IV
IV/
視界が光で完全にホワイトアウトし、気がつくと暗闇の中にいた。
見渡す限りの果てしない闇。
虚無さえ感じる黒い世界。
「姫様!」
心配になって呼びかけると、
「シンク君、ここです!」
声が返ってくる。
振り返ると少し離れた位置、闇の中に彼女はいた。
「姫様……! よかった……」
不思議なことに二人の体だけは燐光を纏い、照らされていた。
シンクはふと違和感に気がつく。
「姫様、武器は?」
「……あ、本当ですね。……あら? 亜空間結界が発動しない……?」
慌てて手の甲に触れるが、そこに光が集まってくる気配はない。
「シンク、君……、これは……?」
「わかりません……。なにが起きたんだろう?」
シンクは首を振った。
まるで二人以外の景色だけが闇に呑み込まれたような……。
否、それはあながち間違っていないかもしれない。停電というにはあまりに深い黒が辺りを包んでいる。
目が慣れても周囲の景色は輪郭すら掴めない。
はっとして振り向く。だが、あの巨像の気配はまるで感じない。
――いない?
シンクが首を傾げる。と、不意にリコフォスが口を開いた。
「シンク君、足元……。私たち、浮かんでいませんか?」
「え?」
言われてみれば地面に着いている感触が失われている。
「……もしかして、私たちあの像に殺されて……?」
「いや、それにしても感覚がはっきりしてますし……」
試しに腕を抓ってみると痛みが返ってくる。
霊体の常識なんてものは知らないが、鼻腔から肺に入ってくる空気、僅かに感じる自身の鼓動がそうではないと教えてくれている。
「そういえば、腕輪――」
シンクは右腕を上げ、先程、突然光を放ったあの腕輪に視線を移す。
「!? ……これって……」
それはもはや原型を留めていなかった。
その腕にブレスレットはなく、代わりに鋭く煌く銀の腕鎧があった。
その板金は三つの部位に分かれ、上部に五角形を描くように丸い窪みが配置されている。
下部には中央の窪みと、そこから左右と真下に合計四つの窪みが。そして上部と下部を繋ぐ板金には中央にひとつ。全体を合計して十の窪みが存在し、そのひとつひとつを繋ぐように線が刻まれている。
触れてみればあの腕輪と同じ鼓動のような波動を感じる。
「腕鎧……?」
「みたいですね……」
リコフォスが泳ぐようにシンクの隣に寄り、じっくりと眺める。
「触ってもいいですか?」
「多分……危険はないと思います」
自分が散々撫で回して無事なのだ。他者が触れたら危険、なんてことはないだろう。……多分。
「失礼します」
「はい」
リコフォスの指先が恐る恐るといったようにガントレットの表面を撫でる。
「不思議な感じがしますね。少し熱があって、波動……? まるで生きているような……」
「ええ……」
リコフォスはふと、なにかに気付いて指を走らせるのをやめる。
「これって……」
「姫様? なにかわかりました?」
リコフォスは人差し指を曲げ、唇に当てるとしばらく考え、
「……生命樹? この窪みの配置と、それを繋ぐような線。それらが生命樹の伝承にある宝珠の挿絵と同じ、なのです」
「せいめいじゅ?」
リコフォスの指がゆっくりと動き始め、ガントレット上部の五つの窪みの内、中央の円に触れる。
「そして、これが私が継承しようとしている宝珠、ケテルの位置です」
「ケテル……」
シンクはふとどこかで聞いたことがあるような気がして顎を摘むと足元へ視線を落とす。
「はい。王たる純白のケテル。宝珠の中で最も強力とされているものです」
王……ケテル……宝珠……生命樹……。
すべての言葉を反芻して記憶の引き出しの中からあるものを引き出した。
「……そうだ、カバラの……」
キリスト教、旧約聖書。
詳しくはないが興味本位で少しだけ読んだことがあった。
その中で生命の樹という神話が登場したことを思い出した。
確かエデンの園に植えられた永遠の命を齎すといわれている実を成らせる樹がそれだ。
そして、その生命の樹を構成するのが十個のセフィラと呼ばれる円とそれらを結ぶ線、パス。
かつて見たその図式絵が確かにこの腕鎧の窪みと模様に酷似している気がした。
「きゅうやくせいしょ……?」
「あ、はい。興味程度にしか知らないんですが、宗教の……。経典っていうのかな。それに生命樹と宝珠の神話が載っているんです」
そう言うと、リコフォスは首を傾げる。
「セレスティア大遺書、ではないのですか?」
今度はシンクが首を傾げる番だ。
聞いたことがない。
「セレスティア……、なんです?」
「大遺書です。世界中で最も信者の多い宗教ですが……ご存知ではないのです?」
「あ、はい……聞いたことが……」
言うと、彼女は眉を顰める。
どうやらこの世界ではそのセレスティア大遺書、とやらを知っていることが常識のようだ。
しまったと思った。ここに来る前は散々気をつけていたのに。
「えっと……」
なんと言ったらよいのやら。
頭を掻いて思わず溜め息を漏らす。
「セレスティアは……」
リコフォスがなにかを言いかけたそのとき。
不意に腕鎧が柔らかな光を放ち始めた。
「シンク君……!」
リコフォスが不安げに声を上げ、シンクの腕を抱く。直後、シンクの右腕に纏うそれが煌々と輝いた。咄嗟にリコフォスの手を強く掴む。
「姫様、離れないでください!」
ドクンッ!
また、大きな波動が二人を貫く。
シンクの体が衝撃に揺れ、その腕にしがみつくリコフォスはぎゅっと固く目を閉じた。
劈くような耳鳴りに似た音が響き渡り、強烈な光が放たれる。
闇が光に満たされ、ホワイトアウトしていく。
「……ぐ―――ッ!?」
急激に重力に引き戻されるような感覚。
そこでシンクの意識が途切れた。
¶
《ダアトを継ぎし者よ。其の手に授けたるは神器・スティギア。其の力を以って白の継承者たる乙女と共に戦え》
脳内に透き通るような女性の声がしたような気がして、はっとする。
意識は鮮明で、今の状況を瞬時に明確に理解する。
眼前には巨像・ガーゴイル。とはいえ、その距離は先程の空間に飛ばされる前と変わっていない。
向かって右にはリコフォス。先程まで腕にしがみついていたはずだが、半歩離れた距離に立っている。
彼女もまた気を取り戻したらしく、周囲を素早く確認している。
「シンク君、今の……」
――白昼夢?
シンクは首を傾げる。こんな危機的状況で見るものなのだろうか?
「さあ……なんだったんでしょうか」
答えて、ふと右腕に重量感を感じて目を遣る。
「……な」
言葉を失った。
そこには先程の暗闇で見たものと同じ腕鎧があった。
仄かに光を湛え、生きているかのように一定の調子で波動を放つ。その波動はもう触れなくてもわかる。
今更気付いたが、その律動はシンクの鼓動と同じだった。
それを認識すると同時に体中になにかが流れ込んでくる。それは決して嫌なものではない。肌を抜け、血管を通して体中に満たされていく。
そのなにかが体を満たしていけばいくほど力が沸いてくるようだ。
――な、なんだ、この感じ……?
シンクは感じたことのない感覚に戸惑いながらも、それをどこか心地よく感じた。
「精霊子が……集まって……?」
ふと、リコフォスが呟く。
視線を移すと、彼女は惚けたようにこちらを見つめている。
その青い瞳には世界を構成するエネルギー体、精霊子が彼の中へ我先にと集結していくのが見えていた。
「シンク!」
と、不意にリコフォスのものではない声が聞こえてシンクは顔を上げた。
――いつの間に!
見上げた先にはあの巨体。
自らに起こる異変に戸惑っているあの僅かな間に、奴は間合いを急激に詰めていた。
反射的に数歩下がってリコフォスを突き飛ばす。
「っ! シン……!」
リコフォスは尻餅をつくが、すぐに立ち上がり、眼の前の光景に息を呑んだ。巨像の神殿の支柱のような腕は既に振り上げられており回避は困難だった。
リコフォスやガルディア、ヴァーテクスのようなこの世界の住人で戦闘訓練を受けている者となれば別だが、シンクの運動神経では至難の業だった。
シンクは衝撃を覚悟した。
《戦え》
「っ!」
またあの声だ。
今度ははっきり聞こえた。……聞いた。
《恐れるな。汝が持つ神器、そして自らの力を信じよ》
脳裏に直接、意識を取り戻す寸前に聞いたあの声が響く。
――神器? これのことか?
シンクは咄嗟に腕鎧を嵌めた右腕を曲げ、内側を左手で支えるとぐっと腰を落として防御体制を取った。
「頼む!」
「シンク君!」
リコフォスが悲鳴を上げ、庇おうと駆け出そうとする。
が、未だ破片の残った膝に激痛が走り、膝からバランスを崩して前のめりに転倒した。
「っ、あ……シン――」
直後、顔を上げたリコフォスのその目の前で。
豪快な風切りの音と共に鉄槌が振り下ろされる。
地響きを伴って砂煙が舞い、試練の間全体が白く濁った。
「……っ、シン、ク……君」
搾り出すように、泣き出しそうな声でリコフォスは彼の名前を紡ぐ。
苦痛に顔を歪めながら、腕に力を込めて必死に身を起こすと砂煙の先へ目を凝らした。
目に砂が入り、チクチクと痛んだがすでに片目を閉じている。
もう一方を閉じるわけにはいかなかった。
なによりも彼の安否を確認するまでは決して。
「シン、ク、君……!」
もう一度、名前を呼ぶ。
不安で、不安で。胸が潰れてしまいそうだ。
ふらつきながら立ち上がる。砂煙の向こうには巨像の影が見えている。だが、肝心なのはその腕の下。
疼く足を引き摺って、痛む体を叱咤して。少しでもシンクに近づこうとリコフォスは前へ進んだ。
――どうか、逃げていて……!
彼女の思いが届いたのか否かはわからない。
「ダイ……ジョウブ……!」
遅れて、彼の返事が聞こえた。
その声にリコフォスの表情が晴れる。
それと同時に砂の幕が凪ぎ、霞んだ景色に色が戻り始めた。
巨像の腕は確かに振り下ろされていて、その下に信じられないことにシンクが“立って”いた。
回避に失敗したのだろうか?
否。彼は避けることをやめたのだ。諦めたのではなく、真っ向からその衝撃に立ち向かうことを決めて。
右腕の腕鎧ひとつでその巨大な石柱を防いでいた。巨像の腕は腕鎧の上から少しだって動かない。
――どうなっているのだろう?
リコフォスだけでなく経過を通路の外から見守っていた誰もが同じことを思った。
「は……はは、さ、流石に重い……けど、防ぎきった……!」
言って、シンクは支えていた左手に力を込めた。
すると、信じられないことに巨像の腕がゆっくりと持ち上がった。
声を上げ、ぐっと後ろ足に力を込める。押し出すように右腕を振り上げる。
巨像の腕が弾かれたように勢いよく吹き飛び、それに引かれて巨体も遥か後方へ弾き飛ばされる。
ガーゴイルは速やかに背中に向かって腕を回転させ、地鳴りを響かせて、瓦礫を散らしながら腕を背後の地面に突き立てた。
地面に突き刺さった腕はガリガリと線を刻みながら勢いを殺す。
やがて十メートルほど先で停止するが、慣性には勝てなかったようだ。
突き立てた腕が抜け、小さすぎる踵が捲れた地面に引っかかり、地鳴りを上げてひっくり返る。
発生した風に砂煙が掻き消され、景色が鮮明になる。
その光景を見ていた誰もが絶句した。
――そんな馬鹿な!
「押し返せた……これなら、いける! 姫様!」
拳を握り、シンクは嬉々として振り返る。
だが、その瞳に映った少女は両手で口許を押さえ、こちらをぼうっと見つめていた。
シンクは小首を傾げ、リコフォスの傍に歩み寄る。
「姫様?」
どうやらその顔はガーゴイルの攻撃を跳ね返した、という事実とはまた別のところに向けられているようだった。
「シ、シンク……君、ですよね?」
――?
リコフォスは怯えるようにたじろぐ。
リコフォスの確認の意図がわからず、もう一度首を傾げ、答える。
「そうですけど……?」
「……あ、あの……」
徐に彼女は盾を構え、鏡のように磨き上げられた鉄部をこちらに向けてくる。
シンクは鏡面に映った自身と自然と見つめあう形になった。
それから、二秒後。硬直。
「え、あ、え……?」
そこに映っていたのは腰まで伸びた長い黒髪の少女だった。
長髪であることを除けばシンクによく似た髪型。
しかし、他はまるでシンクとはかけ離れた様相だった。
身長は彼よりやや細身で小柄。ズボンはボックススカートに変形している。
なにより彼が驚いたのは自身のシルエットの変化だった。
仄かに脂肪がつき、丸みを帯びた全身。緩やかに傾斜のついた華奢な肩。
――膨らんだ胸……。
それは完全に女性のものだった。
「―――うえええええええッ!?」
思わず絶叫する。その声は高く、どう足掻いてもソプラノ。
なにが起きたのかまったく理解できない。
なんの気もなしに視線を落とすと腕鎧の色が変化していることに気付いた。
純白。曇りのない白だ。鉄らしい鈍い光はなく、どこまでも白い。
「……ああ、もう……考えが追いつかない……!」
がしがしと頭を掻く
「あ、駄目ですよシンク君! 髪が傷んでしまいます」
「え、えー……」
そんなことを言われても、と肩を竦める。
そんなやりとりをしているとまた地鳴りが聞こえてくる。見れば巨像が体勢を整えて終えていた。巨体に似合わない小さな頭部がこちらへ向けられ、その奥から光る単眼がこちらを捉える。
そして、両腕を大きく前方へ回転させ、地面に突き立てるとその勢いで跳躍する――!
先程一瞬で間合いを詰められたときは突然の事でわからなかったが、あの巨体で詰められたのにはこういう原理があったらしい。
大砲のように撃ち出された巨体の着地点にはシンク。リコフォスが声を上げる。
シンクはじっとその巨体を睨む。
巨体が向かってくる速度は速く、数秒立たず彼との距離を縮めていく。
「なにがなんだか混乱しっぱなしだけど……!」
シンクは左腕を前へ突き出し狙いを定め、右腕を背中へ引き絞る。丁度弓を引くような体勢だ。それから膝を軽く折り、深く腰を落とす。
「シンク君!」
リコフォスが名前を呼ぶ。
――大丈夫。
シンクは胸の中で彼女に返す。
ガントレットが光り、リコフォスや司祭たちが呪文を唱えたときと同じように光の糸が集う。
糸は腕鎧の周囲を高速回転し、蒼い光の竜巻を生む。
ガーゴイルとシンクの間合いが一メートルを切るのと同時にシンクは跳躍し、すぐに体を右に大きく捻りそのまま回転する。
巨像が回転するシンクの真下に入ったその刹那、回転の勢いを乗せ、閃光を纏う右手の裏拳を弾き出す!
「せやっ……!」
拳が巨像を捉える。
ガコンッという鈍い音が響いたかと思うと、轟音。閃光が花火のように散り、同時に砂埃が舞い上がった。巨像が軽々と地面に沈む。その最中、不思議と重みを感じなかった。
怪力――。
今の自分は変身前とは比べられないほどの能力が備わっているらしい。体中に力が溢れているのがわかる。
ガーゴイルは即座に腕を立て起き上がった。
シンクは空中からそのまま巨像の胸目掛け落下すると蹴りつけた。その勢いを利用して軽やかに宙返りし、ガーゴイルの一歩手前へ着地。右腕を背中側に大きく引く。
するとガーゴイルは攻撃を成立させる前に――それほどの知能があるのかは不明だが――叩き潰そうと腕を振り下ろす。
「させません!」
リコフォスが痛む膝を歯を食いしばって耐え、シンクの傍らからから前へ踊り出る。
両手で鎚矛を絞るように握って体を回転させる。と同時にシンクの腕から散った蒼光の一部がリコフォスの腕に向かって飛び、宿った。
ガーゴイルの腕がシンクに到達する寸前に、回転の勢いを乗せた鎚矛の一撃がその腕を真上へ高々と打ち上げる。
リコフォスはそのまま振り払った鎚矛に引き寄せられるようにしてバランスを崩して膝を着いた。
「……っ、シンク君!」
「ありがとう、姫様!」
お互いに視線だけ向けて、頷く。
経過を見守っていたヴァーテクスが引きつった笑みを浮かべる。
「……衛士長」
「……ああ、妙だな。姫様のどこにあんな力が……?」
ガルディアも訝しむような表情を浮かべて言った。
ガーゴイルの腕は天井を指したまま前後どちらにも倒れずに停止した。その巨体を支えるためにどちらかの腕が地面に触れていなければならないのだろう。そこで像の動きも停止した。
「吹っ飛べ!」
シンクは大きく足を踏み出す。体をしならせ、再度右腕を突き出す。その腕には未だに光が灯っている。
ガリガリガリリリリリリリッ!
巨像と拳の間でドリルを当てられた金属から発せられる掘削音のような音が高らかに鳴り、四方に火花が弾けた。
否、それは火花ではなく腕鎧に纏わる蒼光だ。
散った光は再度拳の先へと集い、徐々に大きく膨れ上がる。
シンクはガーゴイルを睨みつけ拳を深く、深く突き入れるように押し出していく。
「ひとつだけ、わかった……! この体になっているとき、ガントレットが光っているときなら――」
膨れ上がった光は無限に蓄積されていくが、一定以上留まることはできないようだった。空間がエネルギーの許容量の限界を伝えるように悲鳴を上げ始める。
「俺でも、戦える……ッ!!」
彼の声に呼応するように光がとうとう爆風を伴って炸裂する。
その衝撃にガーゴイルの鎧が砕け散った。風に巻かれて破片が神殿の柱や天井に突き刺さる。
「すごい……!」
リコフォスは思わず呟いた。天井から降りかかってくる瓦礫を盾で躱すと立ち上がる。
二人の目に巨大な穴が開いたガーゴイルの胸の奥で結晶のようなものが映る。あとはどこまでも空洞だ。
なぜだろう? 結晶の中になにか力を感じた。
そこがガーゴイルの弱点に違いない。根拠はないが、そんな気がした。
そこへ追撃を仕掛けようと構えたが、爆発の勢いでガーゴイルは吹き飛んでしまっている。
――もう、一回!
シンクは両膝を曲げ、勢いよく伸ばし跳躍する。
超高速で舞い上がった体は頭に思い描いた通りの軌跡を描き、吹き飛ぶ巨像の上空に速やかに追いついた。
流石にリコフォスにはその芸当を真似することはできない。託して見届けるしかなかった。
と、そこでリコフォスは気付いた。
シンクの右腕が引かれ、再び光が集束する。
ガーゴイルの単眼が、生物の瞳孔が縮むのと同じように小さくなる。それはまるで怯えているようにも見えて――
「天使よ、彼の者に襲い来る火を退けて!」
唐突にリコフォスの詠が響く。詠に応え、速やかに光の糸が彼女の元へ集っていく。
――魔法?
このタイミングでなにを引き起こすつもりなのだろう?
不思議に思った……直後、ガーゴイルの単眼が閃いた。
高速で単眼が紅い光を引き寄せ熱を帯びていく。怯えているように感じたのは完全な思い違いだ。
――な、こっちも魔法!?
シンクの目が見開かれる。その瞳の奥に映るのは集く紅い光。
それは熱線となり空中で無防備のシンクの体目掛けて放たれる!
油断して防御を忘れている、とはいえ今の身体能力なら……。
思わず防御体勢を取りそうになる、その寸前。
「シンク君、そのまま!」
リコフォスの声が聞こえた。
シンクは彼女を信じ、腕を引き続ける。
「聖域、【加護の神砦】っ!」
彼女の声が響く。リコフォスの背に天使の翼のようなものが顕れ、次いで光の糸が速やかにシンクの全身を包み込んだ。
直後、ガーゴイルから放たれた熱線が襲い掛かる。
しかし、彼の身を灼くはずの熱線はコココが魔法で風から身を守ったときのそれと同じように裂け、シンクの身を避けて通り抜けていく。
引力に引かれてシンクの体がガーゴイルへと落ち、砕いた鎧の穴を跨ぐように着地した。
眼下には穴。その奥には核だと思われる結晶。
「今です!」
「んっ!」
彼女の声を受け拳を固く握り、片膝を折ると思い切り結晶へ向かって突き入れる!
ガチンッ!
鉱石や宝石らしい固い手応え。着弾と共に光が炸裂する。
殴りつけた衝撃に加え爆発の衝撃。結晶に大きく皹が入る!
――これで……!
勢いが消え、浮力を失ったガーゴイルが地面に墜落する。
衝撃でガーゴイルから足が離れ、慣性に従って投げ出される。
「ぐ……ぅ……っ」
受身を取ることもできず両腕で頭を抱え、そのままの格好で地面に落下し瓦礫だらけの地面を転がる。
「い……っつ……」
体中擦り傷だらけになりながらなんとか体を起こして振り返る。
横たわる巨像の中心から光の糸が放出され天井へ昇っていくのが見えた。動き出す気配もない。
……終わった。
緊張感が抜け、シンクは体を起こすと腰を地面に着けたまま、光の消えていく先を仰いだ。
¶
傷ついた体を抱えるようにして深くため息を吐く。
全身が軋むように痛む。
――さすがに無理し過ぎたか。
いくら夢の中とはいえ、こんなに体を動かしたのも、動かそうと思ったのも初めてだった。
味わったことの無い疲労感に場違いに眠気すら感じる。
「シンク君!」
その声の主へ視線を移す。
リコフォスが足を引きずりながらこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。肩でゆっくりと呼吸をしている。体中に珠のような汗を浮かべた彼女は張り付いた前髪を払った。
「姫様!」
リコフォスが傍らに座り込む。
シンクは崩れそうなリコフォスの肩を抱いて支えた。
「……無事、ですか?」
「はい、シンク君が助けてくれたから……。今傷を治しますね」
言って、彼女はシンクへ手を伸ばす。
「う、うん?」
シンクは首を傾げ、リコフォスの行動を見つめていた。
「癒しの輝き、聖なる歌よ。勇ある者に祝福を……」
シンクの傷口の上へ翳された手。
その手の平に暖かな蛍火が集う。その光はシンクの傷を撫でるように動くと傷口に吸い込まれていった。
「――【天使の歌声】」
まただ。彼女が詠唱を完結させるとその背に光の翼が顕れ、すぐに消えた。
体の内へ吸い込まれた光がリコフォスの声に応えるように淡く輝いた。やがて光が霧散すると傷が跡形もなく消えていた。痛みもない。
「ありがとう、姫様」
「いえ、こんなこと恩返しにもなりません」
リコフォスはにっこりと笑った
「けど、それができるなら姫様の傷もそれで治したらよかったのに?」
当然生まれる問いにリコフォスは小さく頭を振って答える。
「自分にはかけられない癒術なので……」
手段があるにも関わらず使わなかったのではなく、使えなかったというのなら納得がいく。
「癒術?」
新たに生まれた疑問を口にしてすぐに口を閉じる。
すっかり忘れていたが恐らくこの世界では常識なのだ。
しかし、彼女は何も言わずに教えてくれる。
「治癒魔法のことです」
「なるほど」
シンクは頷くと、ふと彼女の膝に目がいく。相変わらずじんわりと血が滲んでおりスカートの裾を染めている。
眉を顰めるとそっとリコフォスの膝に触れる。
「し、シンク君……あの」
彼の手が触れたこそばゆさに思わず頬を染めて、制止しようと手を伸ばそうとして。
「痛まない……わけないか。まだ血が出てますね」
「あ……」
シンクの横顔を見て、止まる。
目を細め、傷を診る彼――彼女――の目は真剣だった。
「止血しないと……ちょっと押さえます」
「は、はい」
――確か血を止めるときは傷口から少し離れた場所……心臓側を強く圧迫して……。脈が止まったときを見計らって離せばいいんだっけ?
膝に触れた手にぐっと力を込める。
「……いたっ」
「ああ、ごめん!」
「あ、いえ……こちらこそ」
シンクは傷口に、リコフォスはシンクの手の先にそれぞれ視線を戻す。
リコフォスは彼の処置に身を委ねることに決めて力を抜いた。
そのときだった。
「え……?」
「な……?」
二人の視線が一点に集まる。
腕鎧が暖かな蛍火を生み出していた。
その蛍火はリコフォスの傷を撫でるように動き……。
――これは……そんなはず……。けれど……。
リコフォスはしばらく思案顔で俯き、やがて腕鎧に触れると言う。
「シンク君、私のあとに続いて、詠ってくれますか?」
「え……? あ、はい」
突然の申し出にシンクは逡巡したが、おずおず頷くとリコフォスは頷き返して、やがてゆっくりと詠いはじめた。
「癒しの輝き、聖なる歌よ」
「い、いやしのかがやき……せいなるうた、よ」
確かめるように、なぞる様に彼女の詠を、彼女と共に詠う。
「勇ある者に祝福を……」
「勇ある者に、祝福を……」
二人の詠に呼応しガントレットの輝きが強まっていく。
シンクは先ほどリコフォスが施してくれた魔法を思い出す。確か魔法の名前は……。
『【光臨の讃歌】――』
重なる声。
術が発動し光がリコフォスを、そしてシンクをも包む。二人の目が大きく見開かれた。
身体の内側から働きかけ、細胞を活性化させることで傷を癒す癒術・【エンジェシング】。
その効力はリコフォスの言った通り、あくまで他人を対象にしたときに限り発動し、治る範囲にも限りがある。
だが、腕鎧から放たれた光は細胞を活性化させるだけに留まらなかった。
募った光そのものが彼女に溶け込み、失われた身体組織の一部に変換されている。
その上、シンクの体に残った僅かな傷をも癒していく。
「これは……」
呆然と呟く。その横でリコフォスも戸惑っているような表情を浮かべている。
光が収まると今までの疲労や痛みが嘘のように失せ、癒えていた。
――自身にかけられないはずの癒術が、どうして?
目を細め経過を見守っていたリコフォスのその問いに答える声があった。
《それはケテルの力。そして神器の力》
二人の脳裏に声が響く。
「この声……」
――そうだ。あのときに聞いた声と同じ……。
シンクは確かめるようにガントレットに触れる。
すると、ガントレットからまた大きな波動が放たれた。
今度はあの強烈な光はなかったが、強い衝撃を全身に浴びて二人の意識はまたホワイトアウトした。