ペットなわたしとご主人様
わたしは、愛玩動物である。
好きな時に寝て、好きな時に起きて、思うままにごろごろして、なきたい時にないて、気が向かなければそっぽを向いたりもしつつ、ご主人様に可愛がられる。そういう愛玩動物としての役割を求められているようなので、そういうふうに振る舞うことにしている。
「おいで」
ご主人様が手招きするのに、今日は応える気分だったので寄っていく。ご主人様はわたしの頭がお気に入りなのでよく撫でてくるのだけど、今回も例に漏れず、まるで毛並みを堪能するような手つきで撫でられた。ちょっとむずがゆい。
「随分と毛艶がよくなったものだな。拾ったときのおまえは、それはもう見られたものじゃなかったが」
しみじみと呟かれた。何度も聞いた台詞なので、反応はせずに撫でられるに任せる。「そう言うご主人様は随分と撫でるのがお上手になりましたね」なんて思うけれど、伝える術はない。
初めの頃は力加減がわからずに、『撫でる』というより『触れる』だったり、脳を破壊したいのかというくらい激しかったりしたご主人様だけど、今はもうそんなことはない。絶妙の力加減である。
「おまえは本当に警戒心が無いな。そんなふうで、よく生きていけたな」
心外である。ご主人様がわたしに危害を加えないとわかっているからこうして気を抜いているのであって、それなりに警戒心は持ち合わせている……はずだ。ここしばらく警戒心の出番がないので、ちょっと自信はない。
「いや、生きていけてはいなかったな。何せ、死に掛けていたものな」
結局、ご主人様はひとりで勝手に納得してしまった。わたしとしてはいろいろと言い分があったものの、やっぱり伝える術はないので流すことにする。
せめてもの抗議として、不満を込めた目で見つめてみたものの、体格差からしてただの上目遣いにしかならないのが悔しい。伝わっている気がしない。ご主人様、撫でるのやめないし。
ご主人様はわたしのことを『おまえ』とだけ呼ぶ。一応わたしにも名前はあるけれど、ご主人様は知らない。住処となっているこの場所にご主人様以外が来ることはなく、『おまえ』とだけ呼びかけるのでもなんとかなってしまうので、名前を付けられることもないままだ。
……さすがに、『おまえ』がご主人様のつけた名前だということはないと思いたい。
ちなみに、わたしの方もご主人様の名前を知らない。呼びかけることがないので知らなくても問題はないものの、お世話になっている身なわけなので、知りたい気持ちが無いわけではない。しかしご主人様が唐突に自己紹介を始めない限りそれは望めないだろう。そして、ご主人様がそんな酔狂極まりないことをするとは思えないので、つまりわたしにご主人様の名前を知ることはできないのだった。
未だに撫でるのをやめないご主人様は、わたしの頭のてっぺんから足のつま先まで眺めやって、ふむ、と一つ頷いた。
「本当に、よくぞ蘇ったものだな。あんなに簡単に死に掛ける脆弱な生き物だというのに、しぶといものだ」
散々な言われようである。とりあえず、まるで死んでいたかのような言い方は止めてもらいたい。それだけ酷い状態だったということなのだろうけれど。
ご主人様は、よくわたしを拾ったときのことを引き合いに出すけれど、それはわたしの記憶にはなかったりする。ご主人様曰く、「黒い襤褸雑巾が落ちているかと思ったら生き物で、まだ息があったから興味本位で拾った」のが出会いなのだそうだ。
ちなみにわたしにとってのご主人様との出会いは、空腹とか疲労とか恐らく熱とかで朦朧としていたときに、大層顔の整った御仁が真顔で自分を観察しているのを知覚した瞬間だと思われる。ご主人様は迫力のある美形というか、造形は整っているけれど酷薄な印象を与える顔をしているので、悪夢の一種かと思ったのは秘密だ。
わたしから見ると麗しい容貌をしていると言えるご主人様だが、種族的にはどうなのかはよくわからない。でも、ご主人様の言動を見る限り、美醜の感覚はわたしとそう変わらないように感じるので、多分他から見ても美形なのだと思う。実際どうであっても、わたしにとっては目の保養なので大変ありがたい。
対してご主人様から見たわたしはというと、残念ながら『美しい自慢のペット』とはならない。そもそも始まりからして襤褸雑巾なので、多分そういう方面は端から期待されていない気はする。可愛いだとか綺麗だとかは言われないものの、一応愛着らしきものは持ってもらっているようなのでそれで十分である。
「そういえば、少し身の回りが騒がしくなってきた。面白いことになりそうだ」
珍しい。ご主人様がご機嫌だ。いつも退屈している様子だから、よっぽど面白いことが起こったのだろうか。ここから外を知らないわたしには知る術は無いし、別に知ろうとも思わないけれど。
*
好きなときに寝て好きなときに起きる。こんな自堕落な生活をしていたらいけないなぁとは思うのだけど、勤勉な性質というわけでもなく、だらけられるならだらけたい派なので、ついついそんな生活を続けてしまっている。
ちなみにご主人様は、わたしの生活サイクルなんてどうでもいいらしく、口出しはしてこない。わたしが寝てようが寝ていまいが来たいときに来て気がすんだら去っていく。一応この部屋はわたし専用のものらしいけれど、建物自体はご主人様のものだから、わたしにご主人様を締め出すことなんてできないのである。
一応一端の乙女として思うところはあるけれど、ご主人様にとってわたしは愛玩動物なので気にするだけ無駄だと、あるとき悟った。諦めたともいう。
「おまえのお仲間が近くに来たようだぞ」
今日もご機嫌なご主人様の言葉に、ぱちりと目を瞬かせる。びっくり、というよりは、ちょっと意味が分からなかったからだ。
「会いたいか?」
言われて、考える。ご主人様は、わたしがご主人様の言うことを理解できていることを知っているので、こういう『はい』か『いいえ』で答えられるような問いを向けることがある。わたしの方も、答えられる質問には答えるのが礼儀だと思っているので、できる限り答えることにしているのだけど。
そもそも『お仲間』って、どういう括りでの『お仲間』なんだろう。ご主人様の言うことなので、わたしが思っているのと違う確率は結構高い。ご主人様がわたしのお仲間だと思っても、そうじゃない可能性は十分にある。しかし、わたしからご主人様に質問できない以上、追加の情報をもらえない限りは、正確なところはわからない。考えても仕方ないので、そこのところはおいておくことにする。
本当の意味での『お仲間』が近くに来ているとして。会いたいかなぁ、と自分に問いかけてみる。……正直、そんなに会いたいとは思わなかった。
「会いたいのなら、外に出してやるが」
それはやめていただきたいなぁ。わたしにとって、外はとても怖いものなので、この部屋でゆったりのんびり刺激のない毎日を送る方がいい。
「そうか。ならばいい」
首を横に振って否定を伝えれば、ご主人様はあっさり引いた。本気じゃなかった――わけじゃないだろう。単純に、わたしの意思を汲んでくれただけだ。
ご主人様と出会う前、襤褸雑巾のように死に掛けていたわたしを知っているのだから、そもそも訊ねる必要もないと思うんだけど、ご主人様にそこまで察しろというのも難しいのかもしれない。種族的な意味で。
「しかしおまえは、元居た場所に帰りたくはないのか? おまえの種族は、住む場所に愛着し、固執する性質を持つはずだろう」
ご主人様が心底不思議そうに――表情はあまり変わっていないけれど、雰囲気でわかる――問う。
帰りたいか、と言われたら、そりゃあ帰りたい。ご主人様の気まぐれで飼われているに過ぎないこの状況が、いつまで続くのかなぁ、と考えることくらいはあるのだ。
でも、ご主人様がわたしを手放すことはできても、かえすことはできないのである。だって、ご主人様はわたしが元居た場所なんて知らないのだ。加えて、わたしにはここからどうやったら帰れるのかさっぱりである。自力で帰ろうと努力するにしろ、その間にまた襤褸雑巾に逆戻りする未来しか見えない。
何より、外は怖いものだ、というこの意識が払拭されない限り、好き好んで外に出ようという気にはならない。
なので、ご主人様がちょっと珍しいペットを飼うのを愉しんでいる間くらいは、このままでいたいなぁ、というのがわたしの本音だった。
「つくづく、おまえはおかしいやつだな」
褒め言葉なのか嫌味なのかと悩むところだけれど、ご主人様が笑っていたので褒め言葉と思っておくことにする。その裏に「本当に面白い拾い物をした」という隠す気のない本音が透けて見えていたけれど、認めてくれているのには違いない。
ご主人様は今日もわたしの頭を撫でる。優しい手つきに、わりと大事にしてもらってるなぁ、としみじみと思った。
*
「おまえのお仲間も、黒色らしいな」
今日も今日とてわたしを撫でるご主人様がそんなことを言ったので、一瞬息が止まった。……どうやら、先日ご主人様が言った『お仲間』は、正しい意味での『お仲間』だったらしい。
でも、そうか。その『お仲間』は、黒色は不吉だと、悪いものを運んでくると、そんな言い分で追われた末に襤褸雑巾になったわたしとは、随分と違う道のりを歩んできたようだ。『お仲間』そのものに理不尽な怒りを抱くことはないけれど、こうまで違うとなんとも微妙な気持ちにはなる。
「黒は魔の色と言われているからな。場所によっては、利用価値があるともてはやされることもあるのだろう。おまえはそうではなかったから、襤褸雑巾の有様だったわけだが」
だというのに、この傷口に塩を塗り込むようなご主人様の台詞だ。気遣いなんてものがないのは知っていたけれど、さすがにムッとする。ので、撫でてくるご主人様の手から抜け出して、ちょっと離れた位置に移動した。不機嫌になりましたよ、というわかりやすい主張だ。
ご主人様は、そんなわたしの態度にも気を悪くした様子はなく、ただ、「会いたいか?」とだけ口にした。
……その問答は、この間もやったような気がするんだけどなぁ。
これに限らず、ご主人様は、同じような質問を何度もしたりする。そんなご主人様の記憶力を心配したのは一度や二度じゃないし、年齢からしてもしかして痴呆なのかと疑ったこともあるけれど、たぶん知られたら絶対零度の視線をいただくことになるに違いないので表には出したことはない。
一応改めて自分に問い直してみる。……会いたいような、会いたくないような。本当に、『お仲間』なのだったら、元居た場所への帰り方も知っているかもしれない。でも、知らないのだったら、会いたくない。他にもいろいろあるけれど、大体そんな感じである。
そんな複雑な気持ちを汲み取ってくれたのかそうじゃないのか――まあ十中八九後者なわけなのだけれど――ご主人様は答えを強要することはなかった。
「おまえのお仲間は、ここを目指しているようだからな。万が一にも満たない可能性だろうが、おまえと会うこともあるかもしれないぞ」
……。何を言ってるんだろう、ご主人様は。ここへ誰も訪れられないようにしているのはご主人様なのに、そんなことを言うなんておかしくないだろうか。もしかしたら気まぐれに、辿り着けるかどうか見守ってみるつもりなんだろうか。正直趣味が悪い。
そう思ったのが伝わったのか、ご主人様は愉しそうに笑った。
「面白いことになりそうだ、と言っただろう?」
――もしかしたら、その言葉は未来を予見してのものだったのかもしれないと、あとになってわたしは思うことになる。
*
「おまえは、人間を恨んでいるか?」
唐突にそんなことを問われたのは、ご主人様による恒例の頭撫で撫でタイムだった。まあ、ご主人様がわたしの元へ来る=頭を撫でに来る、と言っても過言ではないので、どうしても会話するのはそのときになるのだけど。
……しかし、これはまた答えを出しにくい質問だ。日々腕を上げていくご主人様の撫で撫でを享受しながら、一応考えてみた。
たかだか身に纏う色が黒だったからと言って、特に何の害を与えてもいなかったはずの自分を襤褸雑巾の有様まで追いやった人々に、思うところはもちろんある。が、恨んでいる、と言葉にしてみると、それもなんだか違う気がする。
まあ、俗説とか集団心理ってそんなものだよね、と思ってしまうというか。気持ちは分からないでもないのだ。死に掛けさせられた身としては恨んでもいいと思っているのだけど、そういう激しい感情を抱くには、生来の気質が向いていないらしい。
それでも、何のわだかまりもないとは言えない。何せ、おかげさまで外の世界に恐怖心を植え付けられたのだから。ご主人様に拾われなかったらどうなっていたか、考えたくもない。いや、考えるまでもなく死んでいたのだけど。
「殺されかけても慕わしいか? 帰属したいと願うか? 外の世界への恐怖を超越してあまりあるほどに、人の優しさなるものを信じるか?」
えええ、なんでそんな矢継ぎ早にそんな質問を。というかなんか変な方向に派生してないですかね、ご主人様。答えにくいこと極まりない質問を重ねられても困るだけですよご主人様。
というわけで、面倒なので答えません、の意思表示である。すいっとご主人様の手をすり抜ける。
やっぱりご主人様は特に追うでもなく、ただ逃げるわたしを見ていた。そんなに興味ないのだったら、最初から訊かないでいただきたい。
「少し、興味が出てきたな。――惜しむらくは、その答えを得られるだろうとき、我はいないだろうことだが」
何言ってるんだろう、ご主人様は。先日も思ったようなことを頭に浮かべて、わたしはそれを聞き流した。
*
「どうやらおまえのお仲間は、ここまで辿り着きそうだ」
至極愉しそうにご主人様がそう言った。最近ご主人様が口にする話題は、この系統のものばかりだ。よっぽど『お仲間』の動向が面白いらしい。
しかし、『辿り着きそうだ』というよりは、『辿り着かせることにした』の方が正しいんじゃないかなぁ、と思う程度には、わたしはご主人様のことを知っていたりする。ここから外でのご主人様を知らなくても、なんとなくわかることってあるものだ。
しかし、ご主人様はどうして『お仲間』を辿り着かせることにしたんだろう。わたしの種族が集団で群れなす様を、ご主人様が好まないのは知っている。まあ、集団でなくとも好きじゃないみたいだけど。
『お仲間』単独で乗り込んでくるわけでもないだろうし、どういう気まぐれなんだろう。新しい退屈しのぎなんだろうか。
まあ、考えても答えが出るはずもない。ご主人様が説明してくれるはずもないし。
「観察してみると、存外に面白いものだな。おまえのお仲間も、その周囲も」
その『面白い』が、趣味の悪い意味での『面白い』なんだろうなぁ、というのもわかっているので、詳しいところは聞きたくない。最近趣向を変えて喉元をくすぐろうとしてくるようになったご主人様の手を、ぺいっと払い落とす。一体何から知識を得たんだか知らないけれど、とりあえずそこに触るのは許可してませんよ、ご主人様。
無言の訴えが伝わったらしく、いつも通りに頭を撫で始めるご主人様。本当に、ご主人様はこの黒色がお気に入りである。スキンシップに飢えているのかなぁ、と思うようにもなった。
どうにも、ご主人様を取り巻く環境は心を許せるものではなさそうなので、そういう可能性もあるだろう。そんな中、絶対にご主人様に害を与えられないわたしという存在は、ちょうどいい具合だったのかもしれない。警戒するのも馬鹿らしい、という意味で。
ご主人様がその気になればどうにでもできるからこそ、わたしの気分でご主人様に従わなかったり、好き勝手やったりしても、それもまた一興、みたいに放置してもらえるのだろう。わたしにだって噛みつくくらいはできますよ、とは思うけれど、別にそうする理由もないし、意味もない。噛みつくのは食べ物相手だけで充分である。いや、いつもそんなに行儀の悪い食べ方しているわけではない。断じて。
「お前のお仲間だが、色は同じでも、随分とおまえとは違うようだな」
……ふぅん、そうなんだ。直接見たわけじゃないから、特に感想らしいものもない。まあ、元々似ているとは思っていなかったし。種族が一緒で色が一緒だったとしても、それ以外に差異をつけられる部分は無数にある。
「どうやら、とても『使える』ようだぞ」
嫌味なのかな、と思うような口ぶりだけど、ご主人様にそんなつもりはないだろう。ただ、ちょっと言い方が誤解を生みがちなだけである。つまり無自覚で煽ってくるのだから、尚更性質が悪いのかもしれないけれど。
利用価値を見出され、その期待に応えたのだろうなぁ、『お仲間』は。もしくは、最初から利用価値ありきで見出されたか。まあ、わたしにはあんまり関係のないことだ。というか深く考えたいことではない。
ご主人様の口ぶりからすると、『お仲間』は異性のようだった。別にそれがどうというわけではないけれど、なんとなく、ご主人様の元へ乗り込もうとするまでの流れは読めた気がする。
ご主人様はこの状況を面白がっているようだけど、それで大丈夫なんだろうか。……いや、これは正確じゃないな。それでいいんだろうか、が正しい。ご主人様は、何を望んで、何を期待して、『お仲間』一行が来るのを待っているんだろう。
それに全く見当がつかない――わけじゃないからこそ、ご主人様の答えが知りたかった。けれどやっぱり、わたしにはご主人様に問う手段はないので、その疑問は胸の内にしまうしかないのだった。
*
しばらくご主人様の姿を見ていない。そりゃあ毎日ご主人様が来ていたわけではないけれど――なんだかんだ言ってご主人様は地位ある御仁なので忙しいらしい――それでもこんなに顔を合わせないことは無かったに等しい。
最後に会ったときは、「お仲間がすぐそこまで来ているぞ」とだけ言って去って行ったけれど、その後何があったというんだろう。
――とまで考えて、目を逸らしていても仕方ないなぁ、と溜息を吐いた。あんまり考えたくないことだから意図的に思考を深くしないようにしていたけれど、往生際が悪いことは自覚はしていた。
「お仲間が来たぞ」
目線を上げた先に、つい一瞬前までいなかったはずのご主人様を見る。扉を開閉した音もしなかったのに、当然のようにわたしを見下ろしていた。
「直接に対面してわかったが、おまえがここに来たのはそのお仲間のせいだったようだな」
それも『お仲間』の存在を知ったときに、なんとなく察していたので驚かない。――でも、続く言葉はさすがに予想していなかったので、驚く。
「そしてお仲間が帰るとき、おまえも必然的に元の場所に戻れるようだ」
……かえれる。帰れるのか、わたし。
かえりたいと、思わなかった日は無かった。だってここは、わたしの居場所じゃない。わたしの生まれ育ったところじゃない。わたしを受け入れもしなかった世界に、居続けたいとは思わなかった。
でも、帰るための方法も見つからない、そして外の世界にトラウマじみたものを抱えてしまった以上、きっかけが興味本位だろうが気まぐれだろうが、保護してくれるご主人様の元にいるのが一番安全だろうと思ったから、そうしていた。それを、多分ご主人様も気付いていた。
だからこそ、今、こんなことを言うのだろう。この世界から去ることができるのだと――帰れるのだと、わたしに教えるために。
気に食わなければ人間どころか同族であっても八つ裂きにする、『冷酷非道の魔王』様のくせに、愛玩動物には変にやさしい。
この世界の人間は、わたしにちっともやさしくなかった。それどころか死にかけるまで追い詰められた。反対に、ご主人様は、わたしには害を与えなかった。それどころか、やさしいとさえ言えた。他の人にとってはどうか知らないけれど。そこに本物の優しさがないとしても――ご主人様を始めとする『魔族』とやらに、何かを慈しむ、大事にする感情はないらしい――わたしはそう感じた。
そう感じることができたのも、結局わたしがこの世界にまったく愛着が無いからなんだろうとは思う。なにせ、ご主人様は――『魔王』は、存在するだけでこの世界を滅ぼす存在らしい。ついでに悪逆非道の限りを尽くしたりもしていたらしい。さすがにわたしだって、自分の世界を滅ぼす存在に好感情なんて抱けない。
……わたしこんなに自分本位の人間だったかなぁ、と若干落ち込みはするけれど、結論としてわたしはご主人様びいきなのだった。
だけど、『お仲間』が帰るとき、わたしも帰ることができるのなら。
それは、たぶん、間違いなく――『お仲間』が、『為すべきことを為した』後なのだ。
なんとなく、わかっていた。『お仲間』がここを目指している理由。何をするためにここに来るのか。……ご主人様をどうするために、ここに来るのか。
続けられたご主人様の言葉で、それは確信に変わる。それを認めたくなくて、深く考えないようにしていたのだけど――それが足掻きにすらならないのも、わかっていた。
「我の命はもうすぐ潰える。今おまえの前に在るのは、切り離した影のようなものだ。おまえはこの部屋から出ることができないから、放っておくとお仲間の元へは辿り着けないだろうと思ってな」
ご主人様の言い方からして、『お仲間』の近くにいないと一緒に帰れないのかなぁ、と思う。
帰る方法が判明した今、わざわざ会いたくはない相手だけれど、そうしなければならないのなら仕方ない。でも、できれば顔を合わせて即帰りたいし、会話とか全然まったくしたくないなぁ、と考えるくらいは自由だろう。
どうやらこの世界の『魔王』は、システム的なものに縛られているらしい。いつだったか、どうせ死ぬさだめなのだ、とご主人様は零した。けれどその時を、自分で選ぶことはできないのだと。同族にも、それ以外にも、ご主人様を殺そうとする者は多くいて、それらに殺されないようにしなければならないけれど、いつかは絶対に殺されねばならない相手が現れるのだと。
『魔王』を倒すことができるのは、この世界に満ちるエネルギー……魔力を使った場合のみらしい。そうしてわたしは、その魔力をひとかけらも持っていないのだという。だからこそ、わたしは万が一にもご主人様を害することのない存在だった。異なる世界の存在だから、自然と持てるものではないのだろうな、とご主人様は言っていた。その理屈でいくと、『お仲間』はなんらかの手を加えられて、強大な魔力を得たということになるのだろう。異世界に召喚されて云々な物語の王道である。
『魔王』を倒すのは『勇者』だという、わたしの世界の物語の王道は、まさしくこの世界に当てはまるものだった。それは、『お仲間』とご主人様の存在が結びついた時、半ば確信してはいたけれど。
……つまりご主人様は、殺されるために『お仲間』を迎えたのだ。
ご主人様はとても長く生きたのだと言っていた。多分、生きるのにも飽いていた。倦んですらいたのだろう。……もしかしたら、さっさと『魔王』なんて柵しかない重荷を降ろして、休んでしまいたかったのかもしれない。
それで、たぶん、『お仲間』の存在に、いつもの人間たちの反抗とは違う何かを感じて――それにはきっと、わたしという存在の影響も少なくなくて――様子を見て、そうして相対して、気付いたから受け入れた。
いなくなってしまうのか、と思う。どうせ、わたしが帰れば二度と会えないわけだから、それがちょっと早まっただけのこと――と割り切れるほど、わたしは達観していない。
でも、ここで泣くのは違うのかな、とも、ぼんやり思った。
『さようなら』の言葉ひとつ、口にしては伝えられないけれど。身振りで、表情で、伝わるものがあるのだと、ご主人様と過ごす中でわたしは知っていた。
目の前のご主人様の姿は、刻一刻と薄れていっている。切り離した影、というのは、長く在れるものではないらしい。もしくは、本体であるご主人様が死に向かっているからなのかもしれない。
誰がなんと言おうと、ご主人様はわたしを助けてくれたひとだった。興味本位で拾って、特に熱心に世話をしてくれるでもなく、気まぐれに訪れては撫でて喋って去っていくばかりのご主人様だったけど、ご主人様がいなければわたしは今こうして生きてもいなかった。
ご主人様に近づく。そういえば、こうやってご主人様に自分から近づいていくのって、あんまりなかったな、とふと思う。ご主人様から近づいて撫でてくるばかりだった気がする。一応これでも一端の乙女なので、種族は違えど異性に自分から近づくのは恥ずかしかったというかなんというか。
『ありがとう』と、『さようなら』と。伝えたい想いをこめて、ご主人様に手を伸ばす。
微動だにしないご主人様の頭に手をのせて、いつもされていたみたいに撫でた。ちょっと優雅さが足りなかったのは、身長差のせいだということにしておきたい。ひとしきり撫でて、最後におまけとばかりに一瞬ぎゅっと抱きしめた。すぐに離れて、ご主人様を見上げて笑いかける。
ご主人様は、ほんの一瞬、ふっと笑い返してくれた――ような気が、した。いつも浮かべるような、含みのある笑いでも、愉悦交じりの笑みでもない、純粋な笑顔を。
それはもしかしたら、わたしの願望が見せた幻だったのかもしれないけれど。
「行くぞ」
端的な言葉で促して、ご主人様がわたしに手を差し出す。扉に向かう様子がないということは、この手をとれば、すぐにでも『お仲間』のところに行くことになるのだろう。『転移魔法』なるものがあるらしいのでそれを使うつもりなんだろうと知れた。
意識のあるときに魔法を体験するのは初めてだなぁ、と思う。治癒の魔法をかけられたことはあるらしいけれど、死に掛けていた時なので記憶にはない。そしてこれが、最後の体験でもあるのか、とも思った。……帰る時のはカウントしないことにする。魔法なのかもよくわからないし。
ご主人様がどんどん透けていく。急かされはしないけど、多分急いだ方がいいんだろう。
ご主人様の掌に、自分の手を重ねる。瞬間、ご主人様を中心にぶわっと光が広がって、眩しさに目を閉じた。
……きっと、次に目を開けたら、この手の先にご主人様はいないんだろう。
ご主人様には色々な意味で気遣いは期待できないので、ご主人様の本体を目にすることはあるかもしれない。さすがにトラウマをこれ以上増やしたくはないけれど、覚悟はしておいた方がいい気がする。
そう思った矢先、触れていた手の感触が消え去って、わたしは歯を食いしばった。……泣かない、ために。
――さよなら、ご主人様。さよなら、世界。