ねねの力
小早川秀秋の叔母であるねねには、「北政所」という呼び名がある。
北政所は「「宣旨をもって特に授けられた」摂政、関白の正室の称号」なので、
関白の正室ならば全て北政所と呼ばれる訳ではない。
事実、豊臣秀次の正室である若御前(池田恒興の娘)は北政所と呼ばれていない。
北政所というと、側室である淀殿との対立や、大名の妻子の纏め役といった時代劇のイメージが
強いが、最も重要な仕事は「朝廷、公家との交渉を一手に引き受ける」ことだった。
これは秀吉の生前から変わらず、聚楽第への後陽成天皇の行幸では、諸事万端を整えた功で
従一位に叙されている。
秀吉の関白任官が1585年、関ヶ原の戦いが1600年なので、15年もの永きにわたって、
ねねが朝廷や公家との交渉を独占してきたことになる。
そのねねが持つ「力」を、小早川秀秋は使うことが出来た。
その「力」で、伏見城の戦いでは実兄の木下勝俊を、田辺城の戦いでは細川幽玄の命を救っている。
「古今伝授が失われるのを怖れ、細川幽玄が討死しないように朝廷が勅使を派遣して講和させた」
という、歴史好きにはよくしられたエピソードのことである。