〜求めるがゆえに剣は欠ける〜
すべてをゆだね腕に凭れる彼女を見下ろす。風無き西陽の中でもそれは愛おしく、足りない程に遠く、切なささえ抱かせる。額にかかった前髪に指を添わせて耳までなぞり、彼女は一つ呼吸を強くして顔を擡げた。微睡み抜け切らぬあどけない、綿毛のように柔らかな顔に、今しがたかけたはずの髪が音もなく落ちた。
二人の飾らない笑みが交差し、彼女は胸に頬を埋めるように体を預け、再び微睡みに沈んでゆく。彼女の西陽を浴びて僅かに見える頬の産毛も、小さく薔薇の蕾のような唇も、少し強気そうな先細りの眉も、そのすべてが愛おしく、男はただただそれを指でなぞり何かを誓うように額を擦り合わせた。
――ジルクート
その優しい声音に沈むように男は頷く。
――ジルクート
ジルクートは貪るように肺に息を送り込み、大きく咽せた。乾いた黒い砂の地面、焦げた空気に赤気渦めく太陽のない空。起こした身のあちこちに焼ける鈍痛が走りジルクートは呻いた。
彼女の声がした方を見て、そこにある己の剣を傷だらけの手で鷲掴む。鞘から除いた刃は月の光もないのに一つ煌めいて見せた。
「ウィオラ」
ジルクートは苦しそうに、胸を絞るように彼女の名を呼び、剣を鞘から引き抜いた。剣は幅の狭い両刃の切るよりは突き刺す方が似合う姿をしており。花や蔦を模した精巧な意匠を凝らした鍔を持ち、青い宝石が散りばめられていた。呼び声に応えてか、鞘に抜かれて応えたか、剣は凛としたウィオラの声で歌の一節を奏でた。
「ウィオラ、歌ってくれ」
ジルクートはそう言い、体の痛みに堪えながら一歩足を引き腰を落とした。
眼前に迫るは、岩を体から生やしたような異形のもの。妖魔、魔物、黒き影——呼び方は国や地域によって変わるが、人の敵という点だけは変わらない。
黒い目に黄金の血管を血走らせ、牙を剥き四足で駆けてくる化け物はジルクートに前足を振り下ろす。それよりも速く剣光閃き、化け物の腕から首までを一直線に黄金の血飛沫が鮮やかに舞った。ジルクートが剣を振るい黄金の血を払うと、やはり、ウィオラの声で聖歌の一節がその場を清めるように響き渡る。
「もう少しだ、ウィオラ」
ジルクートは跳躍し、化け物はジルクートの姿を見失い狼狽する。その呻き声が終わるのと同時に化け物の頭に剣が突き立った。
(幸せな夢。それを邪魔した罪は重いぞ)
ジルクートは化け物のの頭から剣を引き抜き、一振りして血を払うと刃を赤い空に翳し見る。
二十年間一度も刃こぼれを起こさなかったその刃に、今、二つ目の刃こぼれが光を反射した。
「時間がない……時間が」