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〜エスダールの種〜

「やぁ君たち。ひどく怯え、不安を渦巻かせているね」

 つい一時間ほど前に地下室に閉じ込められた男と子供は、その声の主を奇怪なものでも見る目で固まった。それもそのはず、鶏が鳴いてまもない朝の村を襲った盗賊に監禁されておよそ数時間、そして男の妻が盗賊に連れて行かれて小一時間経っても妻は帰ってこない。地下室の扉を見つめて固唾を飲んで向こう側の音に耳を澄ませているところに、いるはずのない誰かの声があたかも最初からいたかのような口ぶりで言うのだからたまげるのも無理はなく、男の息子に至っては友達には絶対に言えないが、少々ちびり隠すように地面に座り込んだ。

 しかし、そんな二人の心境と思考を透かし見た珍客――数多の名前で呼ばれるがこれといって気に入ったものがないエスダールは、自慢でもないが世界のどんな上等な絹よりも美しい銀髪をゆっくりと掻き上げ、中性的で人ならざる清美な顔立ちにうっすらと笑みを刷き、前合わせの衿をもつ銀糸で織られた風雅な衣が汚れるのも気にせずに樽の上に座り、片膝を立てて目の前の親子の疑問を無視して続けた。

「恐れを抱いているね。石の壁に囲まれ、天井もあれば食料もある」エスダールは食糧庫である地下室をアメジスト色の眼で見回して指で樽を叩いた。「人の料理の時間はだいたい一時間か二時間、大人数で大食漢だと三時間でも足らないが、上の階にいる盗賊は五人。奥さんも料理を作ったらすぐに帰ってくるかもしれない」

 アメジスト色の大きな目に無垢な光をたたえた美しい青年は、ちびってそれを隠すために正座でいる少年に片目をつぶった。

「だけど、それは可能性の一つであって、君たちを監禁した盗賊はいまだに居座りなにかを待っていて、待つ間の時間潰しが必要だ。だから君の奥さんはその時間を埋めるお楽しみに使われるかもしれなくて、帰ってくる可能性はあるにしても、無事に帰ってくる可能性は腹を空かせた狼に囲まれたときよりも低い」

 長い白髪の美男子が悪戯っぽくそう言うと、男は禿げた頭頂部まで赤くして拳を握りながら立ち上がった。男の声を代弁するかのように、美男子は立てた膝に前屈みになって挑戦的な表情で男の目を見据えてなおも続けた。

「そんなことはさせたくないし考えたくもない、なにもできないことを自分が一番わかっているのにその事実を他人に突きつけつけられるいわれはない——その怒りを抱くのも無理はない。それは仕方がないことだ。こんなところでいきなり助けがやってくるはずもなく、そんな奇跡が起きるはずもない」

 男の顔はいまもなお赤いが、まるで自分の舌をすっぽ抜かれたような動揺に目を揺らした。美男子エスダールは興が削がれたように天井を見上げて、後ろの柱に背をあずけながら構わず続けた。

「奇跡なんてものは存在しない。だから、いまここに僕が現れたのは必然だし、そうなることが決まっていた。厳密には、そうなる可能性の一つとしてそれが具現化したと言っていい」気になる香りに鼻を動かして樽から降りると、出どころである麻袋に近づいて、潰れていない果実を物色しながら、「可能性の一つとしてだけど、僕が助けてあげようか」と、青リンゴをかじりながら、にこっと笑って見せた。

 男はしばらくのあいだ、目の前の貴婦人よりも美しい中性的な外見をした青年を見つめ、やがて何かに気がついたか、飛んできた矢でも避けるように膝を突いて首を垂れて乞い願うように顔の前で手を組んだ。

 それを見た正座の少年は困惑したが、もぞもぞと膝を突き父親に倣った。哀れな格好をしている自覚に困惑した少年の表情を見てエスダールは、「アスロスは相変わらず、愛嬌があり、無知だ」と嘲か判断つかない微笑みを向けた。

「生糸よりも白い髪に新雪のような肌。そしてアメジストの魅惑の眼……まるで博愛と智慧の神エスダール様だ。奇跡はないとおっしゃいましたが、こんな状況に突然なにもないところから現れ、お助けくださるとおっしゃる。これが奇跡以外になんでありましょう」男は子供を見下ろした。「もはやここまでかと、この子に未来を見せることができないと考えたときに私を襲った暗闇がどれほどの恐怖か……。かつて人を我が子のように案じ、黒き影からお守りくださった神々ならば、この気持ちをお分かりいただけるはずです。どうか、お助けください。そのためならば、私は命を喜んで捧げます!」

 子供が驚きを湛えて父親を見返した。男はアメジストの青年に向き直り、硬く目を閉じた。

「お助けを」

 絞り出すような男の懇願の声に、アメジストは薄く微笑んだ。

「僕は神でもないし、子供もいない。だから、君の感情を僕が感じられるとは思わない。それにここはバルダス帝国領。ドノハデウス――神なき地だ。神がなにかを知るために探求することは赦されるが、信奉することは赦さない、そこがバルダス帝国のいいところだ。神を認めないが、その存在を証明する知識を得ることは赦す。知識は人を魅了するが、それは嗜好性によるものではなく一種の生存的本能からくるもので、すなわち、恐怖を埋めるためのものだ。無知は恐怖――未知なる暗闇を照らすための灯りとすべく、知識を求めるんだ」

 エスダールは前合わせのゆったりとした銀糸の衣の衿を整えると、男と子供の目をアメジスト色の眼で見据えた。

「だから、間違っても僕を神なんて崇めるな。神頼みに逃げる——無知でいることに逃げないでくれ。そして、同じように恐怖を埋めるだけに知識を貪らないでくれ。知識は智慧とするべくあり、智慧は豊かにするべくある。君たちとその周りの人を豊かにするように生きてくれ。それを約束してくれるかい?」

 男は頷き首を垂れ、子供は世界の驚愕の真実でも知ったかのようにさながら犬が首を傾げたときの顔で、しかし決意溢れる眼差しで頷いた。

 そして、エスダールはそよ風を掴むかのように姿を消した。男とその息子は、それ以来、食料庫で出会った神のような男を見ることはなかった。しかし、上の階で夫と息子に二度と会えないかもしれない恐怖と、その場を乗り切ろうと震える手で調理を終えた妻は見ていた。忽然と、そこにもともといたかのように現れた見目麗しい美男子が、盗賊に挨拶し、妻に挨拶し、盗賊に向き直り尋ねた。というより、言った。

「君たちの魂を見た。そこから見るに、まだ、可能性はある。生まれながらに獣でも悪魔でもなかった君たちに、知識を与え、それで豊かになってもらうことを僕は望む。だから、そこの女と家族を解放し、ここで待っている商人と縁を切り、君たちが生きている世界と縁を切り、僕と探求の旅をしよう」

 盗賊の顔に困惑、次に怪訝と怒りが現れた。汚い言葉で――まとめるに、なぜ商人と自分たちのことを知っているのか、そして目の前の美男子を誰何し、最後にこう言った。

「てめぇのケツで楽しんでやってもいいんだぜ?」

 ゲラゲラと盗賊の全員が笑い、エスダールもこれには笑った。そして妻は見た、盗賊の顔が――彼らのなかでもっとも楽しいひとときである人を嘲り優越感に浸っているときの笑みを湛えたまま宙に飛んだのを。

 あまりの光景に妻は失神したが、目覚めた時にはカーテンが風に揺れる平凡な部屋の姿があり、長い長い悪夢だったのだと思って息をつきつつ、不安な気持ちで地下室に向かい、そこに悪夢のとおりに夫と息子が不安げな顔で待っていたのを確認し、お腹のあたりに手を添えて吐き気を抑えた。部屋で五つの首が笑顔で飛んだのを思い出したのだ。

「盗賊は? あの御方が助けてくださったのか?」

 妻は夫の言葉に先ほどの悪夢が現実だったのだとしり、脳裏に蘇った血飛沫の光景と床に笑顔で転がる盗賊たちの下衆な笑みを思い出し、再び気を失った。

 のちに、父と息子はこの日の出来事と白髪の男のことを、寒い季節のあいだ暖炉の前で語り合った。妻はよしとしなかったが、二人は気にすることなく、年を重ねるごとに熱く語り合い、白髪の男が言ったことを心に深く刻んでいった。そして、父は自分に学がなく、教えてやれないことを息子に詫び、その一方で自らの知識と智慧を惜しみなくそそいだ。

 息子は父の愛情と情熱を受け取り、ときに突き放しながら――父が子供であっても他人である誰かのために、己の無知と恥に立ち向かって働く姿を目と心に焼き付けて、誰かのために邁進する父のようになると心に刻んだ。

 父は息子のために本を買い、息子は学び、バルダス帝国における最高の学院であるミュルズイア学院に入学し、そこで西方神秘学と創造学を修学して、形而上学的視点を用いつつ神の起こしたと云われる事象を研究し、バルダス帝国の科学分野の創造学を用いて、その事象が奇跡ではなく化学で成し得ると論文を発表し話題を得た。そして、論文を証明するために、学院の教授と科学者と協力し、火を用いない霊石のカンテラ、秘術仕掛けの時計や機械を生み出し、独立可能な設備を生み出した。こんにちバルダス帝国を潤し、属州ともども人々の暮らしを支えているのは彼とその仲間たちの功績である。

 そして、やがてかつて息子だった少年は富と名声を得て父となり、二人のまだあどけない息子二人と郊外に買った家の庭のポーチで、妻お気に入りの薄い藤色の紅茶を啜りながら読書を楽しんでいた。

 息子たちは、ウィアドラ武国の英雄譚〝雷牙〟と、赤ノ国の将軍の伝記小説〝ガーネット旅団〟を。そんな息子たちを見て満足そうに最後の一口を堪能したティーカップをコースターの上に置く男は、〝藤の花の誘惑〟を読んでいた。

 ふと、そよ風が男の鼻をくすぐった。風につられるように向けた視線の先——ポーチの柵に一人の白銀の長髪の男が寄りかかり、男を見て微笑んでいた。

 男は言葉を忘れたかのように、ティーカップの取手をつかんだまま固まった。白い髪、透き通る星のようなアメジストの眼。この世に父がまだ生きていたなら、会わせたかった人物、というより不可思議な存在。

「やぁ」あのときのアメジストが、あのときとまったく変わらない青年の姿で微笑んだ。あの地下室での光景が鮮明に蘇り、地下室の匂いまで感じた。「君は、知識と向き合い、それを智慧としてこれたようだね」

 アメジストは男の二人の息子に近づいた。そして男は訝しんだ――初めてアメジストの声を聞いたときように。なぜなら、息子達は不思議そうに父である男を見上げていて、男はそれがどういうことか気がついて、本を見開いたまま卓に置くと息子たちに微笑んだ。

「お前たち、お父さんは考え事をしたい。すまないが、少し一人で風にあたりたい」

 前歯が抜けたばかりの長男が最初に立ち上がり、なんだがよくわかっていない弟の本を摘み上げると弟を連れて家の中に入っていった。男は二人の背中を見送り、扉が閉まると口を開いた。

 しかし、アメジストのほうが早かった。

「そう、見えていない。いま起こっているのが形而上的な出来事だから? もしかして、今まで信じてきたできごと、お父さんと暖炉の前で語り合ったことは、すべて恐怖心から現れた逃避行であり、かなしくも田舎の世間知らずの親子はそれを支えに生きてきたのだろうか——そう考えているね」

 男は怒るどころか口をあわあわさせて、椅子の肘掛を握った。

「考えていることがすべて筒抜けなのがなぜなのか——それは、自信の幻覚であり、幻覚は記憶から抽出されたものに過ぎないからだ――なるほど、確かにそうとも言える。一種の精神的損傷は逃避を行い、その一つとして幻覚は起こりうる。しかし、いま、君は恐怖を感じている。いま起こっていることが、どういうことか理解できずにいる」

 アメジストは、男の誰が見ても裕福だとわかる二階建ての家を見上げた。四人で暮らすには大きすぎる家だ。

「神秘学を学び世界を飛び回っていた昔の君なら、今の状況をのぞみ、楽しみ、恐れ、そして立ち向かったはずだ。いまの君には、恐怖しかない」

 アメジストは、男がいまさっき飲み干したカップを見つめた。男が視線を追うと、そこには妻お気に入りの紅茶がなみなみと湯気を立てていた。男は落ち着くためにいったん停止させていた思考の閂が音を立てて割れるのを感じ、目を丸くした——なにもないところから、紅茶が湧き出たぞ。

「どうだい? 今度はその紅茶を息子たちに飲ませてみるかい? それで、これが現実に起こっている事象だと認識するかい? それとも、自ら探求し真実を見つけるか……」

 男の思考が過去に引き戻された。あのとき、父親は自らの命と引き換えに助けを望んだ。しかし、自分はどうだろうか。豊かな暮らし、権威と名声を得て、良き妻と息子二人に恵まれて、彼らの将来を楽しむ――そんな未来を捧げられはしない。

 アメジストの視線が、男の読んでいた〝藤の花の誘惑〟に注がれ、男もそれに気がついた。〝智慧と博愛の神エスダール〟、大陸全土に強く根付くアルヴェ神話の主神の一つを描いたもので、父の愛読書だったもの。

 男はアメジストを見上げ、アメジストも男を見下ろした。

「君は知識を智慧としておさめた。君の父は、君に愛を注ぐだけで手一杯だった。その愛で育った君は、智慧をもちいて多くの者を豊かにした。いまの人生を進むのもいい。だけど、もう一つの可能性もある――君が先ほど恐怖した未知に向き合い、探求し、それらでより多くを豊かにすること」

 男は暖炉の前で父と語り合った日々、無知を嘲笑する世界に臆することなく息子のために働いた両親の姿を思い出した。そして、己を恥じた。それを〝思い出した〟という事実に。

「私は」そう言って、男は椅子から立ち上がり、ポーチから出ると家を振り返って仰ぎ見た。「今に満足している。そして、今の状況を満足することも幸せのあり方として間違っていないと考える。しかし、それは自らの器を満たすためだけであり、その器が満たされることはない。思い出した。私は、そのような暮らしは望まない。かつて、暖炉の前で父と語り、私のために両親がそそいでくれたものを、より多くの人に行いたい」

 アメジストは感慨深そうに、それでいてこうなるとわかっていたような顔でティーカップを手にとった。

「では、君は僕の申し出を受けるのだね」

 アメジストは、湯気たつティーカップを男に差し出した。男はカップを受け取り中を見た。

「私の名前は、ヒューズだ」

「知っていたよ、ヒューズ。初めてあったときから。そして、こうなることも」

 男――ヒューズは美しくも儚げな藤色の紅茶を啜り、すすきのような柔らかい甘い香りに小さく微笑むと目をあげた。しかし、そこには白髪のアメジスト色の目をした男はいなかった。

 家の中から長男が出てきて、手紙を一通、ひらひらさせながら走り寄ってきた。速達で送られたもので、長男は不安そうな顔をしている。

 差出人は、ミュルダス・バルダス・コルト――バルダス帝国の皇女にして将軍、〝鮮血の戦乙女〟からだった。皇女であり将軍であり名高い武人として諸国に名を馳せ、先進的な考えをもつ異端児。その人からの手紙は実質、軍への召喚状であり、ヒューズは腹の中が冷めた気がした。

 長男の頭に手を乗せて、なにも言わずに手紙の文を見つめながらポーチに上がった。ふと、見開きで伏せてあった本――〝藤の花の誘惑〟に目がいった。そして、体から力が抜けるような気がして椅子に座り込んだ。蜘蛛の糸にとらえられたのだ、ヒューズはそう思った。父もそうだったのかもしれない。アメジストの言葉に魅了され、気づかずに、息子のために生涯を労働に費やした。そう考えて、腹の底に冷たい泉を抱えたような気分になった。もちろん、湧くのは恐怖だ。

 ヒューズは顔を掌で拭うと、長男の不安げな視線に気がついて慌てて手を下ろすと微笑んだ。しかし、長男の顔は曇るばかりだった。自分でも笑えるほど力ない微笑みだと気がついて、ヒューズは椅子から立ち上がると、長男に紅茶のお代わりを頼んだ。

 自分はあのアメジストの網に囚われている。幻覚か真実か、わからない。ならば、この未知を探求しよう。そして、知識としてまとめ、智慧として、恐怖に克ち、得たものをより多くにそそぐのだ。

 ヒューズは、息子二人が運んできた紅茶のお代わりを受け取ると、今度こそ力強い笑みを見せた。息子たちの雲が晴れたような笑みにいま一度微笑むと、ヒューズは藤色の紅茶を味わった。

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