〜吟遊詩人のお爺ちゃん〜
まったく、こうも悪路が続くとは。だが、何日も手綱を握り馬車を走らせている御者に文句も言えまい。
湯気立つティーカップが奏でるカタカタという音に眉を曲げた男は、ごつごつとした指でティーカップを摘んで、思わず言葉にしそうになった悪態を歯の間から漏らした。
手に零れた熱い紅茶をハンカチで拭いながら、前の席で少女のような忍び笑いを浮かべる王女に肩を上げて見せる。
「あなた、そんなに怒らないでくださいませ。それにしても、旅とは面白いものですわね」
小さく跳ねた馬車に喜んで笑いを咲かせる王女をよそ目に、男は窓の縁に寄りかかり頰杖をつくと外に目をやった。
「こうも悪路が続いては気が滅入る。女王陛下の勅命とあらば致し方ないが、ここまでの旅となるとは」男は腰をさすった。
「わたくしは大切な事だと思いますわ。男の約束。わたくしにはわかりませんが、大切な事だとお父様は言っていましたの」
「両陛下の願いを渋っているわけではない」
「だが?」王女は男の真似をしながら首を傾げて愉快そうに尋ねる。
男は鼻を鳴らすと、「正装でなくともよかろう」と黒い天鵞絨と巧緻な刺繍を施した自分の服を目で示して、いつまでたっても変わらない景色が広がる窓に視線を戻した。
炉端の語り草とは人の心を楽しませる。それが真実にしろ、少しばかりの嘘の毛を生やしたにしろ。
特に子供の心にはよく届くようで、ふかふかとした絨毯の上で膝を抱えて座る五人の少年少女達は、抜けたばかりの前歯のない顔を笑顔に膨らませながら、暖炉の灯か好奇の光か、どちらにせよ期待の籠った目を輝かせて白い髭の老人を見つめていた。
長い歳月をともにした革張りの椅子に深く腰掛けて、子供達の視線を受けとめている老人は、子供達に待ってくれと指を立てると暖炉に薪をくべた
「少し冷えてきたな。紅茶でも淹れようかの」
「えー、はやく続きがききたい!」
「お茶なんかいらないよ」
「お菓子が食べたいー」
子供達がそれぞれに口を開く。その中でも年長の青い目をした少年、ルーベがすくっと立ち上がると、重い腰をあげようとしていた老人に手を伸ばして首を振った。
「いいよ、僕がいれてくる。お爺ちゃんは続きを聴かせてあげて」
老人は慈しむ静かな笑みで頷いた。子供達は黄色い小花のような笑みを浮かべて、「ルーベにいちゃんありがとう!」「やっさしー!」「だいすきー!」とルーベの背中に言葉を投げる。
ルーベが紅茶を入れたカップとポットを盆にのせてやってくると、老人は絃管楽器のハプートの絃を一つ弾く。そして、その音を引き継ぐように静かに語り始めた。
「そうして、吟遊奏院を修了し吟遊詩人となった私は、霞の大地ネブリーナの外に広がる未だ見ぬ大地を目指すこととなった。旅の友には、小さな鞄とこのハプートだけ」老人はハプートの古く擦れた木の部分を指で叩いた。「マントを翻し、羽根つき帽子をかぶると、門番に最後の別れをした」
老人は椅子に座ったまま優雅で慇懃な礼をしてみせる。暖炉の火が爆ぜるように、子供達の小さな笑いが咲いた。
「私は、街を目指して陽の光も朧げな森の街道を歩いていた。そのとき、風がやんだのだ。森が、大地が、息をひそめた」
ハプートの旋律が低くひっそりとなり、子供達が首を縮める。
「その時! わずかに風を切る音とともに矢が鞄に突き立つ!」
ハプートの旋律が速く高まる。
「私は驚きと恐怖を感じながらもとっさに――」
ハプートの音が止み、子供達は肩で息をして緩んだ口をそのままに老人を見つめた。
「――ハプートを構えた。戦士が剣を振るうように、私は歌った。猛牛の如く戦い、百の切り傷をものともせず生き延びた戦士、『爆乳のディア』の物語を」
「ばくにゅうのディア……」子供達は記憶に刻むかのように呟いた。
「私はマントを翻し宙を回り盗賊を翻弄した。だが、私には吟遊詩人の掟、殺さずの誓いがあった。短剣の一つも持ち合わせていない私にはどうすることもできない。やがて息も切れ切れになり、私は足を滑らせた」
子供達は息を呑み、暖炉の火さえ爆ぜて先の言葉を待った。ハプートの音色に悲壮の影が落ちてゆく。
「振り落とされる剣は一瞬のはずなのに、息をするよりもゆっくりに見えた。そして剣が私の額に触れる寸前、盗賊の胸に矢が突き立った。そして次々と矢を受けて崩れゆく盗賊達。あぁ、次の狙いは私か。そう思った私は最後くらいはと、勇ましく巨木のように悠悠と立ち歌った」
子供達が口を覆う。
「だが、飛んできたのは声だった。そいつらは俺の獲物だぞ、とな。その男の声は、明日の天気を訊くように自然なものだった」
子供達は、まだ不安そうに首を縮めている。
「彼は賞金稼ぎだったのだ。幸い、私には賞金はかかっていなかった」
老人が片目を閉じて笑みを見せると、子供達は堰をきったように息を吐いて肩を降ろした。
ルーベは紅茶を啜りながら、老人が次に語る物語の題名に耳を傾けた。
『賞金首の王女さま』
この話は何度も聴いたお話だ。
一人の賞金稼ぎがいた。ある日、彼の元に使者が手紙を渡しにくる。翼と薔薇の女王の印で封蝋されたその手紙には、抹殺対象として第一王女の名前があった。
巨額の報酬金と抹殺対象を見ても驚きはしない、何人もの貴族を手にかけた男はどんなものでも切る包丁のよう。そんな男だ。
その王女は、夜な夜な城下町におりては人気のないところに足を運ぶ。たしかに、これは怪しいやつだ。そう思った男は王女を追いかけた。
もうすぐ大金が手に入る。男は、襲撃を決行するも王女を見て動けなくなった。王女は助かりそうもない病人を看病していたのだ。
数百の喉を切り裂いて生きてきた男は、短刀握る己の動かぬ腕に驚いた。
襤褸の頭巾を後ろに上げた王女は言う。
「ついにこの時がきたのですね」
男は問うた。何をしているのか。
王女は微笑んだ。
「病を治しています」
「そいつはどう見ても助からん」
「それでも。誰かが手を握っていれば、こころは助かります」
ぎらつく短刀と死んだ護衛を目の前にしても、王女は微笑みそう言った。
男は信じられなかった。殺されるとわかっていながらも、助からぬ病人を看るその女性の存在を。この女性が殺されなければならない理由があることを。
その夜、男の短刀は血を味わうことはなかった。
男はその女を殺さなければならない理由を探して、ついに見つけた。女王はお気に入りの欲深い第二王女を世継ぎにしたかったために、第一王女を消そうとしたかったのだった。その証拠を男は王に伝えた。愛娘を殺そうとした女王と貴族に怒りを燃やした王は、女王と貴族を処刑しようとする。
〝それでも、わたくしは母上と妹を愛しています。どうか命だけはお助けを〟
王女の涙とその言葉に、王と貴族、臣民さえも心を打たれたのだった。王は女王と第二王女を追放し、第一王女は女王になった。賞金稼ぎは爵位を与えられ、後に女王と結婚して元気な女の子を一人授かり、皆に愛されながら三人は幸せに暮らした。
本ではこういう話だけど、お爺ちゃんはあたかもそこに自分がいるかのように話すのだ。面白いけれど、僕のおばあちゃんの言葉が心に残ってどうしても好きになれない。
——あの人は嘘つきだからねぇ。
それでも、お爺ちゃんの話を聞き終わると満たされる。なんだか今すぐ駆け出したくなるような……胸がどきどきしてきて不思議と笑顔が溢れ出るんだ。それでも嘘だったら、嫌だな。
「お爺ちゃん、その薔薇って花はどこにあるの?」
ルーベは色々な話に出てくる見たことのない花のことを訊いた。
「野薔薇もあるが、火季の少し前に咲くのが多くてな。今は見れないだろうな。このお話に出てくる薔薇は普通の薔薇ではなくて、クレノバラといって火季が終わり土季の初めに咲く種類なんじゃ。さぁもう陽が沈んだ、お家に帰りなさい。こら、お前達、そんなにクッキーを食べなさんな、夕飯が入らなくなるだろうに」
土季に咲くバラもあるんだ、まだ見れるかもしれない。ルーベはお爺ちゃんの家から出ると、雲で見えない夜空を見上げた。
長かった雨がようやく止んで間もない薄くも強い木洩れ陽がさす森の中を、子供達はこころを膨らませて歩いていた。
「ルーベにいちゃん。本当にあるの?」
「あるさ。この季節はまだ咲いてるって言ってたじゃないか」
年下の子供達が、お爺ちゃんは嘘つきだ、本の中のお話だってお母さんが言っていた、と囁く言葉にルーベは振り返った。
「お爺ちゃんが言ってたものは本当に存在するんだよ」
「本の中のお話だから信じちゃいけないって、僕のお母さんは言ってたよ?」
ルーベ以外の子供たちは揃ってそう口にした。
「あるって」ルーベは前を向くとそう言って強く足を踏み出した。
昨晩の雨はひどいものだった。外の植木鉢は大丈夫だろうか。
椅子に深く腰掛けていた老人は立ち上がり、扉に手をかけようとするも突然開いたことに驚いて、危うく尻餅をつきかけた。訪問者を睨みそうになったが、涙を流し、肩を上下させて声を震わす子供達を見て眉を下げた。
「お前達、どうしたそんな——」
「おじいちゃん! ルーベにいちゃんが崖に!」
老人は泥濘む森の中を走った。雨の露にまみれ、いたずらに足を止めてくる草に悪態をつきながら。
肩に食い込む縄が重く感じられた。木々の根元は脆く土が崩れ落ち足をすくってくる。森の雨上がりの静かで濃厚な匂いは、まるで人を嘲笑っているようだった。
「ルーベ!」
崖の少し落ちた淵に必死にしがみつくルーベの顔は、老人を見た瞬間に弱々しく震えた。もう限界だと青い目と蒼白な顔が物語っている。
老人は手近な岩に縄を結びつけて自分の体に巻きつけると、崖を慎重に降りてゆく。危なげにルーベを掴むと、体にしがみつかせて崖を登る。
自分の非力な老体を呪うことになるとは——老人は苦悶に口を歪めて、震えだした自分の腕を見る。ルーベの血の気を失い歯を鳴らす顔を見て、笑顔をつくって見せた。
「大丈夫だルーベ。私がついている。いつも話しているだろう? こんなこと、冒険ではしょっちゅうだ」
「そ、そんなの本の話じゃないか。僕にだってそれくらいわかるよ」
老人は足を滑らせ、濡れた岩肌に体を打ちつけた。抜けそうなほどに引っ張られる細い腕はもう限界だ。
ルーベは恐怖から泣き声を洩らし、無理だよと呟く。
「下を見ればみるほど怖くなるもんだぞルーベ。上だけ見てなされ。私も、もう少し若ければなぁ。そうすればこんな崖——」
「嘘だ……」
老人はルーベの顔を見て眉を上げた。そんな老人の目をまっすぐとルーベは見つめ返す。非難と願いの交わる、少しの怒りを湛えた目。
「僕たちにだってわかるよ。お爺ちゃんが話してくれた物語は全部本の中の話じゃないか。僕のおばあちゃんだってお爺ちゃんのこと嘘つきだって言ってる!」
老人はルーベの目をしばらく見つめてから、静かに言った。
「そう。確かに本のお話だよ。本のお話に、少し私の話をつけ加えておるんだよ」
「それが嘘つきだって言ってるんだよ!」
「だけど、私の中では本当の話なんだ。いいかいルーベ。人はね、信じたいと思うものほど傷つけようとしてしまうときがあるんだよ。だけどね、信じればそこにあり、信じなければそこには何もないんじゃ」
老人は崖の上に目を向けた。
「もうここからなら縄を登っていけるだろう? お前はしっかり者だ。あとは自分の力で登っておいき」
ルーベは無理だと言いながらも、老人の優しい声と力強い眼差しに小さく頷くと、何度も足を滑らせながら崖を登ってゆく。崖を登りきると、老人を振り返った。
「お爺ちゃん! 大人を呼んでくる!」
「待ちなさいルーベ。いいか、誰がなんと言おうと、自分の信じたいものを信じなさい」
「そんなことより大人を——」
老人は歯を食いしばりながら首を振る。
「いいから聞きなさい。暖炉の上に紫と金で彩られた綺麗な本がある。私の一番の気に入りの本だ。それを君のおばあさんにあげなさい。きっと喜ぶから」
ルーベは静かに頷く。
「大人はあの子達が呼んでくれているから、すぐに来る。そうだ、ぶら下がっているだけもなんだからな、一つお話をしてあげよう」
ぶら下がり風に揺れる老人を見下ろしながら、ルーベは涙を拭いながら頷いた。
「そうだな、あれは確か私が——」
老人の体がガクンと弾み、縄が音を立てて地面を滑る。老人とルーベの視線が交差する。声を上げる間もないまま、二人の距離は遠くなっていく。
ルーベはただ、老人が落ちていくのを見ることしかできなかった。
ルーベと子供達は老人の入った棺の周りで、静かに老人の白い顔を見下ろしていた。誰も一言も話さなければ、涙もない。涙はとうに枯れているから。
老人と最後の別れに来ているのは子供達だけだった。
お爺ちゃんとは話せない。もう、話せないんだ。
胸がふわついているのに、すごく痛くって怖くって、重い。
「お爺ちゃんの話、もう聴けないんだ」
ルーベの言葉を聞いた子供達が、ポツポツと好きだった話を互いに話し始める。一人がポツリと言った。嘘の話でも面白かったな……。
「嘘じゃない!」
ルーベの大声に子供達は肩を跳ね上げた。泣きべそを堪える子の顔を見て、ルーベはばつが悪そうに歯を擦り合わせて老人の顔に目を落とした。
「信じればある、信じなければ何もないってお爺ちゃんは言ってた。僕は信じる。お爺ちゃんは物語を話してくれてたとおりの、お話にでてくる吟遊詩人だ」
ルーベは老人に別れと感謝を告げると、確かな足取りで老人の家にやってきた。
暗い部屋の中のランプを点けて浮かび上がる革張りの椅子、本棚、食器一式、部屋の天井、絨毯、柱。お爺ちゃんが今にも台所から焼き菓子を持ってきてくれそうな雰囲気に、ルーベはその場にうずくまって胸を押さえながら息も止めて堅く目を瞑った。
ルーベは静かに息ができるようになると、暖炉の飾り棚を見上げた。紫と金の装丁が施された綺麗な本がそこにあった。
踏み台を持ってくると、つま先立って本を手に取った。天鵞絨の表紙に手を滑らせる。お爺ちゃんの大切な本。
『アルムシア伝記』
このお話はしてくれたことがなかったな。そういえば、お爺ちゃんが話してくれたのは、あのネブリーナの吟遊詩人のお話だけだったな。
ルーベは家に帰ると、揺り椅子で舟を漕ぐおばあちゃんの肩をそっと揺らした。
「おばあちゃん。この本ね、あの語り部のお爺ちゃんがおばあちゃんに渡してって。きっと喜ぶって」
おばあちゃんはその天鵞絨の装丁を懐かしむように手で撫でて、皺くちゃの顔をもっと皺くちゃにした。
「あの嘘つき爺さん。嘘つきじゃなくなっちゃったわね。この本はね、小さい頃、私が欲しかった本なのよ。いつかくれるって約束してたの。やっとくれたのね」
「お爺ちゃんが嘘つきって、そういうことだったの?」
「そうよ?」
ルーベは、自分の中に明るくて暖かいものが鼓動するのを感じて、こみあげるもので目を濡らした。
そのうち、座っている柔らかい椅子と同化してしまうのではないかと思わせる程に長い、本当に長い悪路が途切れたのか、はたまた盗賊とでも出くわしたか、どうでもよいがようやく馬車が停車した。待ちに待った御者の恭しい到着の言葉に、ため息が洩れる。
「外に出るとしましょう。旅の目的地への到着、フレルの加護に感謝ですわね」
フレルの加護か、それならば先日の大雨はもう少し先延ばしにしてほしいくらいだ。そんな不満を表には出さずに、男は頷いた。
馬車の扉が開かれ、王女の手をとって先導する。雲のない空を見上げて、男はいつぶりかの笑みを口に浮かべた。
「なんて素朴で美しい村なのでしょう。あなたも剣だけではなくて、こういった場所にも目を向けてもらいたいものですわ」
男は作った笑顔を返した。
老人の家は村の丘の上にある小さな家だった。花に囲まれて棺に納まる老人の顔は白く、弱く、どこにでもいそうな老人だ。
王女が棺の中の老人の額に手を置いた。
「あなたがお父様の友人だったのですね。こんなふうに出会うとは、残念です。お父様から言伝がありますのよ。あれから数十年、一度も会いに行けなくてすまなかった、戦友であり親友の君に会えなくて残念だ、もう少し若ければよかったのだが。そう言ってましたわ。わたくしのお母様とお父様を守り、繋げてくださったあなたには感謝しております」
老人の家の窓から覗き込む子供達の顔を見て、王女は淑やかに微笑む。
「あなたは好かれていたのですね、吟遊詩人のお方」
王女はそっと老人の棺の中にメダルを置いた。翼と薔薇の意匠のメダルを。