カノジョノオト
早乙女さんを連れて、僕は校内を歩き回った。
余り近寄りたくない職員室や、薬品の臭いがする理科室。
女の子なら縁が深そうな保健室に、凛とした空気を漂わせる図書室。
今後必要そうな場所は、大体案内した。
当たり前だけど、早乙女さんは必ず僕の後に付いてくる。
僕が渡したノートを、大事そうに抱えて。
その様子は、親鳥の後を追う雛の様で、見ていて愛らしかった。
誰かとすれ違うたびに身体を強張らせるのだから、尚更だ。
横に並んで歩きたいという願望も、あるにはあるけれど。
こうして、残すは音楽室のみとなった。
今なら恐らく、僕のクラスの担任の先生が居るだろう。
先生は、朝のホームルームで、喋れない早乙女さんをフォローしてくれていた。
今の早乙女さんならノートがあるし、お礼を『言う』為にも行くべきだろう。
早乙女さんも頷いたので、僕達は音楽室のドアを開けた。
「失礼します」
僕はそう言って、早乙女さんは頭を下げて室内に入る。
ノートに『失礼します』と書いている早乙女さんに、僕はどう反応したら良いのだろうか。
音楽室の定番である黒くて大きなピアノの傍に、先生は居た。
「おう、わざわざ悪いな」
先生が、僕への軽い労いの言葉で迎えてくれる。
先生は、男性では少し珍しい音楽の担当だ。
鯖をよみ続けて久しいので諸説あるけど、歳は二十代後半の筈。
割と若くて気さくなので、この学校の兄貴的存在になっている。
現在は、新任のイケメン体育教師に、勝手に対抗心を燃やしているらしい。
「早乙女さんが、先生にお礼を言いたいそうなので」
「お礼? 早乙女が?」
驚いた面持ちで繰り返す先生。
僕達の放課後のやり取りを知らないのだから、無理も無いだろう。
そんな先生に、早乙女さんはノートを見せた。
『朝は迷惑をおかけしました』
「パンダかお前は……って、お前らの世代じゃ解らんか」
思わぬ変化球だったからか、先生は、リアクションに困っている様だった。
確かに、こんな方法で話されるのは、どうしても戸惑ってしまうだろう。
先生の反応が思わしくない所為か、早乙女さんは不安げな表情で次の文を見せた。
『これじゃダメですか?』
「ま、まあ、よく考えたとは思うが……何か歯痒いんだよな。
取り合えず、お前の苗字でそれをされると、お湯を掛けたくてしょうがない」
早乙女さんの視線に気まずくなったのか、先生はやや遠慮がちに言う。
早乙女さんは小さく溜息を吐き、残念そうに俯いた。
考えた自分が言うのも何だけど、流石にこの方法を誰にでも使う訳にはいかないだろう。
何も知らない人なら、先生の様な反応を示すのが普通だ。
「それに、お前はこっちの方が良いんだろ?」
そう言うと、先生はピアノの蓋を開いた。
これから、演奏するとでもいうのだろうか。
そんな事されても、歌う人なんて……。
僕がそんな事を考えている横で、早乙女さんが慌てふためいていた。
何も喋らないから判り難いけど、少なくとも冷静ではない。
早乙女さんは、慌ててノートに字を書き始める。
「そりゃあお前、教師が生徒の事知らなくてどうするんだよ」
『どうして知』まで早乙女さんが書いたところで、先生は早くも答えた。
コミュニケーションの速度が追い付かず、早乙女さんはどうすることも出来ない。
「ま、世話になった礼だと思って、鳴瀬くらいには教えてやれよ。
お前だって、ちゃんと光り輝くものを持ってるって事を、な」
椅子に座り、指を鳴らしながら先生は言った。
早乙女さんの返事を待たず、先生は演奏を始める。
品が良く、それでいて重厚な音が奏でるのは、聞き覚えのあるクラシック。
この手の音楽に聡くない僕でも知っているけど、タイトルまでは思い出せない。
「早乙女さんはこの曲……!?」
早乙女さんに尋ねようとして、僕は固まった。
さっきまではあたふたしていた早乙女さんが、信じられないくらいに穏やか表情になっていたのだ。
音楽で心が落ち着いたとか、そんな次元の話ではなかった。
穏やかな中にも、どこか張り詰めた面持ちがあり、声を掛けるのも躊躇われる。
まるで、これから舞台にでも上がるかの様な……。
ここで、僕は一つの可能性に思い当たる。
話すことさえままならない早乙女さんに限って、とても信じられないけど……。
早乙女さんは胸に手を当て、呼吸を整えた。
背筋はピンと伸び、胸ではなくお腹で呼吸しているのが見ていて判る。
前奏が終わり、そして――。
演奏が終わっても、僕は声さえ出せずにいた。
恐らく、もう二度と忘れる事はないだろう。
早乙女さんの声を初めて聞けた事も、それが歌声だった事も。
湧水の様に清らかで、青空の様に伸びやかで、虹の様に色鮮やかな声。
それが先生のピアノと相俟って、無限とも思える程の音を奏でていた。
外国語だから歌詞の意味は解らないけど、歌い手の想いは、それを補って余りあるものだ。
目の前で起きた事だというのに、にわかには信じる事が出来ない。
話す事さえ出来なかった早乙女さんが、こんなにも歌が上手かっただなんて。
窓から注ぐ柔らかな斜陽が、余韻に浸る早乙女さんを優しい色に染め上げる。
スポットライトよりも、こっちの方が彼女らしいかも知れない。
「…………!?」
我に返ったのか、黄昏色の歌姫は、唐突に『早乙女さん』に戻った。
夕景よりも頬を赤く染め、長い髪を身体に巻きつける様にして顔を隠してしまう。
更に教室の隅に逃げてしまうのだから、よほど恥ずかしいのだろう。
でも、僕は確かに見てしまった。
早乙女さんの、固く閉ざした口の向こうにあるものを。
「どうだ? 結構驚いたろ?」
まるで自分の事の様に、先生は少し自慢げに言った。
結構、なんて言葉では済まない位に驚いていたけど、僕は頷く。
それにしても、先生はどうしてこの事を知っていたのだろうか。
先生といえども、早乙女さんが口を開くとは思えないのだけど。
「今日初めて会うって訳じゃないからな。担任として、親とも話し合う場があったし」
考えでも読まれているのか、僕が訊くよりも早く先生は答えた。
流石に、親までもがだんまりという訳ではないらしい。
ピアノの蓋を閉じ、そのままピアノに寄りかかって、先生は続ける。
「早乙女の両親は、夫婦揃って劇団員やっててな。
それ程大規模な劇団じゃないが、その手の連中の間ではそこそこ有名らしい。
うちに転校してきたのも、劇の公演の為なんだとさ」
「それが、歌が上手い事と関係あるんですか?」
「劇の公演ってのは、芝居とショーに分かれてるからな。
才能が全てとは言わないが、蛙の子は蛙って事だろ。
歌の腕前は劇団でも高く買われていて、舞台で歌う事もあるらしいぜ」
「さ、早乙女さんがですか!?」
先生の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
劇団員の娘なら、別に珍しい事でもないのかも知れない。
早乙女さんの歌唱力なら、お金を取っても文句は来ないだろう。
でも、早乙女さんが、観客の前で歌を歌うなんて、僕には想像出来なかった。
「ま、普通は驚くだろうな。俺もそうだった。
けど、面白い事に、歌う時だけはちゃんと声が出るんだと。
それ以外じゃ、親でさえ滅多に喋れないらしいから、筋金入りのだんまりだな」
「親でさえ……ですか」
どうやら、一筋縄でどうにかなる問題ではないらしい。
僕としては、歌う時以外の早乙女さんの声も聞いてみたい。
彼女の生の声を、彼女自身から聞かせて欲しい。
しかし、親相手でさえ口数が少ないのでは、それも絶望的だ。
身内でも何でもない僕なんて、一言も話して貰えないだろう。
「どうして、歌以外では声を出そうとしないんですか?」
「そればっかりは、本人に訊かないと意味が無いんじゃないか」
そう言って、先生は早乙女さんに視線をやる。
一応は落ち着いたらしく、髪の毛に半分身を隠しながら、早乙女さんは僕達の方を見ていた。
先生が手招きすると、恐る恐る僕達の方に戻ってくる。
こうして、僕は二度目の機会を与えられた。
早乙女さんに、僕が一番知りたい疑問をぶつける機会が。
「どうして、早乙女さんは誰とも話そうとしないのかな?」
教室の時と同じ事を、僕は早乙女さんに尋ねた。
少しは打ち解けた後だし、今ならノートに書くという手段もある。
一度目よりも、答えが返ってくる可能性は大きい筈だ。
「…………」
そんな僕の予想に反して、早乙女さんは何も答えてくれなかった。
口はもちろん、ノートを書く手すら動かさないのだから、彼女の意思が伺える。
ここまで頑なに話さない理由は、一体何なのだろうか。
それさえも、話して貰わなければ解らないのだから、滑稽としか言いようがない。
「女心に踏み込むには、鳴瀬はまだ若かった、てところか」
「先生、茶化さないで下さい」
先生だけは、何故かやたらと楽しそうだった。
大人の立場から、どうでもいい事で悶々とする子供を眺めるのが、そんなに面白いのだろうか。
睨む僕を意に介さず、先生は早乙女さんに言う。
「これは俺の予想だが……早乙女、お前は、人と話す事が怖いんだろ?」
「…………」
先生の問いに、早乙女さんは俯いて視線をそらした。
少なくとも、外れている訳ではないらしい。
「俺も似た様な経験をした事があるからな。その気持ちはよく解る。
俺は今でこそこんなんだが、教師なら初めて教壇に立つ瞬間ってのが必ずある。
あの時は緊張しまくってよ……第一声から声が裏返ったくらいだ。
何つーか、視線が痛いんだよな。生徒が俺の言葉を待ってると思うと、迂闊な事言えねーし。
言葉を選び過ぎて、結局何も言えねえ……お前もそんな感じなんだろ?」
「…………」
暫く沈黙した後、早乙女さんは小さく頷いた。
先生は、生徒の立場で物を考えてくれる事で定評がある。
本来は禁止されている、学校行事の後の打ち上げも黙認してくれる。
多感な生徒の為に、学校の裏に『使用済み』の淫猥な雑誌を捨てている事も知っている。
でも、何も喋らない生徒の事を、ここまで見抜けるなんて。
年の功は偉大だな、と僕は改めて思う。
「馬鹿野郎、若いから若いヤツの事が解るんだ。年寄り扱いすんな」
解り過ぎるのも考え物だけど。
「何で歌は普通に歌えるのかとか、文で書く事は出来るのかとかは解らねえ。
俺と全く同じ理由で、ここまで人と喋れなくなる事もないだろうしな。
ただ、俺の場合は、とにかく場慣れで克服した。
失敗したり恥をかいたりするのは、決して遠回りじゃねえんだ。
そういう事を怖がっていると、いつまでも前に進めねえ。
つまり、早乙女に足りないのは……恥を晒す勇気だ」
「…………!」
早乙女さんのノートを抱く腕に、力がこもる。
先生の言葉に、少なからず反応しているのだろう。
確かに、人と話す勇気が無いという事は、恥を晒す勇気が無いという事だと思う。
恥ずかしいという思いに負けて声が出せないのなら、勝つ為の勇気を養わなければ。
「俺はお前の担任だ。だから、教えられる限りの事は教えてやりてえ。
担当の科目は勿論だが、人として知っておくべき事も、な。
もし、お前が今の自分を変えたいなら、俺が手伝ってやるが……どうする?」
「…………」
先生に問われ、早乙女さんは黙ったままだった。
少しの間、音楽室が水を打ったように静まり返る。
不意を衝く様に校内放送が流れるけど、僕達には関係の無い内容だった。
それが終わって数秒後、早乙女さんが躊躇いがちながらもノートに字を書き始めた。
恐らく、先生への返答を書いているのだろう。
早乙女さんは、喋りたいと思ってくれるだろうか。
僕の気持ちが、一方通行にならずに済むだろうか。
そんな思いで一杯になっている最中に、早乙女さんが、ノートを僕達に向けた。
『よろしくお願いします』
そう書かれているのを見て、僕は胸の奥で歓声を上げる。
早乙女さんが変わりたいと願っているのなら、僕は何でもするつもりだ。
だから、僕は、早乙女さんと普通に喋ってみたい。
恋人……とまではいかなくても、せめて友達として。
あの綺麗な声を、歌う時にしか聞けないのは、余りにも勿体無いから。
早乙女さんの事なら、何でも知りたいと思うから。
「よし。ならまずは、恥をかく練習だな。
恥ずかしい思いをして打たれ強い心を持てば、喋れる様になるだろ。
つー事で、お前にして貰う恥ずかしい事は、そうだな……」
少し考えた後、先生は僕に向けて指を指した。
早乙女さんの視線も、自然と僕に向けられる。
突然の事に驚く僕に、先生は言った。
「今度、こいつとデートしてこい」