死にたがりのイアン・ラプリッツァ
イアンは生きていた。そのことが悲しくて悲しくて、たまらなかった。イアンは死にたかった。けれどいつになっても、死が彼の元に訪れる気配はなかった。
「よし、死神を探す旅に出よう」
イアンはある日、妻と子供と、身の回りの何もかもを捨てて、家を出た。
「死神は、きっと北にいる。北は陰気で虐殺の臭いがする」
イアンは北に向かって歩き始めた。幾つもの太陽を越え、幾つもの星々を越え、イアンはやがて雪と氷の土地に辿り着いた。凍てつくような寒さに震えながら死神を探すと、どこからともなくイアンを呼ぶ声が聞こえてきた。
「イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや」
「お前は誰だ、死神か」
「いいや私は渡り鳥。飛ぶ時を忘れ死を待つ哀れな鳥さ」
歌うような声とともに、イアンの目の前に、羽根が折れて弱々しく震える一羽の鳥が現れた。
「それは羨ましい。僕もお前のように、そうして凍え死ぬことができたらいいのに」
「私はあなたが羨ましいよ。イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや、死にゆく鳥にどうかご慈悲を」
鳥はイアンに、もう動く力もほとんどないこと、そして最後にもう一度大空を飛びたいことを伝えた。イアンは少し考えて、この死にかけの鳥のそばにいることで死神に会えるかもしれない、と、鳥の願いを引き受けることにした。
イアンはその胸に鳥を抱いて、真っ白な大地にそびえ立つ巨大な氷の塔を登った。気が遠くなるほどの階段を歩み、とうとう地上が霞むほどの高さに到達して、鳥はそろそろいいだろう、とイアンを促した。
「イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや。ありがとう、そのまま私を空に送り出しておくれ」
イアンは言うとおりに、少し勢いをつけて鳥を空へと放つ。鳥は折れた羽根を痛そうに広げ、
「ああ、空だ!」
と叫んだかと思うと、くるくると回りながら落下していった。微かな、鈍い音がイアンの耳に届く。イアンが下を覗くと、赤い氷柱が立っていた。
「また死ねなかった」
あたりに死神がいないことを確認すると、イアンは悲しそうにつぶやいて、また旅を続けることにした。
「死神は、きっと南にいる。南は暑くて、腐敗した臭いがする」
イアンは今度は南に向かうことにした。険しい山と、深い谷と、それから大きな川を越えて、イアンは砂と渇きの大地へ辿り着いた。いかにも死神のいそうな場所だ、と、イアンは期待に胸を踊らせながら死神を探す。すると、唸るような風の音に混じって、彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
「イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや」
「お前は誰だ、死神か」
「イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや」
声はイアンを呼ぶばかりで、一向に姿が見当たらない。イアンはしびれを切らして、声の主を探しに行くことにした。
サラサラと滑る大地を踏みしめながら、声だけを頼りにふらふらと歩いていると、やがてイアンの目に枯れた井戸が見えてくる。
「イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや」
「どこに居る、この中から呼んでいるのか」
「ええそうです、私は蛙。枯れ井戸の中で干乾びるのを待つ可哀想な蛙です」
イアンが井戸の底を覗くと、小さな黒い影が微かに動いているのが見えた。
「そうか、それは羨ましい。僕もお前のように、為す術もなく死んでいけたらいいのに」
「私はあなたが羨ましいですよ。イアンやイアン、死にたがりのイアン・ラプリッツァや、枯れゆく蛙にどうかご慈悲を」
蛙はイアンに、ずっとこの井戸で育ったこと、死ぬ前に一度外の世界を見てみたいことを伝えた。イアンは少し考えて、そのくらい大した手間じゃないと、蛙の頼みを引き受けることにした。
ガラガラと、壊れかけの桶の揺れる音があたりに響く。イアンがボロボロのロープを引っ張り続けると、やがて、桶が地上に着き中から蛙が飛び出してきた。
「ああ、これが外の世界! なんて広いんだ!」
蛙は感動に打ち震えながらピョコピョコとニ、三歩跳ね、叫んだかと思うと、やがてピクリとも動かなくなった。あたりが静寂に包まれ、イアンはゆっくりと蛙に手を伸ばす。蛙は静かに砂になって砕けていった。
「また死ねなかった」
あたりに死神がいないことを確認して、イアンは悲しそうにうずくまる。
「どうしてどこにもいないんだ。早く僕を連れて行ってくれ」
鳥は死んだ。蛙も死んだ。けれどイアンは生きていた。そのことが悲しくて悲しくて、たまらなかった。イアンは死にたかった。けれどいつになっても、死が彼の元に訪れる気配はなかった。
イアンは絶望した。数えきれないほどの年月を悲嘆に暮れて過ごし、やがて涙も出なくなってきた頃、突然置いてきた妻と子供のことを思い出した。
「北にも南にも死神はいなかった。もう諦めて、我が家へ帰ろうか」
そうだ、そうしよう。それはとても良い考えに思えた。
家族の顔を思い浮かべると、イアンは自然と笑みを浮かべている自分に気がついた。
イアンはゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをして、思い出の詰まった家へ帰るべく後ろを振り向く。
「おまたせ、イアン」
その日、死の大地で、鈍い音が響いた。死にたがりのイアン・ラプリッツァの、その後を知る者は誰も居ない。