〜陽を知らぬ雑草〜
——明け六つ。
太陽が地平線に顔を覗かせるほんの前の時間。空は白み僅かに麦畑を彷彿させる色合いを見せる。王都のフレル院の鐘楼が鳴り響き夜が明けたことを告げた。
吟遊詩人がウィリアムの心に焚きつけた父と同じものが、ウィリアムを都に誘ったことを祖父と母親は心底驚いていた。一年に一回、それも一つ星か長くて三つ星しか家にいない父親にウィリアムが懐くはずもなく、父親代りの祖父の元で育ったウィリアムは、祖父に感化されて畑仕事に誇りをもっていた。だから、祖父も母も、ウィリアムが同じように土と触れ合うものだと思っていた。
家を蔑ろにする父親をウィリアムは好きではなかったし、家に帰ってきて戦のことや他国のいざこざ、霊獣との戦いとそれによって被害を被った村や人を憂う父の気持ちを語られるのはもっと嫌いだった。
それなのに、吟遊詩人の語りを聴いてからというもの、寝台に横になればそのことだけを思い出し、想いを馳せ、まともに寝れなくなった。そして後悔した。父の冒険譚を聴いていれば、吟遊詩人の言った都の風景をもっと想像できたのではないか、心に燻るこの想いに苦しむことはなかったのではないか。
しかし、自分は好き勝手に生きている父が嫌いだ。
父は王都に戻る前の食卓で、収穫したばかりの小麦で作ったパンを肉のスープに浸していたウィリアムを見て、一つ呼吸を整えた。
「世界は剣で人を守ることから始まった。聖戦があったからこそ、人の世がある。その始まりは変わらない。守る人がいてこそ畑を耕すことができる。いいかウィリアム、北では黒き影との戦いが激しくなってきている。他国も力をつけてきた。黄金の畑を整える時代は陰りを見せるだろう。きたる脅威に誰が家族を守るのだ?」
ウィリアムは迷うことなく、父さんだ、と答えた。家にいればだけどね、と洩らすように出た言葉を、しかし父は微笑んで受け止めた。
「俺一人では無理だ。だから、息子のお前がいる」
なんて虫のいいことを、とウィリアムは激情し父を睨んだ。しかし、同時に花の香りが沸騰したかのように心が浮きだった。寝台に就けば心を支配するのは見知らぬ地。
「都に行こうと思う」
その日の夜、祖父に言ったその言葉には叱責が返って来ると思っていた。そしてそれを望んでいた。そうすれば、故郷で誇りを貫ける。
「お前さんの人生だ。決めなさい」
祖父は、怒るでもなく、悲しむでもなく、嬉しそうにそう言ったのだ。あいつの子だなと言って。母も止めずに、
「あんたが幸せならそれがいい」と背中を叩いた。
——だから俺はここにいる。
都では、朝と夜に必ずフレル院に礼拝する。故郷の町でも行われているが、年の初めに今年の豊作を祈り、年末に一年の感謝をしに行くくらいだ。それも、農産に深い関係のある神だけに祈りを捧げる。
天を司るオレル——種を土に落とす、水を天から落とす意味から、雨の祈りと感謝を捧げる。種を植えるから転じて、男が子を願う際にもオレル神に祈る。
地を司るスレル——種を受ける大地、雨を受ける意味から、豊穣への祈りと感謝、種を受ける意味から女が子を願うときに祈る。
火を司るフレル——太陽であり、幸運や気候の温もりなどを祈る。
その三つだけしか名前も覚えていない。しかし、都では主だった七つもの神に祈るのだ。それを欠かさず毎日行う。故郷なら、この時間は家畜の部屋を掃除している頃だ。
フレル院の堂に入り簡素な長椅子の空いているところに腰を下ろす。程なくして星教の白い長衣を纏った星官達が、蝋燭を灯した燭台を持った娘達を連れて堂の奥から出てきた。これも毎朝行われる光景だ。燭台を持った娘達は青と白の揃いの長衣に身を包み、髪に一輪の花を挿している。花はそれぞれ娘が好むものをつけるのが習わしなのだそう。
娘達は、一日の始まりに歌う。人々が憂なき一日を送れるように、心健やかに一日を感じられるように。手に持った蝋燭の火を力の源に歌い、神秘を起こす。彼女達をスバニア騎士国ではこう呼ぶ——聖剣歌の乙女と。
真の騎士の称を冠するエクエスは、聖剣歌の乙女と愛を交わし乙女を剣とし生涯を添い遂げる。剣は戦いのなかで持ち主への愛を歌い、その歌が神秘を授ける。
都市にはこういった信じられない話が多々あり、吟遊詩人が飾り立てた物語が独り歩きして更なる装飾を得て辺境の者に夢を見させるのだ。ウィリアムは娘達の意味もわからない神の言葉で歌われる聖歌に耳を傾けながら、己が進んだ道に濃く掛かる不安の霧に溜息を吐いた。
つい二、三つ星前まで鋤や鍬しか持ったことのない人間が、剣など扱えるはずがなかったのだ。俺がここにきたのは、間違いだった。
胸の内側で、そんな己を噛み殺す。
祖父が、母が背中を押してくれたこの道を嫌だとなぜ思うのか。
——俺は、なににも感謝できていない。
ウィリアムは剣を握ると、稽古場へと向かった。