淀殿と北政所と小早川秀秋
関ヶ原の戦いの後、豊臣家の領地は220万石から、65万石に激減している。
これは、徳川家康が戦後処理において太閤蔵入地を諸大名に分配したためである。
負けた西軍の大名の領地ならともかく、なぜ太閤蔵入地の分配が家康に可能
だったのだろうか。徳川家康はあくまで東軍の総大将であって、徳川家が
豊臣家をたおしたわけでも何でもない。
いくら5大老筆頭とはいえ、豊臣縁故の大名はまだたくさん残っている。
無理に豊臣家の領地を削ろうとすれば、、関ヶ原第二幕が始まってもおかしくない。
大義名分もなく、負けるのは確実に徳川家である。
つまり、豊臣家が許可して分配がおこなわれたということだ。
その時点で、許可をだせるのはだれだろうか。
淀殿ではあり得ない。淀殿には、あくまで秀頼の生母としての立場しかなく、
豊臣家のことに口をだす権利を持っていない。秀頼は元服しているとはいえ8才であり、
守役の前田利長が許可したところで縁故の諸大名が納得しないだろう。
そう考えると、北政所と考えるのが自然であるが、
関ヶ原の戦いでは、北政所は表面上中立を保っている。
その北政所が、東軍の為に太閤蔵入地の分配を許可するのもおかしな話である。
そこで考えられるのが、豊臣家一門宗筆頭で東軍の勝利に貢献した
小早川秀秋の提案を北政所が許可したという形である。
小早川秀秋は、
「秀頼の元義兄」で、
「関白になるための教育」をうけたことがあり、
「北政所の甥」で、
「岡山55万石の大名」で、
「東軍の勝利に多大な貢献」をしている。
秀秋と北政所の言うことであれば、淀殿や縁故の大名も納得しただろう。
それでは、なぜわざわざ豊臣家の領地を削ったのだろうか?
小早川秀秋と北政所は、豊臣家を武家としてではなく、
摂関家として存続させることを考えたのではないだろうか。
公家であれば、多すぎる領地は邪魔でしかない。
徳川家康の孫である「千姫」との結婚も、武家としては大事だが、公家として
存続させるのであれば、他の考え方もでてくる。
実際、朝廷は一貫して秀頼を摂家である豊臣家の後継者とみなしており、
1607年に秀頼が右大臣を辞するまで、摂関家の家格に沿った
位階や官位の昇進を遂げている。
小早川秀秋が生きていたら、彼が守役として秀頼を関白にできる筈だった。
それは、淀殿が望んだことでもあった。
淀殿は、
幼少期に、浅井、柴田の二家の滅亡を経験し、
秀頼が産まれた際には、そのあおりで豊臣秀次一族が全滅し、
秀吉の死後は、東軍西軍の争いに巻き込まれかけた。
権力者に振り回され続けた人生であり、秀頼には安らかな日々を望んでいた。