袋の中の空き缶
高尾山の駅を降りると、向かいのホームにはすでに甲府行きの電車が控えていた。下車をした乗客のほとんどが、その電車に乗り換えていく。都心とは違って、皆ゆったりとした足取りだ。周りを見ると、緑の木々に覆われた山々がどっしりと腰をおろしている。暦の上ではとっくに秋になったが、黄色やオレンジ色の葉はまだ一枚もなかった。
私も周りの客に続いて、甲府行きの電車に乗り換えた。今乗ってきた電車と違って、特急車両の中にあるような向かい合わせの席がある。私は定位置の座席に向かった。やはり誰も座っていなかった。時間帯を間違えると、乗客が多すぎて好きな場所に座れなくなってしまう。別に進行方向右側の窓際に座れなくても、電車は目的地に間違いなく向かってくれるが、その場所に座ってぼんやりと考え事をするのが、私にとっては一種の儀式のように大切なことだった。
缶ビールが二本入ったビニール袋を窓際のフックにかけ、深く腰掛けた。ほどなくして電車が走り出す。わずかに揺れるビニール袋。結露した水滴が、膝の上に載せてある平たい鞄の上に一滴だけ落ちる。さっきまで空中に溶け込んでいた水分は、今こうして目の前に具現化し、自分にとって認知し得る存在になった。それらにはすべて理由があり、化学や物理学を使って合理的な説明ができる。しかし今から私が向かうところは、一体何なのだろう。鞄に付いた水滴を眺めていれば、いずれ言葉で説明できる理屈が考え付くかもしれないと思ったが、答えが出ることはなく、水滴は徐々にまた空中に溶け込んでいった。
甲府駅に着くはるか手前の小さな駅で、いつもどおり私は降りた。私以外に降りる乗客はいなかった。夏の名残りの湿気が体中にまとわりつく。私は改札を出て、そのままある山に向かった。入口らしい入口はなく、地元の人でもおそらく入ることはない山だ。当然ながら道もないので、一度入ると簡単には出られなくなるが、私は不思議と迷ったことはない。初めて来たときも、どういうわけだか迷わずに歩けた。きっと深く考えてもその理由は分からないだろう。いや、考えてはいけない気がする。
草をより分け、石や木の根につまずかないようにしながら前に進んだ。草の生々しい青臭さと、土の原始的な匂いが、肺の奥まで入ってきた。それは次第に濃くなり、肺を満たしていった。肺に入りきらなくなったその匂いは、やがて神経を通り、脳の方へ向かっていった。緑の空気と自分の思考が少しずつ一体となってくる。「その時」が近付いていた。
祖父は草が生い茂る巨木の下であぐらをかいて本を読んでいた。いつの間に作ったのか、小さなちゃぶ台のようなものに両手を乗せ、開いたページに向かってただじっとしていた。私が声をかけると、顔をあげて穏やかな笑顔を浮かべた。
「のどが渇いたんじゃないかと思ってね、ビールを持ってきたよ」
私はビニール袋を祖父に見せながら言った。祖父はやはり穏やかな笑顔のまま、少し頷いた。
「のどは渇かないよ。そもそも腹が減らないんだから」
祖父は自分の腹を撫でながら言った。もちろん私はそれくらい分かっていた。そうだよね、でも一応ね、と言いながら、缶を祖父の目の前に置いた。祖父は本を閉じて、ちゃぶ台の端に置き、缶ビールを手に取った。私は祖父の向かい側に座って、自分の缶ビールを開けた。
「何を読んでいたの?」
ビールを一口すすって、私は尋ねた。
「ん、これは『坂の上の雲』だ。司馬遼太郎の」
祖父は本の表紙を私に見せながら言った。祖父もまたビールをすすった。あぁ、やっぱり美味いな、としみじみと言った。
「『坂の上の雲』って、それ一回全部読んだでしょ。また読んでるの?」
私は置いてある本の表紙を見ながら聞いた。
「ああ。面白い本は何度読んでも面白いんだ。読むたびに新しい発見がある」
祖父は本に目を落として言った。
「読むたびに新しい発見、ね。なんとなくわかるよ」
私もまた表紙を見ながら言った。実際、そのとおりだった。本に限らず、一度経験したことを繰り返すことは、決して無駄ではないし、むしろその中にどこか必ず新鮮なところがある。まだ短い人生ではあるが、それくらいのことは分かっているつもりだった。
「繰り返しそれ自体に意味がある場合もある」
祖父は私の目を見ながら言った。まるで私が今考えていたことを見通しているかのような言い方だった。
「クラ交換、って聞いたことがあるか」
「クラ交換?」
「そうだ」
祖父は両手の人差し指で空中に丸を書いた。真円ではなく、縦に少し長い楕円だった。
「クラとは首飾りのことだ。ある南洋諸島の原住民は、隣の島にクラと呼ばれる首飾りを贈る風習がある。贈られた島の人は、今度はまた別の隣の島にクラを贈る。それはもらったクラかもしれないし、自分たちで作ったクラかもしれない。こうして、クラは島々を渡ってまた元の島に戻ってくる」
祖父は、先ほど首飾りを描いた空中に、同じくらいの大きさの円を右手の人差指で描きながら言った。
「これを発見した西洋のある文化人類学者は、とても不思議に思った。首飾り自体には何の機能もないし、島々の間でぐるぐる交換し続けているだけの行為に、意味が見出せなかったからだ」
祖父は再び円をぐるぐると描きながら言った。
「彼らにとっては、首飾りをプレゼントし合うことそれ自体に意味があった、ってことだね?」
私は先回りをして尋ねた。祖父はまた穏やかな笑顔でしみじみと頷いた。そして円を描いていた手で缶を掴み、また少しビールを飲んだ。私はその様をじっと見ていた。祖父もまた私の目を見ていた。
「お前にはこれが何の意味に繋がっているんだ。こうして、俺と山の中で話すことそれ自体に意味を見出しているのか?」
祖父は少し真剣な口調で聞いてきた。全く酔っていない様子だった。私はちゃぶ台の真ん中あたりを見ながら、頭の中で言葉を探った。
「どうだろう……。実際のところ、よく分からない。楽しい、というのもあるし、こうしておじいちゃんと話していると落ち着く、っていうのもある。でもそれだけではないと思う」
私は目線を下に落したまま答えた。祖父はフン、と鼻息を出して、腕組みをした。「こっちを見ろ」と言われている気がした。
「こうして話している俺の姿が、お前の頭が生み出した妄想かもしれないんだぞ。それくらいのことは分かるだろう」
「うん、分かってる」
「じゃあ、なぜ来る」
「分からない」
「俺に会いに来ることを続けるのは、ひょっとしたら危険なことかもしれないんだぞ」
「そうかもしれない」
「じゃあ、なぜ来る」
「それは……」
私は顔をあげて祖父の目を見た。詰問しているような目つきだが、ただただ優しい光をたたえていた。その光を見ながら、適切な言葉を頭の中で構築しようとした。祖父の質問に対する答えは厳然とあるはずだった。しかしどうしても何も出てこなかった。
「この、こうして俺とここで会って話をすることは、ずっとは続かない。分かるな?」
「うん」
「いつか終わりが来る」
「うん」
「明日お前が来た時には、もう俺はいないかもしれない」
「うん」
「それは分かっているんだな?」
あまり考えたくないことだった。しかしそのとおりだし、それはいつか自分で考えて決めなければならないことだった。祖父に対して何も後ろめたいことはなかったし、思い残したこともやり残したこともなかった。だから本来であれば今日にでもこれはやめるべきだった。
「分かってる。でも……」
「男が『でも』とか『だって』とか女々しいことを言うんじゃない」
祖父はきっぱりと言った。私はぐっと我慢した。
帰りの電車の中で、オレンジ色に染まった空を眺めながら、私は思考を巡らせていた。窓際のフックにかかったビニール袋から、空になった缶が2つ透けて見えていた。存在感なくわずかに揺れるその袋を見ながら、祖父との会話を思い出した。祖父が言っていたように、会いに行くこと自体に意味があったのかもしれない。しかしそれに意味を見出せるのだとしたら、きっと帰った後の、日常の私自身の生活にも、何かしら意味を見出せるのかもしれない。
電車がトンネルに入った。オレンジ色の空は一瞬にして視界から消え、暗い窓には自分の顔が映っていた。私は、もうあの山に行くのはやめよう、と心に決めた。