うわばき、かえして
娘のうわばきがベランダに干してあり、私は思わずそれを手に取ってしまった。
と、言って誤解しないでほしいが、私になにか変な趣味があるわけではない。万が一あったとしても小五の娘でそれを満たすことはありえない。
私はうわばきの表と裏を隈なく見た。そこに何か文字が書かれた形跡はないか、画鋲などで穴が開いた跡がないか。
幸い、娘のうわばきにおかしな点はなかった。これだけで判断できるものでもないが、私の過去の『苦い思い出』のような経験を、娘は受けていないのだろうと少し安心した。
なんの飾り気もないあの靴を見ると、今でも鮮明に思い出してしまう。私の過去の苦い経験。中村恵太と過ごした、恐怖と悲しみの混ざったあの一年を……
◆ ◆ ◆
中村恵太とは小学校は別だったので、中学生になって始めて顔を合わせた。始めて会ったときに私たちは言葉を発さずに会話した。
それはなにかの比喩ではなく文字通りの意味。
私たちには不思議な能力があったのだ。
『君もあれが見えるんだ』
そんな言葉が私の頭の中に直接イメージとなって流れ込んできた。
図書室の片隅で茫然と座っていた私は、慌てて振り返った。
そこには中一にしては幼すぎる雰囲気を持った、中村恵太が立っていた。身長はクラスで真ん中くらいの私より頭一つ小さかった。スポーツ刈りでくしゃっとした笑顔が印象的だった。私が中学のときはもう平成に入っていたが、彼からは昭和の香りみたいなものを感じた。
『いま話しかけてきたのは、君?』
彼は驚いた顔をした。それはそうだ。頭の中で考えただけのことに、頭の中で返事があったのだから。
『僕は中村恵太って言うんだ』
彼は頭の中でそう言った。
『僕は星川蒼介』
私は頭の中でそう返事した。
「すごい」恵太は口に出して言った。「星川君もこの能力があるの?」
「うん」私の声は、何週間ぶりに発したかのようにかすれていた。「昔から誰かの考えてることがわかったり、ちょっと未来のことを夢で見たりしてた」
「それに」
恵太は私の隣に来た。そして図書室の窓の外を見ると、私たちは同じ言葉を発した。
「誰にも見えない不思議なモノが見えたり」
窓の外にはこちらを見つめてニヤニヤと笑う、一人の少女が立っていた。
おさげ髪でセーラー服を着ている。ただその顔は血まみれだった。顔は鬱血し紫色で、頬に開いた穴から黄色い歯が見えている。何もない眼窩からは、ウジ虫がチョロチョロと顔を出している。
少女は突然ひきつったような脅えた顔になると、カン高い叫び声を上げた。私の髪が逆立ち、肌が粟立つような恐ろしい悲鳴だった。しかし、図書室にいる他の生徒は何事もないように本を読んでいた。
少女は後ろ向きに倒れると、そのまま窓の外へ消えた。
私と恵太はおそるおそる窓から下を覗いた。
血まみれの少女がコンクリートの通路に横たわり、苦痛にゆがんだ顔で空を見上げていた。体の周りには真っ赤な血だまりが出来ている。
お喋りをしている生徒たちは、何も気にせずにその通路を歩いていた。少女の上を踏みつけて通り過ぎて行く。その足跡はしばらく赤黒い形を作るが、誰にも気づかれないまま薄くなって消えた。
「僕……怖いんだ。この学校って……まるでゴキブリホイホイに集まるゴキブリみたいに、あいつらを引き寄せている気がして」恵太が言った。
「うん」私は言った。そのときの本心であり、四十を越えた今となっては全くそんなことはないと思えることを。「でも、学校を休むわけにもいかないし。出来るだけあいつらに近づかないようにしないと」
その後、私は学校で数多くの「あいつら」を見ることになった。
トイレに入るとベルトで首を吊った少年がいた。ドアノブのところにベルトをかけ、足を投げ出した中腰の体制で首を吊っていた。テレビドラマのように上からぶらんと吊り下がってはいなかったが、飛び出た眼球とだらりと垂れさがった舌で、確かに死んでいるとわかった。彼は私に目を向けると『ボクハクサクナイ』と語りかけてきた。
夕方の人のまばらな職員室では、手首から血を流した若い女教師を見かけた。
給食室の裏にはハエのたかったパンをむさぼり食う太った少女がいたし、プールには体中がパンパンに膨れ上がり皮膚が腐ってドロドロに溶けたもはや性別も分からない「モノ」がいた。
私たちは「あいつら」を見るたびに、お互いにテレパシーを送った。
『はやく来て!』と懇願するように。
「あいつら」の中には私たちが気づいたと分かると、ニヤニヤと笑みを浮かべながら追いかけてくる奴もいた。そんなとき私たちは、図書室の片隅や体育館の倉庫へ身を隠した。
そこで私たちは、人差し指と中指を交差させた両手を重ね合わせた。
そして『お前たちは現実のモノじゃない。消えろ!』と目をつぶり集中するのだ。
すると目を開けたとき「あいつら」はいなくなっていた。
「あいつら」に取って、私たちはやっかいな存在だったのだと思う。
デタラメな呪いまがいの事をしていただけだが、なぜか効果があるようだった。それが私たちの能力によるものだったのか、単なる思い込みの力だったのかは今となっては分からない。
ただ、私たちはいつしか「あいつら」をそれほど恐れなくなっていた。
それには二つの理由があった。一つは単純に慣れてしまった事。学校のどこにいても、二人でいればそれほど恐れることはないと思うようになっていた(ただそれはある一か所を除いてだったが……)。
そしてもう一つの理由。それは「あいつら」以上に恐れなければいけない存在が出来たからだった。
私と恵太はいつも二人で行動していた。
自然と私たちはクラスの中で浮いた存在になってしまった。
体も大きくなく、運動も得意ではない。いつもコソコソしていて休み時間には図書室で本ばかり読んでいる。だが勉強は得意で、テストでは常に上位にいる。
それはクラスの一部の勢力からすると格好の標的となるものだった。つまりイジメの標的に。
クラスメイトたちの大半は私たちを無視していた。ある女子グループは汚い物だと扱い、ある運動部のグループは掃除などをやらせる雑用係として扱った。
その中でも私たちが最も恐れたのが、クラスの中心を成す三人組だった。
ここでは仮にA,B,Cと名付けたい。もう名前も思い出したくはないので。
Aはクラスの学級委員もやる人気者だった。BとCは先生にもちょっかいを出す、いわゆるお調子者タイプ。私たちに直接なにか行動をしてくるのはBとCだった。
すれ違いざまに肩をぶつける。バケツの水をかける。机の上の物を床にばらまく、など。私たちのことをクソとか便所虫とか呼んでいた気がするが、あまり覚えてはいない。
ただ私は、彼らの行為を受け流すことは出来ていた。
私は小学校時代からイジメらしき行為はされていたが、私の頭の中には彼らの考えている事が流れ込んできた。その大半は、私に対して本当に憎しみを持っている訳ではなかった。
『コイツと喋っているところを~に見られたくない』『ここでコイツを叩けば一目置かれるんじゃないか』
そんな自己保身でしかない考えだと分かると、彼らの行為はどこか滑稽な物に思えてくるのだ。
だから中学のときのBとCの行為も同じだった。Aに嫌われないように。Aに面白いと思ってもらうために。これをやればAが自分のことを凄いと思ってくれる。
それくらいのことだから、耐えていればいつか飽きるだろうと私は思っていた。
だがAの思考だけは最初から違っていた。
Aの思考は洞穴のように真っ暗闇だったから。
もしかしたら、Aは今で言うサイコパスみたいなものだったのかもしれない。それとも、あの学校の闇に憑りつかれてしまっていたのか。
とにかくAはその後の私たちの全てを壊してしまったのだ。
恵太は母子家庭で育っていた。詳しい経緯は知らないが、生活は相当に苦しいようだった。
文房具や身の回りの物はとても大切に使っていた。
ある日、体育が終わり教室に戻ると、恵太のうわばきでAたち三人がサッカーをしていた。
恵太はカッとなって取り返そうとした。私は止めようとしたが手を振り払われた。
恵太がうわばきを掴もうとすると、三人の誰かが足を伸ばし取らせないようにした。そして振り返った恵太を、後ろから違う誰かが蹴る。恵太の手の下をうわばきがすり抜けると、闘牛士の掛け声のように「オーレ」と声があがった。クラスには十人以上の人がいたが誰も止めなかった。恵太の右往左往する姿に笑いがあがった。
それが数分続き、恵太のうわばきが黒ずんでグニャグニャになってきた時、恵太は突然Aに殴りかかった。
Aは鼻血を出し倒れた。その後二人は取っ組み合いのケンカになった。
BとCが恵太を引きはがすと、騒ぎを聞いた先生が駆けつけた。先生は当事者四人を職員室へと連れて行った。
だから私はその時どんな話し合いがされたのかは知らない。
マンガやドラマではこんな『拳で語り合う』みたいなことがあれば、和解する展開になったりするのだろう。イジメの人生相談などでは、一発やり返せば全てが変わるなんて答えている人もいる。
しかし、私は職員室へと向かうAを見てそんなものは幻想だと分かった。
彼から流れるイメージは相変わらず暗黒だったが、その目を見たらテレパスなどなくても誰もが分かっただろう。
絶対に許さない、という復讐だけが宿った目を。
恵太へのイジメはその日からリミッターが外れた。
恵太はときおり残飯まみれになり、チョークの粉まみれになっていた。
机には落書きがされ、花瓶が置かれていた。
恵太が近寄ると、ばい菌が近づいて来たと避けられるようになった。
教師は全て知っていたが、黙認していた。Aたちはクラスの人気者でもあり、学年の中でも影響力がある生徒。かたや恵太は教室で一人イジメられているだけの生徒。恵太が口をつぐめば、このクラスは何もなく上手く回って行く。アイツ一人を助けるためにクラスの秩序を壊せない。面倒は起こしたくない、今日寝る時に明日の心配事などしたくないんだ。それが私が教師から受け取ったイメージだった。
何よりAを許せない、同時に私自身を死ぬまで絶対に許せないことがその後に起こった。
Aは私を自分たちのグループに引き入れたのだ。
恵太を一人ぼっちにしたいが為の行動だった。
私と恵太が一緒にいるとき、Aが私の肩に手をかけ「おい行くぞ!」と連れ出した。脅えた私は抵抗もすることなく付き添った。振り返ると、恵太はじっと下を見たまま俯いていた。
私は恵太に『ゴメン』とテレパシーを送った。しかしそれは恵太に届かなかった。恵太の頭の中のイメージは、Aと同じように真っ暗な物になってしまっていたからだ。
その日から、私と恵太が話すことはほぼなくなった。恵太にテレパシーを送っても、それは冷たい石の壁に跳ね返されたように、私の所へと戻ってきた。
恵太は、私なら到底耐えられないだろう仕打ちを受け続けた。彼の姿は日に日に悲壮感が増して行った。どこか全体的に縮んだように見え、体操服に染みついた洗っても落ちないチョークや残飯のシミが、ドブに落ちた野良犬みたいな汚さを浮かび上がらせるようになっていた。
私はいつしか彼が学校に来ないようになってくれたら、と思い始めていた。
彼のだんだん汚れて行く姿を見ていられなかったから。
しかし、恵太は学校を全く休まなかった。
イジメられていたら、学校になんて行く必要はない。
それは完全に正しいことなのだろう。人生には色んな道があるのだから。
ただそんなことを思っても実行できる人なんて少数派だ。そのときの恵太に取っては、学校が人生だったのだから。勉強して、母親を楽させてあげたいと思うことが人生のすべてだったのだから。恵太の母親が、息子だけが自分の人生の意味と思っているのと同じように。
だから恵太は学校に来つづけた。どんなにイジメられても耐え続けていた。
そんな恵太を、あの学校は飲み込んでしまったのだ。
あるとき私の前を、箒の先にうわばきを引っかけたAが走り抜けて行った。
そのあとをBとCが追って行く。
「うわばき、かえして!」
さらに後ろから恵太の声が響いた。
Aたち三人は階段をあがって屋上の方へ向かっていた。
彼らは嘲るように笑いながら、屋上の扉を開けその中へと入って行った。
恵太は階段の下まで来ると、扉から出て行ったAたちを見て青ざめた表情を浮かべた。
「けいた、待って!」
私は思わず口に出していた。久しぶりに恵太に発した自分の声。彼は私の方に振り返った。
「ダメだよ。だって屋上は……」
私たちは「あいつら」に慣れてからも、絶対に屋上には近づかないようにしていた。
屋上はこの学校の禍々《まがまが》しさの根源だった。
学校にはびこる汚臭の発生源とでも言うべきか。
「じゃあ、一緒に来てよ」
恵太の言葉に私は動けなかった。
彼は私の心を読んだろうか? わからない。『恵太と一緒にいるところを見られたら、自分もイジメられてしまう』そんな自己保身のかたまりだった心の中を。
彼は悲しそうな笑みを浮かべると、一人で屋上へと向かって行った。
私は罪悪感を振り払うように、急いで家に帰った。
そして自分の家の玄関にたどり着いたときだ。
突然、頭の中に強烈なイメージが流れ込んできた。
『クライ、クライヨ! ココハマックラダ! イヤダ! タスケテ、アイツラガ! アイツラガクル! イヤダアアアアアア』
私はバットで頭を殴られたような衝撃を受け、床に倒れ込んだ。胃がひっくり返り、昼に食べた給食を靴の上に全部ぶちまけてしまった。目の前が真っ暗になった。しかしその闇は蠢いている。たくさんの虫が全身をはい回るような感覚がする。何も見えないのに、壁一面の人間の目に見られていると分かる。鉄と腐った水の臭い。鼓膜を引き裂き、脳内にガンガンと響き渡る悲鳴。
足首を腐った手が掴んでいる。
引きずり込もうとしている。闇の底へ。
私は玄関でうずくまったまま涙をポロポロこぼしていた。
恵太が奴らに捕まってしまった。
恵太がこの世のものではなくなってしまった。
次の日からも学校は何もないように進んで行った。
ただイジメられている生徒が学校に来なくなっただけ。クラスはそんな認識だった。
一度、恵太の母親が泣きながら息子の居場所の手がかりでもないか? と学校を訪ねてきた。担任は学校では何も変わったことはなかった、と説明して追い返した。Aたち三人はその姿に何か冗談を言って、大笑いしていた。
私の心には大きな空洞が出来ていた。
私は、恵太が学校に来なくなればいいと思っていたのに。結果そのとおりの事が起きたのに。
ただ学校と家を往復するだけの暮らし。しかも出来るだけ学校にいる時間は少なくするよう。学校にいる「あいつら」から隠れるよう。
しばらくたつと、Aたちは恵太に向けていた矛先を私に向けるようになっていた。
彼らは自転車みたいなものだ。イジメと言うペダルをこぎ始めたら、止まったら倒れてしまう。それはいつか自分に帰ってきてしまうものだから。そうならないためにはこぎ続けるしかない。
私は給食にぞうきんの絞り汁を入れられた日に、学年主任に言いつけに行った。
定年を間際に控えた学年主任は、露骨に嫌そうな顔をしたが、無視するわけに行かなかった。私は警察に行くと脅したからだ。
Aたちになんとかペナルティを与えたかった。
もう遅すぎたけれども、戦わなければ行けないと思ったのだ。
台風が近づいていた十月半ばだった。
文化祭の準備があり、私はめずらしく日が暮れるまで学校にいた。外では風がだんだん強くなり、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
天候が悪くなるにつれ肌にピリピリとした感じ、カミナリのなる前のようなあのざわつく感じがした。なんだか醜悪なものが集まっているような感覚。私は学校から早く抜け出そうと廊下を急いでいた。
すると突然理科室から腕が伸び、私はその中へ引きずり込まれた。
そこにいたのはAたち三人組だった。
「おいクソゴミクズ野郎」Aが言った。「チクってんじゃねえよ、カスが。内申に響いたらお前マジで殺すからな」
「まず土下座しろ」Bが言う。そして理科室の扉のカギを閉め、密室空間を作り出した。
「いや自分で死ね。窓から飛び降りろ」Cはそう言うと、私の背中を蹴り飛ばした。体の大きいCは彼らの中でいつも最初に手を出す役割だった。彼から伝わって来るイメージは常に『Aにどう見られているか』でしかなかった。
「お前らコイツの手を抑えろ」
Aの命令に二人は従った。Aはおもむろにライターを取出し、私の腕を炙り出した。私の腕には、このときのヤケドの痕がまだ残っている。
そのときの私の悲鳴は、窓に打ち付ける強烈な風雨でかき消されてしまった。雷が鳴り響き、理科室の電気が明滅を繰り返す。その陰影の中でニヤニヤと笑うAの顔は悪魔のようだった。
Aは理科室にあったアルコールランプのフタを取ると、中の液体をすべて私の頭にかけた。
「え、ちょっとそれは……」
BとCの恐怖が私に伝わってきた。
「黙ってろ。こいつもあの便所虫みたいに学校から消してやる」
私は恐怖に脅え失禁していた。目に液体が入り視界がぼやけている。鼻にツンとくるアルコールのにおいを、まるで病院の中の死のにおいのようだと感じた。
そのとき、私の頭にあのときのようなバットで殴られた感覚が襲ってきた。
「あいつら」が屋上から動き出した。まるでAの暗黒とシンクロするように。
「こ、ここから逃げなきゃ……」私は吐き気の中で言った。涙と液体が混ざって目からこぼれていた。
「逃がすわけねえだろ……ん?」
Aが持ったライターの火がふっと消えた。密室のはずの理科室内に風が吹き始めた。
「ウワバキカエシテ」
「今……なんか言ったか?」
Aがけげんな目でBたちを見た。BとCは首を振った。電気の明滅が激しくなり、カーテンがバタバタと揺れている。
「ウワバキヲカエセ」
今度は私の耳にもはっきりと聞こえた。それは理科室の壁時計の横にあるスピーカーから流れていた。確かに聞き覚えのある声。中村恵太のその声だった。
「変なイタズラしてんの誰だよ! やめろ!」
Bはそう言うと、壁に付いていたスピーカーの音量つまみをひねり、オフにした。
しかし声は止まなかった。
徐々にこちらに近づいてくるように、スピーカーから流れ続ける。
「ウワバキカエセ……ウワバキカエセ……ウワバキヲカエセッ!」
「な、なんかここヤバいよ。そ、外に出た方が良い」Bは自分で閉めた扉の方に走った。「あれ? カギ開かねえぞ。なんだこれ、開けっ、開けよクソッ!」
カミナリが校庭の木に落ち、轟音が響いた。
窓ガラスが割れそうなほどに膨張していた。黒いカーテンはコウモリが羽ばたくように激しく波打っている。部屋の中の机や椅子がガタガタと揺れ出した。理科室の机についた蛇口が破裂して、水が天井まで噴き出した。
「おい、どうなってんだこれ」
Cがそう言ったときだった。
突然、窓ガラスが割れ風雨が室内に流れ込んできた。その向こうにはおさげ髪の少女が立っていた。
「な、なんだコイツ! オ、オイやめろっ、俺に触るな!」
少女は窓から体を教室の中に入れると、Cの胴体を抱え込んだ。
「ネエオシャベリシヨウヨ。ズットトモダチダッタデショ。ナンデオシャベリシテクレナイノ?」
「おい、やめろ! 手を離せっ、やめろ! やめろおおぉぉぉぉぉ」
少女はCと共に三階の窓から落下した。Cの声は地鳴りのようなドスンという音と一緒に聞こえなくなった。
「うげえ、バ、バケモノだ! や、ヤバイ、早く逃げないと!」
Bは必死に扉を開けようとしていた。その様子に理科室の後ろにあった人体模型がケラケラと笑い始めた。
「オボッチャン。ウエノカンキマドナラアイテルヨ、ソコカラナラデラレルヨ」
体の右半分が解剖図になった人体模型の言葉に、Bは青ざめた表情を浮かべた。入り口の上にある喚起窓は開いていた。Bは壁のでっぱりに足をかけると、つんのめるようにその窓に体を乗り上げた。
Bの体が腰まで廊下に出たとき、Bが履いていた学生服のズボンからベルトがするりと抜けた。
ベルトは意思を持ったヘビのように、喚起窓のカギの部分とBの首元に引っかかった。
Bが体を廊下側に投げ出した時、Bはぶらりと首つり状態になっていた。
私の耳にはうめき声と、足をバタバタと動かす音だけが聞こえていた。
「なんなんだよこれ……」
Aは目の前で起き続ける惨劇を呆然と見つめていた。私の真横にあった膝がガクガクと震えていた。
「あいつらが来る。早くここから逃げないと」私は言った。
「あいつらって誰だよクソが!」Aは私の顔を平手で引っぱたいた。「俺をビビらせて逃げようとしたってムダだっ、お前ごとき最底辺野郎に俺がビビらせられてたまるかよ! こんなの怖くねえ! ぜんぜん怖くねえからな!」
「ウワバキカエシテ……」
「おい誰だ、出て来い! ぶっ殺してやる!」
Aは立ちあがると、近くにある椅子を掴んでめくらめっぽう振り回した。机の上にある実験器具を薙ぎ払い、ロッカーのガラスを叩き割る。私は落ちてくるガラスの破片から身を守るように体を丸めた。
「ウワバキカエセ……ウワバキカエセ!」
スピーカーの中から聞こえていた言葉が、部屋の中全体に反響し始めた。
Aの振り回していた椅子が机に当たって粉々に砕けた。
部屋の中は暴風雨と破裂した蛇口で水浸しだった。雷の光に照らされたカーテンの影が、部屋中をダンスするように飛びまわっている。
「オイボッチャン! ナニカヌスンダナラカエシタホウガイイヨ! ドロボウハジゴクイキダヨ!」
人体模型が笑いながら言う。Aはウルセエと言って、近くにあった地球儀を投げつけた。直撃した人体模型はバラバラに壊れたが、笑い声だけは響き続けた。
「畜生っ。なんのイタズラだよ、これは! やった奴みつけたらマジで殺してやる。殺してやるからな」
私がうずくまった状態から顔をあげると、拳を振り回しているAの後ろに黒い影が立っていた。
全身がドロドロに汚れ、皮膚が腐ったように溶け落ちている。
体中にフジツボのようなものが繁生し、その中をムカデがはい回っている。
輝いていた眼球はもうない。人懐っこい笑顔ももうない。
でも私には分かった。彼は中村恵太だった。
気配に気づいたAは背後に顔を向けた。
「ウワバキカエセエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
恵太は正面からAの顔を掴むと、蛇口からあふれた水で満杯になったシンクへAを引きずり込んだ。
逆さまになったAの手足が、バタバタと空中でもがいていた。恵太の姿は見えなくなり、小さな排水口の穴から伸びた手がその体を掴んでいる。小さな排水口にAの体がどんどん飲み込まれていく。バキバキと骨の砕ける音が辺りに響き続けた。
Aの体がすべて見えなくなったとき、詰まったトイレを流し終わった時のような音と彼のうわばきだけがそこに残されていた。
「ボッチャン! アンタオイシソウナニオイシテルネ! ミンナアンタノコトタベタガッテルヨ!」
首だけになった人体模型の言葉で、私はふっと我に返った。
逃げなければ。ここから一刻も早く脱出しなければ。
私は理科室の入口の扉を開けようとした。しかしBと同じように開けることは出来なかった。私は目を瞑って集中した。『カギが開かないワケなんてない。絶対に開く。カギなんてまやかしなんだ』
カチャリという音がすると、理科室の扉は開いていた。
私は急いで廊下に飛び出した。
入口の廊下側には、首吊り状態のBがぶら下がっていた。舌をだらりと垂らし、排泄物のにおいが漂っている。
廊下の左側を見ると、血まみれのおさげの少女と手首から血を流した教師が立っていた。反対側からは、プールで見た腐った死体やハエまみれの太った少女がこちらを見つめている。
私はその間にある階段に向かって走った。
階段の下には恵太が立っていた。
「ネエソウスケクン。ボクノウワバキドコ?」
恵太は糸の切れた操り人形のような動きで階段を上がって来た。
一段上がるたびに、体からぼろぼろと何かが零れ落ちている。
私は恐怖で呼吸もできなかった。あれは恵太であって恵太ではない。恵太を食いつぶしてしまった「あいつら」の一員なのだ。
「ウワバキドコオオオオ!」
うわばき……。あのときにAたちは恵太のうわばきを持って屋上へ上がって行った。すべての暗黒の出所である屋上へ。
私は屋上に向かって走り出した。そのとき足首を恵太の指がかすめたのを感じた。必死で駆け上がった私は、屋上の扉を開けると外へと飛び出した。
外に出ると激しい暴風雨が襲いかかってきた。風と雷がカン高い悲鳴のように、耳の中にこだましている。私は目を瞑って歩き出した。
どうせこの状況では何も見えはしない。恵太が残したぬくもりみたいなものがきっとあるはずだと信じて、一歩一歩踏み出して行った。すると、冷たい雨の中にわずかに暖かく感じる場所があった。
私が目を開けたとき、その前にあったのは、数年前に使われなくなった巨大な貯水槽だった。
貯水槽の横にあるハシゴを登ると、フタの横に腐った南京錠が落ちていた。潜水艦の入り口のようなフタを開けると、強烈な悪臭が飛び出してきた。鉄サビと腐った生ゴミのような臭い。フタの裏から慌てふためいたムカデがボロボロ落ちて行く。貯水槽のハシゴの所には「あいつら」が追いついて来ていた。
私は意を決して貯水槽の中に飛び降りた。
貯水槽の床には、何十センチものヘドロが溜まっていた。私は着地した時に滑って尻もちを付いてしまった。同時に貯水槽のフタが轟音を立てて閉まった。真っ暗闇の密室の中に閉じ込められてしまった。
床をまさぐると、手にヘドロがこびりついた。強烈な悪臭で、呼吸するたびに吐き気に襲われた。もぞもぞと動く虫が、服の中を這いずり回って私の肌を食おうとしている。
壁に手を付いたときヌルッとした感触が伝わってきた。顔を上げると、そこには人間の眼球があった。真っ暗でなにも見えないはずなのに、四方八方から数百の目が私を見下ろしているのが分かった。私は喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。
外では「あいつら」が壁を叩きながら叫び始めた。
「ウワバキカエシテ! ドウシテシャベッテクレナイノ! ボクハクサクナイ! オボッチャァァァン」
私の足にゼリーのような感触の何かが巻き付いた。
「あいつら」に足を掴まれた。「あいつら」が中に入ってきてしまった。
私はパニックになり振り払おうと必死でもがいた。しかし、ヘドロの中をずるずると引っ張られていく。口や鼻の中にはヘドロが入り込んでくる。
汚物が肺にまで流れ込み、息ができなかった。私の足が、貯水槽の吸水口の小さな穴に、引きずり込まれるのを感じた。つま先に万力で潰されるような激痛が走った。
「オボッチャアアアアン、コッチノセカイニオイデエエエエエエ」
私はもう死ぬんだ。恵太と同じように「あいつら」の闇に飲み込まれてしまうんだ。
そう思ったとき、ぬるぬるするヘドロの中にある固い何かに手が触れた。濡れたカーテンのような物にくるまれた、ざらざらした固い物。手に取るとそれは骨だと分かった。腐敗が進み、溶け落ちた肉片がこびりつく骨。
頭の中に、恵太のくしゃっとした笑顔のイメージが流れ込んできた。私たちが共に過ごした、半年足らずの日々のイメージが。私は恵太の骨で、足を掴むゼリー状のモノを叩いた。恵太の骨はバラバラに砕けたが、私を掴んでいたモノは吸水口の中に引っ込んだ。
私は恵太の骨があった場所まで這い寄った。
その辺りのヘドロを両手で浚う。恵太の学生服、髪の毛の付いた頭蓋骨が手に触れた。
そしてうわばきがそこにあった。
恵太はここでうわばきを見つけたんだ。
そして「あいつら」に捕まってしまった。
私は恵太のうわばきを掴んだままうずくまった。そして両手の人差し指と中指を交差させ、心の中で唱え続けた。
『うわばきあったようわばきあったようわばきあったようわばきあったようわばき……』
「ウワバキ、アッタネ」
貯水槽を叩く「あいつら」の拳の音と、叩きつける雨の音が止まった。
それから私はしばらくうずくまったままでいた。
どれくらいの時間が経っただろうか。ぬるぬるしていたヘドロは、固まって私の肌に張り付いていた。何百もの目と虫たちは、いつの間にかいなくなっていた。
私はのっそり立ち上がり、体中の関節を老人のように軋ませながら貯水槽から脱け出した。
外の風雨は治まっていて、空には満点の星が輝いていた。
私は自然と流れていた涙をぬぐった。
そして恵太のうわばきを抱えたまま、家路を急いだ。
◆ ◆ ◆
「パパ、ただいまー」
娘の言葉に、私はハッと現実に引き戻された。
娘は小五のくせに「はあ、疲れた疲れた」と言いながらキッチンへ入って行った。ただ夏休みのラジオ体操を終えてきただけだと言うのに。
娘は喋りながらもずっとスマホをいじっていた。
彼女たちの世代ではスマホのラインイジメなどが問題になっている。私たちの子供時代とは、登場する小物こそ違えど、学校の人間関係が難しい物だと言うことは何ら変わらないのだろう。
私が通っていたあの中学は、その後すぐに取り壊され移転することになった。
死体が三つ見つかり行方不明者が一人出るなど、あまりに不吉すぎると問題になったからだ。
うわばきは恵太の火葬のときに、一緒にお棺に入れて燃やしてしまった。
恵太の母親は全てを失い焦燥しているようだった。その後の消息を私は知らないのだが、噂では自殺したらしいということも聞いている……。
私は恵太に何もできなかったことをいまだに引きずりながら生きている。
それでも、妻と娘に囲まれて幸せに暮らせているのは、恵太が私に残してくれた僥倖と言うべきなのだろう。
「パパー。アイスないよぉ、買って来るからお金ちょう……」
娘の顔色が私を見て変わった。いや、私を見てではない。私の後ろにある洗濯物を見て変わったのだ。
私が不思議なモノを見たりする能力は、大人になるにつれ消えて行った。
ただ私が恐れていたことがある。この能力は遺伝するのだろうか? この能力は人を決して幸せにするものではない。「あいつら」はこの能力を持った者を、取り込みたいと待ち構えている。
娘には幸いにしてこの能力は受け継がれていないようだった。しかし……
人間の隠された能力は突然発火してしまうことがある。身近になんらかの引き金になるような物があった場合。たとえば、その当時の鮮明な記憶を蘇らせている人間が身近にいるような……
「パパの後ろにいる男の子はだぁれ?」