5 貴方って一体何者なの?
新とアグナが出会った部屋を出てから、二人はもう大分歩いていた。
彼処を出てからも似たような意匠の廊下が続き、直線ばかりで構成された此処は、一種の神殿のように新には見えていた。相変わらず壁に設けられた燭台が仄かな灯りを発している。そのお陰で真っ暗闇とはならないまでも、明らかに光量が足りておらず、廊下の先をすべて見通すことは適わない。曲がり角などでは新が緊張する場面が幾つもあった。
あれから魔の物とは数回遭遇していたが、危なげなく道程は続いている。出て来るのはどれも、犬のような顔をした背丈の小さい二足歩行の物や、烏くらいはある大きな蝙蝠など。時折そこに腐肉を引き摺ったゾンビのような物が交じるのだが、それらが相手であれば、ある程度の群れであってもアグナは苦もなくそのほぼ全てを退けていた。新から見てもそれらは、確かにあの骸骨からは数段劣るような存在ではあったが、自分が同じことをやれ、と言われても到底出来るとは新には思えなかった。改めてアグナの強さを感じている。
あの剣気は魔の物にも有効に働くようで、アグナがその大剣を握れば魔の物の動きも目に見えて鈍くなり、あっさりと斬り捨てられる。その都度、新も若干の息苦しさを感じるのだが、それも致し方ないのだろう、と半ば諦めていた。
ところで、新にはどうにも腑に落ちない事があった。出発前にアグナに聞かされた限りでは、戻るのに相当の覚悟が要るというような話だった。あの骸骨程ではないにしろ、途中には手強い魔の物がそれなりに居る、と。だが、今のところアグナが苦戦を強いられるような状態には一度も陥っていないのだ。
「……可怪しいな」
などと新が考えていたところに、アグナがそう零した。
「あ、やっぱり?」
「ああ。……あの部屋に辿り着く前と後とで、出て来る魔の物が変わっている」
アグナがこのルインズに入った当初は、前情報通り、出てくるものは全て屍食鬼や骸骨戦士といった不死の物ばかりであったそうだ。ところが、先程から出遭うのは殆どが犬頭や少し大きい蝙蝠ばかり。明らかに、出現する魔の物が変質しているということだった。名残なのか、未だにグールはちらほらと出ては来るが、それでも明らかに弱体化しているという。
「あの骸骨を倒したから、何かが変化したってことか?」
「そうとしか思えん……。確かに、ルインズにはそこを統べている主のような魔の物が居る。此処で言えば、あのスカルナイトが恐らくそれだ。だが、例えばその主を倒したとして、その結果ルインズ全体の質が変化するかと言えば、そんなルインズは聞いたことが無い。奴らは、ルインズに縛られている訳ではなく、ただそこに棲み着いているだけなのだ。……いや、私が聞いたことが無いだけで、あるのかも知れんが」
アグナが持っていた薬瓶が殆ど空だったのも、アンデッド対策に持ってきていた聖水や水薬を殆ど使い切ってしまうくらいに猛者ばかりだった事が理由らしい。だが今は出て来る魔の物も変わり、その殆どが一刀のもとに斬り伏せられるくらいに弱くなっている。
「でもまぁ、簡単に抜けられそうだってことだろ? 良いことじゃないのか?」
「もちろんそうだ。……この変化がこれだけで終わればな。油断せず行くとしよう」
そう言ってアグナは、剣の柄を握り直すのだった。
「ところで、お前は何処までついてくる気なのだ?」
三匹の蝙蝠を斬り捨てたアグナが、光の球に向かってそう訊いた。今も光の球は、何をするでもなく新の周りをふわふわとついてきている。
『せっかく目覚めたんだもん。何処までもついていくよ? 外も見てみたいし』
「その形でか?」
『うーん、肉体はもう消えちゃってるみたいなんだけど、もう少し力が溜まれば人形も取れるとは思う』
「此処から出てしまって、保っていられる保証はあるのか?」
『多分、大丈夫。でも、もしもの時はシンくんの中を間借りさせてもらおっかな?』
「はい?」
光の球が言う意味が全く分からない新は、思わず間の抜けた声を上げた。
『今のワタシは、とても不安定な状態なのは確か。外の空気が合わなければ、シンくんの中に入らせてね?』
「それって、俺は平気なのか?」
『サキュバスだった頃の性質はもう無いから、シンくんには影響はないよ?』
「あまり勧められん話ではあるがな。ホロウのような奴に気に入られて取り憑かれる、と言った話はよく聞くが、大体は心を病んで再起するまで時間が掛かるか、最悪の場合は……」
「ちょ、ちょっと! そこで終わらせんなよ!」
「いや、済まんな」
「……まぁ、だいたい、その先は想像が付くけどさ」
「恐らくだが、要は間借りさせている間は、己の生活がそいつに総て筒抜けになるということだからな」
「えぇ~」
『まぁまぁ。最悪の場合だけだし。ね? ワタシはシンくんのプライバシーは守るよ? それに、シンくんはワタシがいないと言葉が通じないでしょ?』
「あ」
「む」
新とアグナが互いに言葉を交わせるようになったのは光の球のお陰なのだ、ということを二人はすっかり忘れていた。思わず顔を見合わせたことで、お互いがそれを忘れていたと分かった。
「そっか、なら仕方ないか」
自分さえ気にしなければ病むこともないだろうし、アグナに押し付けるのも何故か気が引けた新だった。取り憑く必要がないようにしてやれば良いのだろうし、その辺りはアグナが何とかしてくれそうだ、と思ったのもある。
『そういうことで、よろしくね~』
光の球に頷きを返す新とアグナであったが、新は一つ重要なことを聞いていないことに思い至る。
「そういえば、君はなんて呼べばいい?」
『え?』
「名前だよ、名前。これから長い付き合いになりそうだからさ」
「ああ、それもそうだな」
『名前……』
光の球は動揺している、心なしか新にはそう思われた。何となく、飛ぶ姿が小刻みに震えているように見えたのだ。
『名前……名前……?』
「えーっと……?」
『どうしよう!? ワタシ、自分の名前、忘れちゃった!』
「え」
今度はオロオロ、という言葉がピッタリ嵌まるように飛び方が弱々しくなった。
「そういう事ってあるのか?」
「さぁ、な」
この世界のことなら新はアグナに訊ねるしか無いが、然しものアグナもそこまでの知識は持ち合わせていないようだった。しかし、何となくアグナが疑いの目を光の球に向けているようであることが、新は少しだけ気になった。
「適当に、思い付いた物で良いのではないか?」
それが証拠に、アグナがそう冷たく言い放つ。
『うーん……。あ! じゃあシンくん付けて?』
「おい」
「は? 俺?」
『名前って、誰かに貰うものでしょ?』
「そりゃあ……まあ」
「おい、ふざけるのも大概に――」
『だから、ね?』
アグナの言葉を遮るようにして、光の球は新の胸の辺りに飛んできた。何となく、上目遣いをされているような気分に新はなった。仕方なく名前を考え始める。
「んー、そうだなー……」
「いや待て、シン――」
「じゃあ、ホタル、なんてどうだ?」
第一印象に従って、新は気安くそう提案したのだが。
「ばっ、シン!」
「おわっ!?」
急に肩口を掴まれて新はたたらを踏んだ。アグナがかなり焦った様子で新に詰め寄ってくる。
「な、なにアグナ? どうした?」
「どうしたもこうしたも! お前! 軽々しく魔の物に名前を、与え、る、など……」
アグナは言葉をそれ以上続けられなかった。新もそれどころではない。二人ともある物に目を奪われていたからだ。
光の球が変化していた。
ぼんやりとした輪郭だった球は、それが今ははっきりと分かるくらいに凝縮していく。一定の大きさまで縮まると、何かに押さえつけられているのか、数瞬反発しているように収縮をすると、眩い光と共に一気に弾けた。
「うわっ」
「くっ」
新もアグナも目を開けていられないくらいの光が二人を包んだ。
やがて、目の眩みが取れ、闇に慣れてくる。そこで二人が目にしたモノは、自分の体を見回している一人の女だった。
「あら、驚いた。シン、貴方って一体何者なの? ま、そんなことはもうどうでも良いか」
女はスルスルと新の方へ歩を進めた。
ウェーブ掛かった艶のある髪は、光の加減では紫色にも見える。仄かな灯りでも肌が浅黒い事が分かるのは、彼女が纏う光のヴェールのお陰だろうか。引き締まった体であったが、これでもかと主張している暴力的な双丘と、ふくよかな腰が織りなす柔和な曲線が、そのモノの女としての魅力を醸し出していた。それが一糸まとわぬ姿で立っているのだが、それが気にならない程に新の目を惹いたのは、彼女の金色に輝く瞳だった。
「お前は……」
「……だれ?」
二人はこんな女とは出逢っていない。が、女は親しげに二人を見ると面白そうにコロコロと笑った。
「イヤねぇ、ホタルよ?」
「ほ?」
後で聞けば自分でも間の抜けた返答だと思うだろうが、新は今はそんなことはどうでも良かった。
「え? 嘘?」
「本当よ。シン、ありがとう。お陰で一気に復活出来たわ。それに、貴方に名前を貰った時、此処がとても温かくなった」
そう言って女、ホタルは自分の臍の下辺りに手を当てる。
「なんだか今は、封印される前以上に力が湧いてくるようだわ」
うっとりと、恍惚とした表情をホタルは浮かべる。
そして、徐にホタルは新を抱きしめた。
「あ、ちょ――」
得も言われぬ柔らかさを、新は自分の胸辺りに感じていた。それだけで、脳天に直接響くような快感が新の体を駆け巡る。
「ぅあ」
「私はもう、身も心も貴方の物よ、シン」
「はぇ?」
それでも、ホタルが語った言葉に、新は一気に現実に引き戻された。
「「はあああああああああ!?」」
新とアグナの絶叫が暗い廊下に響き渡った。