陰謀説の限界をこえて
ここまで、小早川秀秋がすべてを操って東軍を勝たせたという話をしてきた。
このような陰謀説でよく言われる反論に
「通信手段、通信速度が限られる戦国時代に、様々な場所や日時で発生した事柄を、
一人の人物が秘密裏に操ることなど出来ない」というものがある。
実際、関ヶ原の戦いの前には、両軍による勧誘合戦が行われており、多くの書簡が現存している。
そのなかには、小早川秀秋が徳川家康に送った手紙や、小早川秀秋が受け取った手紙も残っており、
陰謀説の入り込む余地はないように思える。
しかしながら、「その場に関係者が居る」ならば書簡は不要であり、
「絶対に表沙汰に出来ない」話ならば、書簡には残せない。
「田辺城の戦い」では、「三条西実条の正室の兄」で「前田玄以の嫡男」である前田茂勝と、
「ねねの従兄弟」である杉原長房が参戦している。細川幽玄は、嫡男忠興の嫁である
細川ガラシャが7月18日に自害しており、討死以外に面目を保つ手段がなかった。
朝廷が「ねねの要請で介入した」なんてことは、表沙汰にできるわけがない。
「大津城の戦い」は、「秀吉の側室の京極竜子の兄」である京極高次が東軍に寝返った
ことではじまった。また、西軍で「小早川秀秋の兄」の木下俊定か参戦している。
ねねの力を使えば、竜子を通じて高次を動かすことは容易だった。
しかし、これも書簡には出来ない。ねねが東軍に肩入れすることが分かれば、
その時点で東軍の勝ちが決まってしまう。そんなことを西軍首脳部が許す訳がなかった。
ねねは実兄である「木下家定」に護衛され、中立を保つ姿勢を見せた。
京極高次は、自分の意思で東軍に寝返ったという立場を貫くことになる。
小早川秀秋がねねの力をつかって東軍を勝たせ、ねねがそれを許可した理由。
それは、北政所のもつ「大名の妻子への監督権」を三成達西軍首脳部が
侵し、細川ガラシャを自害させてしまったことからである。
最初の方針である「大名の妻子を人質にするために大阪城に入れる」ならば、問題はない。
また、「大阪城に入れるために、北政所に命令してもらう」であれば
細川ガラシャが自害していても細川家の命令違反で話はすんだ。
ガラシャが自害してしまった後、西軍首脳部が北政所に公式に謝罪していれば、
まだ取り返しもついたかも知れない。
そのどれも行われなかった結果、北政所は西軍を見限った。