お月さまに化けた狸
むかしむかし、それは芝刈り機なんてない時代の話です。お婆さんが川で洗濯をしていると、上流から流されている狸を見つけました。どうやら溺れている様子、と判断したお婆さんは、長い木の棒を川に突き入れて救出しました。
「助けて下さり、ありがとうございます」
狸はお礼を言いました。なんと、この動物、日本語を喋れるのです。お婆さんは驚きもしないで、
「んんや。困っている者がいれば助けるのは当たり前のことじゃけえ」
と、にこりと笑いました。
「それじゃあ気がおさまらん。なにかできることがあれば、お申しください。おいらはあなたに恩を返したい」
狸は執拗になって、願い聞き出そうとしました。しかし、お婆さんは首を横に振るだけです。
「わしはなあ。もう余生を十二分に謳歌したんじゃ。これ以上の願いなどありはせんよ。それより早うお帰り。お爺さんに見つかる前に」
お爺さんに見つかっては不味いと聞いた狸は、しぶしぶと竹藪に入っていきました。
帰り際に狸は言いました。
「見返りを求めないで、誰かを優しくするなんてなあ、なかなかできるもんじゃない。その笑顔を見ればわかる。あんたは幸せになるべき人間、それはこの狸が保証するだ。余生なんてさみしいことを言わないで、いつの日か夜空を見上げてください。おいらは、あんたのために満月を見せる」
「最近、畑荒しが減ったんじゃが」
お爺さんはお椀を片手に持ちながら言いました。
また、軒下。秋の夜長にお月さまを見上げてお婆さんはつぶやきます。
「……不思議なことをあるもんじゃねえ」
「ああ、そうじゃとも。月が二つに増えるなんて、神様はなにを考えているんじゃろうか」
「でも、素敵だとは思わんかね爺さんや」
「月は二つもいらんわい」
「んんや。もしかすると、わしらを楽しませる為に月がひょっこりと顔をだしたのかもしれんと思うたらのう」
「はっはっは。そりゅあ世迷いごとじゃあ。月がわしらの為にだなんて、あっはっはっはっは婆さんや、面黒いことを言うようなったのう」
「いひひひ」
二人は盛大に笑いだしました。
この日から、満月が夜に顔を出し続けました。毎夜、空を見上げて、過ごしました。あくる日も、あくる日も、月に化けた狸。お婆さんは、そのことを知りません。というか、歳を重ねるごとに、だんだんと認知力が衰えてきて、狸を助けたことすら忘れました。
しかし、狸は、何年経っても忘れません。
たとえ、お婆さんが亡くなっても、それに気づかないで、彼は空に満月を掲げます。
何年経っても。
何年経っても。
それは、果たして、良いことなのでしょうか?