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やぶから棒にもほどがある

作者:鯨井あめ
暖房の効いた大学内のラウンジで、穂乃果ほのかは、忠宏ただひろの目から零れ落ちたそれを指差した。

「ねえ、コンタクトレンズ、だよね?」

小さくて透明なそれは、木製の丸テーブルの上にあって、ニスと同化して見えづらい。
でも今、たしかに忠宏の目から落下した。向かい合って座っているのだから見間違えるはずがない。
忠宏がまばたきを繰り返した。

「忠宏くんって裸眼じゃなかったんだ」
「えっと、」

忠宏はシャーペンを片手に持ったまま、目線を下げた。コンタクトレンズに手を伸ばさないで、口をモゴモゴとさせた。「しまったなぁ」と小さな声で呟いた。
日頃の忠宏からは、想像がつかない姿だった。

「穂乃果さん、その、驚かないでほしいんだけど」
「どしたの?」

忠宏は頭の回転が速く、ほとんどの事において頭ひとつ抜けていた。カリスマ性があり、リーダーシップをいかんなく発揮する上に協調性もあって、思いやりもある。他人にも自分にも誠実で、おまけにそれを鼻にかけない。講義は真面目に出席するが、羽目を外すことも忘れない。運動でも勉学でも超完璧人間なのに、ふとしたときの言動がかわいらしくてずれていて、そこがまた好かれる理由になる。

穂乃果は、そんな忠宏に思いを寄せていた。
密かに、だ。

時々こうやって、勉強を教えてもらう。彼とのつながりは、学部内で振り分けられたクラスがたまたま同じなだけ。入っているサークルも、住んでいる場所も全然違う。唯一彼に近づける手段が、勉強しかなかったのだ。
好きな彼が珍しくまごついているのだから、それはもちろん気になる。

「なんでも聞くよ?」

忠宏は「ううん」と頭を掻いた。

「穂乃果さん、その……それ、コンタクトレンズじゃないんだ」

穂乃果は、彼女のノートと彼のノートの間に落ちている、透明なそれを見た。

「それ、鱗なんだ」

穂乃果はその言葉を脳内で反復して、もう一度それを見た。

「……うろこ」
「ほら、今、この問題で、」

忠宏は、代数学の課題プリントの問3を指さした。

「穂乃果さんが別解を使ってて、それを見て、もうひとつの別解がわかったから」
「だから、うろこ?」

穂乃果の頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。忠宏は「そう」と眉を八の字にした。

「見られちゃったな。誰にもばれないようにしてたんだけど」
「うろこ……」
「触ってもいいよ」

まさか、と思いながらも触れた穂乃果は、それが持つ硬さに動きを止めた。
穂乃果は大学進学で上京してきた身なので、独り暮らしだ。自炊もしている。魚をさばいたことだってある。
指先の感触は、たしかに鱗に思えた。

「……どういうこと?」
「笑わないで聞いてほしいんだけど、俺、昔からちょっと変わった体質で、慣用句、ことわざ、故事成語ってあるだろ? あれが実際に体に起こるんだ」

なんだそれ。

まゆをひそめた穂乃果は、しかし、これは忠宏の冗談だろうと思った。
彼はきっと、ユーモアを混ぜて話を広げているのだ。

単にコンタクトレンズが落ちただけなのだろうが、それで終わらせないのが忠宏だ。だって彼はコミュニケーション能力も高いし、社交性もあるし、話していて楽しい人物なのだから。

そう思った途端、なあんだ、と気が楽になる。これは鱗なんかではなく、俗にいうハードコンタクトレンズか。今日珍しいと言われている、ハードコンタクトだ。そう、ハードコンタクト。なあんだ。

穂乃果は近視でも遠視でもないため、眼鏡やコンタクトとは無縁だ。コンタクトレンズの硬さなどわからなくて当然だった。

穂乃果の表情に、忠宏も安堵したようだった。彼の口元から緊張が消える。

「小学校で、そういう言葉の概念を習うだろ? 覚えてない? 国語でさ、日本のことわざ、中国から伝わったことわざみたいなもの――故事成語のことだよな――、慣用句って。こんな体質になったのは、たぶんその時からだと思う。俺は昔、野球をしてたんだけど、」

忠宏が野球少年だったことは、同回生で周知の事実だった。

「投球が上手くなりたくて、毎晩遅くまで練習をしてたんだ。でも、慣用句って概念を学んだあとは、素振りの前にあることをしてしまうようになった」
「何をしたの?」
「タオルを持ってきて、ひたすら腕を磨いたんだ」

穂乃果はふっと笑ってしまった。さすが忠宏だ。上手いことを言う。

「それから、友だちと話していて実際に顎が外れてしまったし、夜更かしをしてゲームしていたことが親にばれたときは、頭が上がらなくなってしまった。中学生のときなんか、あと少しで問題が解けそうなのにうまくいかなくて唸ってたら、二階から水滴が落ちてきたこともある」

雨漏りしてるんじゃないかと思って親に言いに行ったんだけど、信じてもらえなかったんだよな、と忠宏は調子よく話す。

「今だって、ちょっとでも黙ると舌が口の中で回る」
「ふふ」
「ほんとだよ? プロ野球の試合を見てたらいつの間にか手に汗の粒が集まってるし、高校3年の部活なんか、決勝戦で負けたあとの帰り際はずっと後ろ髪が引かれてた」
「痛かった?」
「痛かった! あれはやっぱり後悔が強いほど痛いんだよ」
「そういうもんなんだ。何に引かれたんだろうね。幽霊?」
「わからないけど、やっぱり、俺があの場に残してきた感情だったんだろうなぁ」

しみじみと言うので、余計とおもしろさが増してしまった。穂乃果は声に出して笑ってしまう。
忠宏は「笑うなよー」と片手でシャーペンを回した。

「驚くようなニュースが入る前日は、朝起きてみると耳が濡れてる」
「それはちょっと迷惑だね。寝耳に水かな」
「高校も大学も、合格発表の時に上から順に番号を見ていくだろ? あの時呑んだ唾は固いしさ」
「固唾を呑む」
「バッテリー組んでたやつとはずっと呼吸速度が同じ」
「息が合ってたんだ」
「おばあちゃんからもらったお守りは、体のいたるところにくっつく」
「肌身離さず持ってるんだね」

おばあちゃんにもらったお守りを大切にしてるところ、こういうところが本当にかわいらしくて、優しさを感じるのだ。
穂乃果は、案外自分がその類の言葉を知っていたことに驚きながらも、この答え合わせのような会話を続けてみたくなった。

「他には?」
「他に? そうだなぁ。このエピソードは尽きないからなぁ。ずっと悩まされてきたわけだし」

忠宏は顎に手を当てて、斜め上を見た。

「いちばん困った話をすると、思春期の時だな」

思春期。穂乃果は「わかった」と手を打った。

「体質が悩みになったんだ?」

冗談半分で乗ってみると、忠宏は「いいや」と頭を振った。

「親とぶつかるようになって、まあ反抗期だし仕方がないことなんだろうけどさ、毎回決まった文句で言い返してたら、どんどん口の中がすっぱくなってきて」

穂乃果は笑わずにはいられなかった。

「文句を言うに言えなくなってしまって」
「フラストレーションがたまりそう」
「たまった。本当に、親とぶつかると手も足も動かなくなったし、耳にたこができた」
「実際に?」
「実際に」
「結局どうしたの?」
「まあ、想像にお任せする」

穂乃果も思春期は大変だった。親と離れて、ようやく感謝の心を持てるようになってきたが、それまではもう毎日が修羅場だった。彼の気持ちはよくわかる。

「ただ、」

忠宏が恥ずかしそうに言う。

「年末に極寒のなか帰省して、実家でシチューを食べたときなんて、臓器という臓器にシチューが染み込んでいくのがわかったよ」
「温まった?」
「とても。あれは忘れられない」

忠宏が苦笑して、つられて穂乃果も苦笑した。

「小学校6年生の時だったかな。友だちと喧嘩して泣きながら下校していて、どこからともなく蜂が現れたときは焦った」
「刺されちゃった?」
「いや、どうにかして逃げたけど、あれは肝を冷やした。あ、実際に冷えたよ。それから、処方される薬はぜんぶ妙に苦いのに、すぐに効く」
「いいのか悪いのかわかんないね」
「感情が瞳に映ってバレバレ、なんてこともあったっけ」
「えっと、……」

穂乃果は思考を巡らせた。
適した答えが思い浮かばない。

「それはことわざ? 故事成語? 慣用句?」
「違い、わかる?」

穂乃果は首を傾げた。
わかるような、わからないような。

出所が違うだけで、あまり大差はないように感じてしまう。
どれも物のたとえであること、物事を端的に言い表したものであることに変わりはない。戒めだったり、先人の教えだったり。ついつい覚えてしまうくらいにキャッチーなものまであるのだから、考えた人はすごいな、と思う。
壁に耳あり障子に目あり、とか早口言葉みたいにテンポ良いし、馬の耳に念仏って、逆に訊くけど馬に念仏唱えることとかある? 豚に真珠をあげる気にはならないし、どんぐりを背比べさせて何になるのだろう。犬が西を向けば尾が東を向くのは当たり前で、当たり前のことを当たり前だと言うためにわざわざことわざを作るのも、また、何とも言えないしょうもなさを感じるというか。

真剣に考え始めた自分に笑いながら、穂乃果は「おもしろいね」と呟いた。
できる限りそういった類の言葉を思い出そうとしてみた。あまり上手くいかない。ヒントがあればわかるのに。意識して使うことがないからかもしれない。
穂乃果は目を閉じる。

「えっと、……猫に小判、猫の額、猫の目、猫……」

愛猫家なので、猫関連の言葉ばかりが浮かんできた。忠宏の含み笑いが聞こえた。ちょっと恥ずかしい。昨日猫カフェに行ったことも助長しているに違いない。

それにしても、改めて考えてみると、故事成語やことわざ、慣用句っておもしろい。

穂乃果はシャーペンを手に取って、代数学の問題を解いていたページをめくった。真っ白なそこへ書き込んでいく。

目から鱗
腕を磨く
顎が外れる
頭が上がらない
二階から目薬
舌が回る
手に汗を握る
後ろ髪を引かれる
寝耳に水
固唾を呑む
息が合う
肌身離さず
口がすっぱくなる
手も足も出ない
耳にたこができる
五臓六腑にしみわたる
泣きっ面に蜂
肝を冷やす
良薬は口に苦し

忠宏が最後に言ったのは、確か――

目は心の鏡

これだ。
『目は口程に物を言う』かもしれないと一瞬思ったが、それでは、目が喋っていないとおかしい。
目が喋る。
穂乃果は苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
目が喋るって。
イラストで想像するにはいいかもしれないけど、もし本当に目が喋ったりしたら、ちょっとしたホラーである。
穂乃果は控えめに言った。

「じゃあ、忠宏くんはその体質のせいでずいぶんと苦労してきたんだね」

忠宏は「そうなんだよ」と頷く。

「人にばれないようにしてきたんだけど、とうとう化けの皮が剥がれたな」
「剥がれたの?」

穂乃果は「あまりそんな気はしないんだけど」と付け足した。
果たして忠宏の返事は、「実は今まで我慢してたところもあって、しんどかった」と、どこか張りつめたものだった。

「でも、もう剥がれたんでしょ?」
「うん。だからぜんぶ喋ってる。化けの皮っていうのは、外面のことなんだよ。俺は今まで、この体質のことは誰にも言いたくなかったんだけどな。特に、仲が良い人にはばれたくなった。嫌だろ? 変だろ?」
「うーん、変な話だとは思ったけど、わたしは笑わせてもらったしなぁ」

とても頭の捻られたジョークだと思うのだけど。
やっぱり好きだなぁ、そういう発想ができるところ。
穂乃果はごまかすように肩をすくめて、さて、と気を取り直す。

「いい気分転換になったね」

止まっていた代数学の続きを始めようとして、忠宏の手が穂乃果の手首を掴んだ。

「あのさ、穂乃果さん」

忠宏と穂乃果の視線がぶつかった。
騒々しいラウンジのなかで、男女がふたり向かい合っている。
穂乃果は混乱しながら、「うん」と半ば生返事をした。

「どうして、俺がずっとマフラーを外さないのか、わかる?」

ラウンジに入ったとき、穂乃果はマフラーと手袋を外した。
忠宏は手袋を外したが、マフラーは巻いたままだった。単に外すのが面倒なだけだと思っていた。
そういえば、ここ最近、忠宏はマフラーを巻いたままだ。

「……どうして?」

忠宏の空いている左手が、彼のマフラーに伸びた。
彼はそれを外さずに、ぎゅ、と口元まで上げて覆った。
その頬に赤みがさした。

「俺、こういうのだけはてんで向かなくてさ、失敗続きなんだけど、もう化けの皮も剥がれたし、思い切ろうかな」

えっと、と穂乃果は息を吐いた。
彼の視線が穂乃果から外れなかったので、穂乃果も外せなかった。
彼の瞳がキラキラと光っているように見えた。
ドッ、ドッ、ドッ、と彼女の全身に鼓動が響いた。掴まれている手首が熱を帯びている。反して足元は冷えている。肩に力が入って抜けない。

「あのね、穂乃果さん」
「う、うん」

穂乃果の手首を掴んでいた忠宏の手に、ぎゅ、と優しくも強く力が入った。

「穂乃果さんといると、俺、……手が出そうになるんだよ、喉から」
「……え?」

忠宏と視線が合ったままで、ふたりの間にだけ沈黙が訪れた。
ガヤガヤと騒がしい周囲と膜で隔てられたような空気のなか、穂乃果は瞬いた。

「えっと……」

ゆっくりと意味を咀嚼した。

穂乃果さんといると、手が出そうになる。
どこから?
喉から。

喉から手が出る。

「あ」

穂乃果の声が零れる。赤面した忠宏が視線を逸らす。

「あ、え、……あ、忠宏くん、それって、」

穂乃果は言葉に詰まった。慌てて、下を向く彼から目を逸らす。口元を抑える。

「それって」

つまり。

ああ、無理だ。我慢できない。

彼女はたまらず顔から火を出した。

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