒れはしないが、

一瞬揺らぐ。

「貴様は黙っていろ!元より承知の上だ」

「では自分が行きます、お願いします」

「駄目だ、保管場所は二人にしか解らん、貴様が行った所で用を成さない。どっちが行くのだ?さあ」

「私が行きます」

愛子が前に出でて応えた。だが小百合が打ち消す様に名乗り出す。

「いいえ。私が行きます」

「小百合。いいの、責任は私に有る。私が行く」

「責任なら二人に有る、愛子に何か有ったら班は如何するの?誰が面倒を見るの、責任ならそっちの方を第一に考えて。だから私が行く、それで良いの」

「でもそれじゃあ」

「そうさせて、決めたでしょ、嫌な役回りは私がすると」

 小百合はまるで暗黙の了解とばかりに、愛子に言い聞かせる。

「解った。でも約束して、無理はしないと」

「解っている、米兵相手に無理など出来無いでしょ。大佐殿私が行きます、それで良いですね」

「決まったのなら急いで行け!」

「大佐殿、せめて一人兵を付けさせて下さい。護衛の為と退避場所まで地図が読めぬと来られません」

 雨宮の気迫有る顔に大島も納得する。

「良いだろう、一人だけだぞ!」

 大島は言い捨てると背中を向け立ち去る。

「おい貴様地図は読めるな?」

 口から血を流している従兵が応える。

従兵「はい、地図とコンパスが有れば何処へでも行けます」

「よし、では説明する。良いか此処が退避場所だ、今はこの辺りだ。我々は此処へ行っている。分院から戻る際米軍が先を塞いでいたら遠回りだが一旦海へ出ろ、この辺りは断崖だから、米軍の上陸は無い、良いな」

従兵「はい」

「くれぐれも無理はするな。もし米軍が基地を占拠していたら大人しく引き返せ」

「それでは少将殿に申し訳が立ちません」

「いざと成ったら此れを(自分の軍刀を指し)進呈する。だからもう一度言うが無理はするな。必ず本多副長をお連れして戻れ、

良いな」

従兵「はい、不肖ながら島森一等兵必ずや本多副長と共に退避場所へ参じる事を遵守します」

「よし、では急げ」

 二人は最低限の装備を身に付け早速出発する事にする。

「小百合気を付けてね、しつこい様だけど約束だよ、必ず後から来るのだよ」

「うん約束する、後から必ず行く」

 二人は思わず抱き合っていた、これが最後に成るかもしれないと不安がそうさせたのだ

「御免ね、損な役回りばかりさせて、本当に御免」

「いいの、愛子の助けに成るなら少しも嫌じゃないよ。それに、本土に帰ったら又お汁粉ご馳走して貰えるしね」

 愛子を気遣い冗談を言う小百合。愛子は小百合のこの気遣いが心に響き感情を押さえ切れなくなり、涙を止める事が出来なかった

「馬鹿ね、何泣いているの。又合うのよ、少しの間だけ離れるだけなのに、大げさだな」

「そうだよね。でも我慢出来なくて」

「愛子のそうゆう所に私は弱いのだよ、私まで涙が出るじゃない」

 小百合の頬にも涙が流れていた。

「じゃあ行くね。急がないと」

「うん」

 小百合は立ち上がり、島森一等兵と歩きだす、途中何度も振り返り此方の視線を気にしながら遠ざかって行く。最後に大きく振り返り、愛子が大好きなあの何時もの挨拶をして、此方に微笑んで来た。普段と同じその仕草がその時だけは特別に感じられた、まるで動画のコマ送りの様に瞬間を切り取った絵が、鮮明に愛子の目に飛び込んで来た。小百合の顔、動作、その一つひとつが光って見えた。そして何時もと同様に、小百合が訴えかけて来ている気持ちが愛子には手に取る様に理解出来た。(待っていてね、必ず戻ってくるから)(うん、解っている、待っているからね)それが小百合の姿を見る最後に成るとは、この時の愛子には想像すら出来なかった。

 


飛行場を遠巻きに望む小高い丘で双眼鏡を目に当て島森が様子を伺っていた。

「飛行場の指揮所付近は既に占拠されています」

「では、無理ですか?」

「待って下さい。分院方面には未だ取り付いていません。此れは僥倖です、秘匿処置が功を奏した様子で気づかれて無い様です」

「行けるのですか?」

「行けそうです。細心の注意で行動すれば、相手に気づかれずに辿り付けるでしょう。行きましょう」

 島森は小百合を伴い動き出す。

 分院近くの木立の裏に辿り着き、島森が背中を大木に充てて振り返りながら辺りの安全確認をする。視線の先に米兵は見当たらない、分院までの道程は大丈夫そうだ。

「副長大丈夫です、こっちです」

 小百合は島森の後に追従する。分院入り口付近で島森が歩哨に立ち、小百合が中に入って行く。

「急いで下さい。何時まで安全か解りません」

「了解しました」

 小百合が中に入ると、既に死に絶えた患者達がベッドに横たわっていた。小百合は何も言わず只合掌をする。(御免なさい、さぞ無念でしたでしょう)お悔やみを終えると、薬品庫へ急ぎ隠して置いた軍刀を手にすると、早足で島森の元へ戻る。

「有りました」

 手にした軍刀を確認し。袋に詰めて元来た道を帰る二人。だが雨宮が予測した通り、最短距離のジャングル方面には、既に米軍が進出していた。

「此方は駄目です、既に米軍が先を押さえています。海の方角に出ましょう、こちらへ」

 島森は地図を確認して、飛行場の南方を目指す。草むらに身を隠して、先方を警戒しながら歩を進める二人。しかし前方の茂みを抜けた先には、米軍の海兵隊がもう兵を展開していた。

「拙いな、米軍が居ます、このまま進めば捕まります」

「崖の方向にも、もう米軍が居るのですか?」

「はい、奴らやたら早いな、守備隊は無いに等しいですよ。全く止める力も無い」

 そうこうしている内に、後ろからも米軍の足音が近づいて来た。茂みの中で完全に二人は囲まれてしまった。

「自分が囮になります。良いですか、駆け出して米兵を引き付けます、頃合を見計らって向こうの茂みに飛び込んで下さい」

「駄目です、そんな事をしたら、捕まるか殺されます」

「心配要りません、こう見えて連隊では韋駄天島森で通っているのです、撃たれる前に逃げ切ります」

「でも・・・」

「早くしないと二人共捕まります。良いですね、行きますよ」

 島森はそう言い切ると、茂みから飛び出て

屯している米軍にわざと見つかる様に、大声を上げながら走り出す。島森に引き付けられた米兵達は一斉に島森を追いかけ始めた。頃合いを見計らって、小百合は向こうに見える茂みに駆け込む。米軍に追われて島森は懸命に走っていたが、遂に追い詰められて逃げ場を失う。島森は観念して持っていた、小銃を片手に駆けながら大声を張り上げて、突っ込んで行った。次の瞬間島森は銃弾に遣られ血しぶきを上げて、敢え無く倒れる。米兵は淡々と死亡の確認をして、去って行く。 茂みに隠れていた小百合は、辺りの安全の確認をし、米軍が居ない事を確かめると、持っていた軍刀を背中に背負い、とりあえず崖の方角を目指す事にする。常に辺りに気を巡らせてゆっくりと進む、今と成っては頼る物は何も無い。只自分を信じて歩くより手は無かった。(島森さんは大丈夫かしら) 島森の安否が心配だし、このまま自分もたどり着けるのかも不安でしょうがなかった。(如何しよう?このまま進めば行けるのかしら?)小百合が考えごとをして、少しの間だけ警戒心が途切れた時だった。突然小百合の前に一人の米軍の海兵隊員が立っていた。瞬時に青ざめる小百合、と同時に一目散に崖の方角へ駆け出していた。

 海兵隊員の名はタッドと言った。新入隊の兵で二十歳だった。斥候として辺りを詮索していたのだ。タッドは急に現れた日本の民間人に驚いていた。こんな所に少女が居るのもそうだが、何よりその幼さに驚かされた。背が小さくて目がパッチリして童顔の小百合の事を、タッドは小学生か中学生位にしか思えなかったのだ。

タッド「大変だ、民間人だ!しかも少女だ、早く保護しなければ」

 タッドは小百合が逃げて行った方角へ急いだ。兎に角早く保護しないと危険だと思い。



 そうとは知らず小百合は必死で走っていた

。捕まれば強姦されて、殺される。そんな辱めは受けたく無い。捕まるぐらいなら潔く死のうと思いながら。(早く逃げないと、早くしないと)言葉に出来無い恐怖心が小百合の全身を支配していた。捕まった次の事を考えるだけで、小百合は身震いが止まらなかった。死ぬ事よりも、強姦されるほうが小百合にとっては恐怖だった。タッドが小百合に追いつくのは造作の無い事だった。常日頃より訓練されている海兵隊員だ、足には自信が有る。タッドは遂に崖の淵が直ぐ見える所で小百合に追いつく事が出来た。

タッド「自分は敬虔なクリスチャンだ、下手

な事はしない。君を保護したいのだ!」

 必死で話すも英語では小百合には何も通じ無かった。小百合は崖まで追い詰められていた。その視線の先の海には埋め尽くすばかりの、米海軍の船が停泊していた、小さな船が引っ切り無しで船と島とを往復していた。その光景を見て小百合は観念する。成すすべも無くなり、体が自分の意に反して,がたがた震え出して、それを全く自制する事が出来無いでいた。恐怖を通り越して、生き地獄を体験している様だった。タッドが一歩近づくだけで、小百合は過敏に反応した。

「来ないで!」

 小百合はパニックに成っていた、頭の中では次々と戦慄の情景が映し出されていた。強姦され、輪姦され最後にはゴミ屑の如く捨て

置かれる自分の姿が。タッドには小百合の状況が理解出来た。自分に恐怖しているのだと、怖がらせまいと必死で小百合を説得する。

タッド「自分は何もしない、だから此方へ、

さあ、これを見ろ(胸からクロスを取り出し

)クリスチャンだ、神に誓って何もしない」

 タッドの呼びかけも今の小百合には無意味だった。タッドが言えば言う程逆効果だった

。タッドの笑顔が小百合には鬼の形相に見え

た。小百合の目からは涙が溢れ、鼻からは鼻水が滴り、股間は失禁で薄っすらと染みていた。体の振るえは収まる所を知らず、その振動が傍目で見ていてもはっきりと解った。

 タッドが更に歩を詰めると、小百合は背負っていた軍刀を手に取り、刀身を抜き出して

その身を首に当てる。

「来ないでって、言っているでしょ!」

 タッドは思わず立ち止まる。言葉が通じ無いのがもどかしかった。

タッド「止めろ!駄目だ、そんな事をするな!駄目だ、死ぬな」

タッドは我慢出来ず。小百合に近づいてその手から軍刀を取り上げる。次の瞬間、諦めた小百合は金きり声をあげて崖へと身を投じる。

「いやー!」

タッド「ノ―!」

 タッドの声が空しく響く。タッドが崖淵から下を眺めると、荒波が崖を洗っていた。小百合の姿は既に確認出来なかった。タッドは

一言呟く。

タッド「何故だ!何故死なないといけない!

俺が何をした!」

 タッドを無念の気持が覆う。



 退避場所に到着した隊が荷解きをしていた。愛子が荷物を解いていると、その結んだ紐の一本がプッツリと切れる、不吉な予感が愛子を襲う。(まさか小百合に何かが?)確かめ様にも成すすべが無い。愛子は小百合の無事を祈るしかなかった。その日の夜に南少将の様態が落ち着いて来ていた。峠を越した様子で、熱も大分下がっていた。景山が診察をしてその事を大島や南本人に伝えていた。

「もう安心です。安定しています、多分傷口から何か菌が感染した様ですが、体の抵抗が勝っていました。もう大丈夫でしょう」

「そうか、済まなかった、色々面倒をかけた」

「気づかれて何よりです。指令殿に何か有っては一大事ですから」

「これで一安心です」

「所で他の負傷兵達は如何した?篠田軍医長も。見当たらないが?」

 間髪入れず大島が答える。

「撤退に当たり、決を取りました。我々と行動を共に出来る者以外、動けぬ者にです。出た答えは自決でした。大した心構えです、生きて虜囚の辱めを受けず。見事な物でした、篠田軍医長は最後まで面倒を見るとその場に残りました。恐らく奴も自決の覚悟でしょう、奴とは色々ありましたが最後は感服しました」

「本当か?本当にそうか?」

「はっ!本当で有ります」

「雨宮、本当か?」

雨宮に確認する、大島は雨宮と景山を一瞥した。大島に睨まれ二人は何も言えず只同意するばかりだった。

「本当で有ります。間違い有りません」

「はい」

 力無く答える二人の返事に、南は何かを伺い知るが、詳細を知らない身では何も追及出来なかった。

「そうか、それは残念な事をした。あの全員が自決か、さぞ無念で有ったろうに」

 南の態度が、何かを言いたげでいた。そこへ慌てた体で素子がやって来た。

素子「軍医殿、お願いです、坂井の具合が変です、婦長殿が直ぐに軍医をお呼びしてと申しております」

「坂井が解った直ぐに行く」

 退避場の一番奥の部屋で綾が端に寝かされていた、うんうんと唸らされている。何かに犯されているのは明らかだった。景山がやって来て早速診察を始めた。

「何時からおかしい?」

素子「避難している時からです。既に熱が有りました、でも気丈な性格ですから、大丈夫だと言い張って、強がっていましたが、此処へ付いて暫くすると、急に悪化してそれからこの状態です」

「そうか、まるで指令殿の身代わりに成った様だな」

 景山は一通りの手順で体を診て行く、暫し思案してから答えを出す。

「症状から察するに、これは破傷風と思われます」

「破傷風ですか?」

愛子が聞き入る、破傷風だとしたら厄介だ

「えぇ、多分。だとしたら。絶対安静です、刺激を与える事は厳禁です、容態が不安定期には特にです、光にさえ反応します」

「処置の方法は有りませんか?」

「今の医療では対処に限界が有ります。まして此処では何も出来ません、本人の気力以外に頼りが有りません」

「そんな、じゃあ何も出来ずに手を拱いて見ているだけですか?」

「そうです、それしか有りません。後は安定期に出来るだけ食べさせる事です」

「解りました、出きる限りの事をします、皆いい、順番で綾の事を診るのよ」

皆「はい」

 綾の今後を考えると心細かった、整った治療はおろか、栄養の有る食事も期待出来無いからだ、出来るだけ食べさせると言っても、

急かされて出立した為、糧食類は各人が最低限持てるだけしか無い、栄養価の高い食事などとても用意出来ないのだ。



 三日後の夕方はやけに暗かった、雲が低く垂れこみ太陽を遮っていた。スコールが通り過ぎた影響が残って、大地はぬかるんでいた。愛子は一人で入り口付近に立ち、不安が的中しない事を祈りながら、小百合の到着を待っていた。しかし三日も過ぎた今では無常にもその可能性の確率が殆ど無い事を物語っていた。愛子はやり切れない思いと、自責の念で心が折れそうでいた。表情からはその事が読み取れた。綾の様態も良くない、次から次へと圧し掛かる物が多過ぎる。愛子の心では支えきれなかった。(小百合どうしたの?何処へ行ったの?約束は忘れたの、私は如何すれば良いの)小百合が来る筈であろう方向をじっと見詰めて、心で呟いていた。

「今日も来ませんか、あの二人は」

 背後から景山が心配で聞いて来た。

「はい、今日も来ません。もうきっと・・」

「希望を捨てては駄目です、まだ三日です」

「でも、二人は食料も水も何も持っていません。如何して生きて行けるのですか?」

「それは・・・・・現地調達も有り得ます、

だから希望だけは捨てては駄目です」

 気遣いの言葉も今の愛子には励ましに成らない、不吉な予感がした事が愛子の脳裏に浮かんでいた。

「紐が切れたのです」

「紐?」

「あの日、此処へ付いた途端に、荷物を結わいていた、まだ新しい紐が、なんの前触れも無く急に切れたのです」

「偶然です、そんなの」

「捕まりそうに成って、自決したに違い有りません。きっとそうです」

「婦長、憶測で決めては駄目です」

「憶測では有りません、私達看護班は捕まるより自決を選びます。そう決めていました。だから、だから、小百合はもう既に・・・」

 そう言い切ると愛子は泣き崩れる。景山はそっと支えた。

「軍医殿のお気持が良く解りました。撤退の時にいっそ自分も撃たれた方が楽だと言っていた気持が。私も同じです、私が行けば良かった、そうすればこんなに苦しまずに済んだのに」

「もういい、もういいから」

 景山は力強く愛子を抱きしめる。

「解っています、だからもうそれ以上言わないで下さい。自分を責めないで。私も自分をこれ以上責めませんから。お願いです。それ以上自分を責めないで下さい。私が居ますから、一人にしませんから、どうか、どうか」

 愛子は景山の腕の中で泣きたいだけ泣いた

、遣り切れない気持を出し切るまで。涙が枯れるまで。



 スコールを伴った雲が漸く過ぎて、夜に成ると月が顔を出していた。月明かりを頼りに愛子は一人で水場にて体を拭っていた。景山に自分の気持を聞いて貰えて、気も少し落ち着いて来ていた、気分転換も兼ねて心だけで無く、身の方もすっきりさせたかった。胸元のボタンを外して首元から背中にかけてタオルを巡らす。此処何日まともに入浴をしていない体には、それで充分過ぎる清涼感が得られた。愛子がほっとしていると、背後に人の気配が有るのに気づく。

「誰ですか?」

 愛子が振り向くと、暗がりから不敵な笑みを浮かべた大島が、そろりと歩を進めて来ていた。

「こんな夜中に何をしているか?」

「体を拭いておりました、ここ何日も入浴

していません。駄目だと言うなら直ぐに止めます」

「いや、良いさ、敵に察知されなければ」

「有難うございます」

 暫しの間大島は舐め廻すように、愛子の体を眺めていた。

「ところで、一つ聞くが、婦長と景山は何時から出来ている?」

「はい?何の事ですか?」

 愛子の返事に嫌らしい笑みを浮かべる。

「惚けるのはよせ、貴様ら二人が恋仲なのは先刻承知だ。何時からだ」

「そのような事は有りません」

「婦長、わしが何も知らんとでも思っているのか。夕刻時の二人の行動は何だ!見ていたのだ、あれでも惚けるつもりか」

 拙い人に二人の事を見られてしまっていた。愛子は何も言い返せない。

「この不届き者、この緊急時に色恋沙汰か、好い気な者だ。さて如何してくれ様か、婦長どうされたい?」

「どうって?軍規では恋愛は禁止でも?」

「隊の風紀や規律を乱す行為は禁止されている。この場合は正しくそれに当たるな。ふん!あの軍医の処罰もわしの胸先で決まるがどうする」

「処罰ですか!そんな、私達は何もしていません、処罰を受ける事など何も」

「言い訳は無用だ。それに婦長には指令の軍刀の紛失の責任も取って貰わんといかん。どうする、如何されたい、お前の好いた奴が苦しむのを見たいか?どうだ?事と場合に拠っては許してもいいが、どうする?」

「如何すればお許しを頂けるのですか?」

「よーし、教えてやろう、こうするのだ」

 大島は前触れも無く、愛子の胸元に手を突っ込み、その胸を弄り出す、愛子は苦痛の表情をして抵抗する。

「止めて下さい、こんな事」

「軍医がどう成っても良いのか!あぁどうなのだ、言う事を聞け!軍医だけに良い思いをさせおって、わしの事は受け付けないのか」

「嫌です、お願いです、止めて下さい」

 愛子の抵抗も空しく、大島は力ずくで愛子を押し倒し、愛子の上に覆い被さる。愛子は

成すがままにされてしまう。

「そうだ、言う事を聞けば良いのだ、俺は悪い様にしない、今後の事を考えればあの若造軍医などより、わしの女で居た方が得策だ」

 心得たとばかりに大島は、愛子のモンペに手をかけてそれを剥ぎ取る。愛子の目からは涙が流れて来た。愛子が観念し大島の息が益々荒々しくなった時、太いロープが大島の背後からその首を捕らえて、勢い良く締め上げられる。急な事で大島は抵抗出来ぬまま、そのままロープ諸共引きずり出される

「ぐぉ!」

 大島は言葉に成らない言を発して、ロープに手をかけて、それを解こうとするが、巻かれたロープに指先さえ入り込めない。凄い力で締め上げられていた。そのロープを締め上げていた主は小暮先任だった。

「先任!」

 愛子が小暮に気づくと、小暮は阿修羅の顔で大島を締め上げていた。

「ぐっぐ」

 小暮も言葉に成らない言を発していた。

「いけません、先任!死んでしまいます」

 愛子の制止も小暮には聞こえていなかった

。遂に大島は事切れて、グッタリする。小暮がその手を離すと大島がドッサと音を立てて

地面に落ちる。

「この時を待っていました、こいつが隙を作る時を」

「先任!」

「婦長には怖い思いをされたと思います、申し訳御座いませんでした。が、婦長のおかげでこいつは隙をつくりました。もう思い残す事は有りません。軍医長の仇を取れました。

私も軍医長の所へ行きます」

 小暮はさっと大島の腰の短銃を取り出して、自分のコメカミに当てる。

「駄目です先任!」

「さようなら」

 バン!一発の銃声が木霊する。小暮は横に倒れこんだ、そのこめかみからは勢い良く血が噴出する。愛子は手で顔を覆う、見ていられなかったのだ。銃声に気がついた雨宮と景山が慌てて駆け寄って来た。

「どうしたのか?」

「大丈夫ですか?」

 状況を把握しかねる二人には、何が何だか解らなかった。


 退避場の中で南少将を中心に雨宮と景山、愛子が車座に座っていた。神妙な様子が伺えた。

「すまない事をした。篠田軍医長と本田副長の事と併せこの私が大島に変わって頭を下げる。どうか許してくれ」

「指令殿は関係ありません。どうか頭を上げて下さい」

「いいや、不肖な部下の責任は上官の私に有る。この私に免じて許してくれ」

 愛子に深く頭を下げる。

「もっと早く気づいておれば良かったのだ、そうすれば誰も無駄死にせずに済んだものを。私の管理不足だ」

「指令殿!指令殿は寝込んでおりました。仕方ありません」

「そうで有ります、気にしないで下さい」

雨宮と景山が南を励ますが南は冷静に答え。

「唯一の救いは、大島が死んでもその死を悲しむ人間が、此処には一人も居無いと言う事だけだな」

 南の一言に遣り切れない空しさが集約されていた。誰もが同じ思いなのだろう。

 それから二日間は大事無く時間が過ぎていった。大きな変化は無いが、確実に食料の蓄えが乏しく成っていた。避難して来て以来、配給量を通常の半分以下にして、回数も日に二回にして来たが、それでも全員が食べる量としては、後五日はもたないだろう。また一つ不安要素が増えた。



 この日は朝からやけに上空の方が騒がしかった、米軍の戦闘機が退避場付近を旋回していたからだ。見張り番の兵がその事を雨宮に

報告していた。

兵「上空の戦闘機が気に成ります、少佐殿の判断を願います」

「よし!私も行って見てみよう」

 雨宮と兵、景山が外の大木によじ登り、上空の戦闘機の行動を凝視する。

兵「どう思われますか?」

「うーん。何かを探している風に見えるが、此処を見つけて確かめているかもしれん、どう思う景山」

「確かめて?だとしたら如何なるのだ」

「そうだとしたら厄介だぞ。敵さんは空と陸との連絡が密に取られている、あの戦闘機から地上の部隊に連絡されたら終わりだ。あの機を認めてどれ位だ?」

兵「はい、小一時間程で有ります」

「臭いな、そんなに長く留まるとは、此処の正確な位置を連絡するには充分な時間だ。おい、このまま見張りを続けていろ、空では無く地上を良く見ていろ、不振な動きが認められたら直ぐに報告しろ。いいな」

兵「はっ!了解しました」

「指令殿に報告だ、判断を仰ごう」

「そうだな」



 退避所内で雨宮達が南に助言を請っていた。

「指令殿、どう思われますか・」

「そうだな、・・・・・・上空の機は撃って来ない所を見ると、偵察の様だ。索敵班が来る公算が大だな」

「やはり、そう思いますか」

「だとしたら一刻の猶予も有りません」

「ああそうだな。折角の隠れ蓑もこれでお終いだな。直ちに撤収の準備にかからねばならん」

 隊は再び撤収を始める。すでに此処も安全を保障された地では無いのだ。準備をしている中、愛子には一つ不安事が有った、容態が良く無い綾の事だ、絶対安静の綾を果たして連れて行けるのかが、愛子の最大の心配事だった。景山も愛子の不安を察して早速綾の検診をしていた。

「如何ですか?連れて行けますか?」

 愛子を中心に看護班の全員が揃って、景山の診断の答えを待っていた。

「正直言います。連れて行くのは難しいです」

「やはり、そうですか」

 愛子の表情が途端に曇る。

素子「そんな!それじゃあ此処へ置き去りですか」

幸絵「そんな事出来ません」

永久子「仲間なのです、学校入学以来苦楽を共にして来た掛け替えのない仲間なのです」

志保「お願いです、軍医殿!何とかして下さい」

美佐子「お願いします」

「皆、無理を言わないで欲しい、出来る限りの事はしたが・・・・・でも諦めるしか無い、無理をして連れて行っても、容態を悪くするだけだ、連れて行っても途中で死なせる事になる」

 涙を堪えている愛子の顔が、皆の涙腺を余計に刺激して、全員が泣き出してしまう。愛子も景山も誰もが気持は同じだった。

素子「班長殿お願いがあります」

「何?」

素子「綾を一人になんて出来ません。私一人を此処へ残して下さい。お願いします」

 素子は涙ながらに訴える。

「そんな事、・・・・・」

素子「お願いです。綾は大切な競争相手なのです、綾が居たから私は此処まで頑張れました。私の人生に綾は必要不可欠なのです。それに後少しで容態が良く成るかも知れません

、そう成ったら私が負ぶってでも追いかけます。だからお願いします」

 愛子には素子の気持が痛い程理解出来た、

小百合を失った自分の心だ。綾を失う事は自分と同じ思いをするだろう。愛子は条件付きで承諾する。

「解った。でも条件付きです。このままの容態が続くようだったら、二日したら諦める事、その時は隊を追いかける事。良い?」

素子「はい、解りました」

 

隊が出発しようとしていた時、愛子が素子に最後の注意事項を伝えていた。

「良い、必ず後を追うのよ、解った?」

素子「はい」

 素子は班員全員と抱き合って別れの挨拶をかわしていた。誰の目にも涙があふれていた

。傍らから雨宮が出でて愛子を手招きで呼び寄せる。

「少佐殿お呼びですか」

「あの・・・此れを渡そうと思いまして」

 雨宮の手には一発の手榴弾が握られていた

、愛子は反射的に身構える。

「もしもの時の自決用です」

 愛子はそれをじっと見つめて、暫らく考えてから。

「私が渡します、あの子達に対しての責任は全て私が全うします」

 愛子は手榴弾を受け取ると、素子の元へ戻る。

「いい、これは最後の最後に使うのよ、米兵が目の前に現れたその時に。それまでは何が有っても使っては駄目」

素子「はい」

 愛子は素子を抱き寄せて、その手で素子の顔を撫で回す、まるで母親が生まれたての我が子を慈しむように。

「生きるのよ。そして必ず戻るのよ、この顔を必ず見せるの、良い約束よ」

 素子を引き寄せ耳元でささやく。

素子「はい」

 素子を残して隊は出発して行く。残された素子は綾の所に行き、静かに寝ている綾の顔を見る。

素子「ずっと一緒だよ、一人になんかしないからね」

 

上空の戦闘機からの連絡で、タッドの小隊が索敵に来ていた。

タッド「連絡ではこの辺りだが、どう思う」

 タッドが同僚のキース一等兵に聞く。

キース「地図ではこの辺りだが、うーん、ん!あれは何だ?」

 キースの目線の先には、太い銅管が有った

キース「おお、なんと言う幸運だ、これは間違いなく神の手引きだ、これを辿ればその建物とやらに行けるかもしれんぞ」

タッド「ああ、俺もその案に乗るぜ」

 二人はその銅管の先を目指して歩を進める


 素子が静かに綾の額を撫でていた、綾の容態が少しでも落ち着くのを願いながら。その気持が効を奏したのか、綾が急に目を覚ます。

「綾!」

「此処は?私はどうしたの?」

 素子は綾に事を順序だてて伝える、綾は我慢出来ずに素子に声を張り上げる。

「馬鹿、どうして私を置いて行かないの、

死ぬのは私一人で良いのに!素子まで巻き添にするつもりなど無いのに。どうして置いて行かないの!」

「綾が居なかったら誰と喧嘩するの?誰と競争するの?綾が居たから今の私が有るの、二人で一人なのよ」

「馬鹿、馬鹿、大馬鹿、どうしてそんなに馬鹿なの」

「そうだよ、馬鹿だよ、馬鹿だから綾の事を好きなんじゃない」

「知っているよ、馬鹿なの」

綾は泣き出して素子に抱きつく。

「馬鹿で良かった、綾を一人に出来無いもの」

銅管に沿って進んで来ていたタッド達は、

その全方の木立の中に建物が有るのを確認していた。

タッド「おい、あれだろ、偵察機から連絡があった物は」

キース「そうだな、多分間違いないな」

タッド「なんだ、大げさに言いやがって、単なるバラックじゃないか、しかも大分古いぞ

。あんな造りの建物が重要施設とは思えないがな、無駄足だったかな」

キース「しかし念の為だ、一応中を確かめようぜ、まあ意味は無いと思うがな」

タッド「そうだな、帰ってから報告もしないとならないから」

 二人は辺りに警戒しつつ退避場に近づく。

 中の様子を外から伺うタッド、隙間から覗くが誰か居る気配は無い。

タッド「正面の部屋は無人の様だ。先に区切られた部屋が有る、中に入って見てみよう」

 ドアをゆっくりと押し開ける、ギーと軋む音が木霊する。素子はこの音に反応する、誰かが来た事を悟る。

「綾、じっとしていて、見てくる」

「うん」

 素子はそっと壁から入り口の方向を覗く、

視線の先には、タッドとキースが確認出来た

、びっくりして身を隠す素子。既に覚悟を決めた表情だった。

タッド「誰かが居た痕跡が有るな、それもつい最近だな、見ろ!火を使った跡だ。さては逃走済みって訳か」

キース「あながち偵察機の連絡も間違いで無いって事だ。一足遅かった様だがな」

タッド「奥まで見とくか、おれが先に行くから後ろを見ていてくれ」

キース「了解」

 タッドは慎重に歩を進める、区切られた部屋を確認する度に用心深く顔を出して。

 素子達が居る奥の部屋に顔を出した時、タッドはギョットする。横たわる少女の横にもう一人正座した少女が此方を向いて凝視していたからだ。

タッド「(また民間人の少女だ、助けないと)おいキース来てくれ、民間人の少女だ」

キース「何だって?」

 キースが傍に来る。

キース「おいおい、少女じゃないか、直ぐ保護しよう」

タッド「俺に任せてくれ、下手に近づくと自殺するのだ、何を聞かされているか知らんが、俺達の事を酷く怖がっている」

キース「そうか、じゃあ頼む」

タッド「大丈夫だ、何もしない、君達を保護したいのだ、近づくぞ、安心しろ」

 タッドが足を少し出すと、素子は持っていた手榴弾をしっかりと胸元に構える。 タッドは立ち止まる。

タッド「おっと、英語では何も通じ無いか、

何もしない、しないのだ」

 タッドはライフルを床に置き、両手を挙げて落ち着かせようと試みるが、英語が理解出来無い素子には、タッドの真意は全く伝わらない。

キース「おいタッド何をしている、あの手榴弾を何とかしろ」

タッド「分かってる、だが下手に近寄るとピンを抜きそうなんだ」

 タッドはもう一度素子を見て、再度近づこうと試みる。

タッド「そんな物捨てるのだ、危険だぞ、ボンだ、ボン!」

 タッドが更に足を動かした次の瞬間だった

、素子は綾に視線を送り、綾に確認する。綾は小さく頷いた。綾に意思を確認すると素子はピンに指をかけ、ゆっくりと抜く、それを見ていたタッドは反射的に身を隠す。

タッド「クソッ」

 素子は手榴弾を胸に抱いたまま、綾の上に

覆い被さる、綾も下から素子を抱き抱える。

二人は黙って目を閉じる。

 {ドン!}

 大音響と共に、身を伏せたタッドの目の前に素子の物と思われる肉片がドッサと落ちる

タッド「何故だ!何故あんな少女が死ななきゃならないのだ!俺達が何をしたのだ!いったい如何なっているのだ!」

 タッドの心に言い切れない、怒りに近い不満が宿る。



 愛子達の隊は密林の中を島の北を目指して

進んでいた。追い詰められたら北を目指す事が暗黙の了解だった。何か宛てが有るわけでは無い、それしか選択肢が無かったのだ。

 密林を進む歩の速度は遅い、悪路の上に怪我人も居る、隊は常に敵に追われている事を

気にして進んでいた。暫く密林を進むと突然全方に開けたエリアが見えて来た、そこは大きな砂糖キビ畑が、刈り取られた状態でそのまま放置されていたのだ。雨宮が空を見上げて溜息をつく。

「はー、上から丸見えだ」

「どうする?迂回するか」

 景山にも上から丸見えなのがまずい状況なのは理解出来た。

「迂回するにしても、海側に行けばこの距離の軽く十倍は歩くな、追いつかれるかも知れない、山側に行けばかなり険しいだろう、突っ切れば直線で約ニ~三百メートルだ、よし、オイ!兵の中で耳に自信の有る者は居るか」

兵「はい!自分は招集前までピアノの調律師

をしていました」

 中年の兵が手を挙げ答える。

「本当か!それは良い。よし此処を抜けるまで、良く耳を凝らしていろ、上空から戦闘機にやられたらイチコロだ、少しでも異音がしたら直ぐに大声で知らせろ、特に米軍の戦闘機はキーンという金属音がする、良いな!」

兵「はい、了解しました」

 雨宮は上空に気を配らせて、畑を突っ切る

様に誘導する、隊は雨宮を先頭に次々と進んで行く。順調に進んでいた、後百メートル程の距離まで来た所で、例の兵が耳に手

を充て上空に向ける、その耳に微かにキーンと金属音が聞き取れた。

兵「敵襲です!金属音です!戦闘機です!」

「何!走れ!皆走れ!後少しだ、向こう側へ走れ!」

 隊は一斉に走り出す、一目散に茂みを目指して。次々と茂みに駆け込んで来るのを、雨宮が手まねで受け入れていた。最後尾近くを

付いていた愛子達救護班も、後少しで辿り付けそうだった。

「急いで!」

 そうこうしている内に戦闘機の機影が迫って来ていた。その時後方を走っていた志保に異変が起こる、切り倒した砂糖キビの幹が志保のモンペに突き刺さり、足を取られて転んでしまう、抜こうとするが慌てると益々モンペに絡んで抜けないでいた。志保は思わず叫ぶ。

志保「おねーチャン!」

 志保の異変に気づいた幸絵と永久子は、茂みに辿りつく直前で、取って返して志保の所に向かう、愛子も向かおうとするがそれは景山が制する。

「放して下さい!私も行きます」

「駄目です、二人行けば充分です」

 志保に駆け寄る二人は急いで絡んだ砂糖キビを抜こうとする、しかし逆毛で刺さったキビの幹は中々抜け無い、もう時間は無かった

、戦闘機が迫っている。後は身を低くしてやり過ごすしか無かった。雨宮が叫ぶ

「伏せろ、伏せるのだ!」

 永久子と幸絵は二人で志保に被さり身を伏せる。戦闘機は銃撃しながら迫って来た、銃弾が地面を叩く土煙の線が、志保達の方へ近づいて来る。後は運を天に任せるしか無い。

{ダダダダダダア} 銃弾の線が志保達の上を通過する。戦闘機は一銃撃して去って行った、辺りは急に静かに成り静寂している、と、突然志保の狂ったような叫び声がする。慌てて愛子と景山、雨宮が駆け寄ると、背中を大きく打ち抜かれた永久子と幸絵が横たわり、その横で志保が泣き崩れていた。

「イヤー!イヤー!イヤー」

「志保!確りしなさい!志保!」

「酷い!酷すぎる!こんな無残な死に方が有るか!」

 景山が二人の弾痕から流れる血を手で押さえ無念そうに叫んでいた。

「何も無抵抗の女子を!クソ、米軍の奴らめ、俺は許さん!」

 雨宮は遠ざかる戦闘機に向かって叫んでいた。

「志保!コッチを見なさい!志保!」

 愛子が何を言っても志保は半狂乱だった、

幾ら言葉をかけても全く聞き入れる余裕など

無い、愛子は思いっきり志保の頬にビンタを

入れる{バッシ!}痛みで我に返る志保を愛子は強く抱きしめる。

「志保!死んだの!二人は死んだのよ」

「わっわ、私の所為です、私が呼んだから、お姉ちゃんと永久子姉ちゃんは、代わりに、私の身代わりに・・・」

「違う!そうじゃない!志保は悪く無い、志保は何も悪く無い」

 愛子はひたすら志保を慰めるが、志保の受けた衝撃は簡単には癒されなかった。



 今日一日で看護班は一気に四人の仲間を失ってしまった、愛子は責任を感じていた、残された美佐子と志保だけは何とかしたい。しかし今の状況ではこの先如何なるか全く解らない、それに、昼間の件がショックで、志保は抜け殻の様に成ってしまった。何を話しかけても無反応で只呆然と上を見詰めているだけだった。学校で桜井から聞かされ、危惧していた事が現実になってしまったのだ。愛子と美佐子が順番で面倒を見ていた。

「美佐子、何か聞かせて上げて、どんな事でも良いから、志保の心に話かけて」

「はい、解りました」

 美佐子は子供の頃に母親に聞かされた昔話

を始める。心配した景山がやって来た。

「如何ですか?志保ちゃんの具合は」

「あの調子です、何を話しかけても無反応です」

「無理も無い、まだ幼いし、二人を目の前で失ったのですから。医者でありながら、精神医学は専門外の為何も出来無いのが悔しいです」

「それは私も同じ思いです、本当に悔しいです。・・・軍医殿あの?」

「何ですか」

「これから如何なるのでしょう?私達はいったい?」

「さあ、先の予想など出来ません、私もお手上げです」

「そうですね、誰にも予想など出来ませんね」

「兎に角今は明日の事を考えて、疲れを取るため早く寝る事です、栄養状態も良く有りません、体力の温存が大切です」

「解ります、そうします」

 その夜、愛子と美佐子は志保を中心にして

眠に付く、志保が確りと眠るのを確認してから、愛子も漸くして目を閉じる。


 この日の夜は星が綺麗に輝いていた。深夜に成って志保は一人で目を覚ます、じっと満点の星空を眺めていた、やがて立ち上がりふらふらと一人でさ迷い始める。星を見詰めながら呟く。

「お姉ちゃん、永久子姉ちゃん、私も其処に

行っても良い?」 



 翌朝、愛子が目を覚ますと、其処には志保

の姿が消えていた。異変に気づき慌てて美佐子を起こす。

「美佐子!起きて!志保が居ない」

「え!本当に、気が付きませんでした、すいません」

「いいから、私はここら辺りを探すから、軍医殿達を呼んで来て」

「解りました」

 愛子は思い当たる辺りを志保の姿を求めて

捜索する。

「志保!志保、何処に居るの!」

 愛子の声が空しく響く、何の反応も無い。

ジャングルの奥に何か白い影が見えた、恐る恐る歩を進めると、愛子の視線に信じ難い光景が飛び込んで来る、大きな木の枝に志保の体がぶら下がっていたのだ。愛子はその場でへたり込んでしまう。

「志保!あぁ志保」

 後ろから美佐子が景山達を伴いやって来る

が、彼らも志保を認めると、立ちすくんでしまう。

「なんて事だ!」

 景山は頭を抱えてしまう。

「班長!志保が」

美佐子もその場に座りこんでしまう。

「可愛そうに、おい!降ろすのだ」

 雨宮は部下に降ろすように指示する

「婦長、大丈夫ですか、気を確り持って」

 景山が愛子に気遣い肩に手をかけると、愛子は突然狂ったように叫びだす。

「もういい、もうこんな事沢山です。どうして、どうして志保が死なないといけないの?この子が何をしたの?どうして皆死んで行くの?戦争って何なの?何の為に戦うの?お国の為?国民の為?天皇の為?そんなのもういい!沢山です!もう止めて下さい!これ以上私を苦しめないで!大義名分が何なの!犠牲に成るのは下の者ばかり!上の人達は何もしてないじゃない!」

 愛子の不満が一機に爆発する、誰も制する

事は出来なかった。

「国民の安全を願うのなら、何故大臣は戦わないの?何故天皇自ら銃を持って出てこないの?こんな不公平が有りますか?」

 愛子の懇願に近い叫びだった、我慢出来ずに景山が愛子に抱きついて、慰める。

「解ります、婦長のお気持は痛い程、本当にその通りです、」

「私は誰も傷つけたくない、誰で有ろうと、何処の国民であろうと、干渉しないでお互い平和に暮らせ無いのですか?どうしてこんなに幼い子が死なないとイケないの!」

「解ります、解りますとも」

 周りで見ている者達にも、愛子の言葉は心に響いていた。共感して頷くばかりだった。


 志保の亡骸が横たわっていたが、時間が無く埋葬すら出来無い。横で愛子と美佐子が志保の顔を撫でて、最後の別れを惜しんでいた。

「志保、御免ね、こんな所に置き去りにして、どうか許して」

「志保、安らかに眠ってね、天国から見守ってね」

名残惜しくしている二人を雨宮がせかす

「別れが惜しいでしょうが、もう行かないといけません」

「はい、美佐子もういいね」

「はい」


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