田辺城の戦い
田辺城の戦いは、慶長5年(1600年)7月19日から9月6日にかけて行われた。
東軍の細川幽玄が兵「500」を率いて籠城し、
西軍の小野木重次・前田茂勝ら丹波・但馬の諸大名の兵「15000」が包囲した。
すぐに落城寸前になるも、西軍には幽玄の弟子も多く、攻撃は積極性に欠けた。
古今伝授の断絶を怖れた朝廷は、幽玄の弟子でもある八条宮智仁親王が、
7月27日に幽玄に対して使者を送り和睦を勧めた。
幽玄はこれを断って討死の覚悟を伝えると共に、
親王に「古今相伝の証明状」「古今伝授の箱」を贈り、
朝廷に「源氏抄」「二十代和歌集」を献上している。
(八条宮智仁親王に古今伝授が成される)
9月3日、朝廷は「大納言三条西実条」「中納言中院道勝」「中将烏丸光広」を
勅使として送り、東西両軍に講和を命じた。
(勅使として訪れた実条に対して、幽玄は古今伝授を行っている)
勅命ということで幽玄も従い、9月13日に田辺城を明け渡して
敵将の前田茂勝の居城に移った。
この三年後、幽玄は烏丸光広に対しても古今伝授を行っている。
ちなみに、関ヶ原の戦いは9月15日だったので、ここにいた西軍の兵は
戦いに参戦出来なかった。
これが、古今伝授で有名な「田辺城の戦い」の概要である。
どこら辺が「ねねの力によって作り上げられた茶番」なのか、わかるだろうか。