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金吾殿  作者: さんろ
7/10

小早川秀秋の事情

田辺城の戦いでの古今伝授伝授のながれを見て、おかしいと思わなかっただろうか。


討死を覚悟した細川幽玄が7月27日に古今伝授をした相手は、

「三条西実条」ではなく「八条宮智仁親王」なのだ。

実条には、9月13日の開城の際に古今伝授している。


幽玄が古今伝授を伝授されたのは、三条西家の相伝が絶えたときの為の

避難措置としてである。真っ先に伝授されるべきなのは、実条なのだ。


師匠である三条西実枝は、幽玄に伝授する際に二つのことを誓わせている。

「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと」

「三条西家の相伝が絶えたさいには、責任をもって三条西家に伝授すること」


実際、嫡男の細川忠興には、伝授を行っていない。

親王とはいえ、伝授されていること自体が、おかしいのだ。

しかも、三年後のは、勅使の一人だった烏丸光広にも伝授している。

なぜだろうか。


500対15000の籠城戦が2ヶ月もかかったのは、途中で朝廷の介入があったためだ。

2ヶ月もかかったせいで、関ヶ原の戦いに間に合わなくなってしまう。


「関ヶ原の戦いに間に合わなく」させるために、「朝廷を介入させた」。

これが、田辺城の戦いでの古今伝授の流れがおかしい原因だ。


「朝廷を介入させる」見返りに、「古今伝授を親王に伝授」させた

「古今伝授の価値」を「朝廷が介入する」ほどのものにしてみせ、

西軍の将として参戦している「三条西実条の正室の兄」である「前田茂勝」の立場を

保証することで、三条西家に「他人への伝授」を容認させた。

他の公家への配慮として、「烏丸光広」にも伝授をおこなわせた。

「朝廷の介入」を免罪符として、降伏や討死ではなく「講和での開城」により、

細川幽玄の名誉と命は保たれた。



「小早川秀秋」が、「ねねの力を使って」まで田辺城の戦いを

引き伸ばしたのにはわけがある。


「田辺城の戦い」は、500対15000の籠城戦で、7月19日に始まり

9月13日に田辺城を開城し、細川幽玄が前田茂勝の居城に身を移した。

参加した西軍の兵は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。


同じく参加した西軍の兵が関ヶ原の戦いに間に合わなかった戦いに「大津城の戦い」がある。

京極高次が東軍に寝返ったために起こった戦いで、3000対15000の籠城戦で、

9月7日から9月15日まで行われ、高次の降伏で終了した。


「田辺城の戦い」「大津城の戦い」のせいで、9月15日に行われた

「関ヶ原の戦い」に参加出来なかった西軍の兵は30000にも及ぶ。


「関ヶ原の戦い」は、東軍80000西軍100000(諸説あり)で行われている。

小早川秀秋が寝返ったことで東軍が勝利した。もし間に合わなかった30000の兵が

参戦できていたら、小早川秀秋の兵15000が寝返ったとしても東軍は勝てていただろうか。


関ヶ原の戦いは、小早川秀秋が「9月14日」に松尾城に陣を敷き、同日に「前田茂勝の父」で

西軍首脳部であるはずの前田玄以が大阪城を出て閑居し、14日夜に「徳川家康」が中山道を

西に向かったことで、西軍が関ヶ原に兵を進めて「9月15日」に激突する。


全ては、小早川秀秋のねねの計画通りに。

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