天使ティグリス
「よいしょっと……」
居間から避難してきた俺は脱衣所で服を脱ぐ。
うー、寒いな。はやくお湯に浸かりてー。
居間は暖房が利いているため暖かいが、ここはそうじゃない。裸で一、二分もいたら風邪を引いてしまうだろう。
なるべく早く服を脱ぎ、風呂場へ突入。今すぐにでもお湯に浸かりたいところだが……がまん、がまん。とりあえず体を洗い、シャワーで流す。
そして顔と頭を洗おうとしたところで、
「あっ」
今更変えのシャンプーを取り忘れていたことに気が付いた。うっかりしてたな。唯奈にきちんと言われたのに。寒さのせいで完全に忘れてたじゃねえか。
変えのシャンプーは出てすぐのところに仕舞ってある。だからほんのちょっとのことだけど……まぁいいや。とりあえずお湯に浸かろうかな。一度きちんと温まっておきたいし。
そう思って俺は少し多めに溜めておいた湯船にゆっくりと浸かった。
ちなみに家の風呂場はそこまで広くない。一般家庭並みだと思う。洗い場が少し広いと言えば広いのだろうけど。でもまぁ、せいぜい入れても湯船には二人同時が精いっぱいだろう。
と、俺がそんなことを思いながら疲れを癒していると、
コンコンコン。
脱衣所へと続くドアを何者かにノックされた。
「ん? 誰だ?」
「わたくしよ」
「ティグリスか? なんかあったのか?」
まさか入ってくるとか言わない、よな?
「今から真志さんのお背中を流してあげようかと」
「……ッ。い、いらないからな!? 入ってくんなよ! 絶対に!」
「ふふっ、冗談よ」
「冗談かよ!」
少し期待しちまった……じゃなくて!
めちゃくちゃ焦ったじゃねえか。本当に入ってきたらどうしようかと思ったぞ。
「で、何の用なんだ」
「『洗顔も取り替えないといけないんだった』って唯奈ちゃんが思い出したように言っていたから、わたくしが唯奈ちゃんの代わりに伝えに来たのよ」
「そうだったのか」
洗顔も切れていたのか。顔を洗う前にシャンプーの件を思い出したから気付かなかったんだよな。
「わざわざ悪いな。あ、そうそう。すまんが洗顔ついでにシャンプーの新しいやつも取り出してくれないか?」
「シャンプーも?」
「あぁそうだ。うっかり取り替えるのを忘れていてさ。この後一度出て取り出そうと思っていたから助かったよ」
「いえいえ、大したことではないわ。シャンプーはこれかしら? 真志さん、黄色い方で間違いないわよね? オレンジ色のもあるけれど」
「黄色い方がシャンプーだ。洗顔と一緒にドア付近に置いといてくれ」
「わかったわ」
そう言うと、コトっと何か物を置く音が聞こえた。これで無駄に寒い思いをしなくて済む。ティグリスが脱衣所から出て行ったら取りに行くとしよう。
そして、脱衣所からティグリスが出て行くのを俺が湯船に浸かりながら待っていると、
「それじゃあ失礼するわね」
ガチャリ。
「――え?」
気付いた時にはもう遅かった。
ティグリスが……ティグリスが入ってきやがった!
「ちょ、おいなに勝手に入ってきて……って、バカ! なんでタオル巻いてないんだよ!」
全裸だった。見事にすっぽんぽんだった。体を隠すものは何も身に着けていない。
「わたくしのボディは完璧よ。だからタオルで隠す必要なんてないわ」
「いやそういうことじゃなくて!」
セクシーポーズを取っているティグリスからすぐさま目を反らしたのだが、完全に目に焼きついてしまった。
豊満な胸。結っていた髪を下した姿。出ているところはしっかり出ていて、引き締まっているところはキュッと細くなっている完璧な肢体。シミ一つない白い肌に艶やかな色を放つ紫色の羽。
湯気補正なんて存在しなかった。やっぱりあれは都市伝説だったのか。
「ま・さ・し・さぁん。ちゃんとわたくしの体を見て?」
「見れるかああああああああああ」
「ふふっ。もう、赤くなっちゃって。ほんとかわいい反応をするわね。それじゃあ」
ザアアアアア。シャワーを出してティグリスが体を流し始める。
お、おい。まさか本当にこのまま体を洗ったりするんじゃ――ごしごし、ごしごし。
そのまさかだった。
俺は背中を向けているため詳しいことはわからない。だが、今の音は間違いなくタオルを泡立てて体を洗っている時のものだ。ま、まずいぞ。このままティグリスが体を洗い終えてしまったら、きっと恐ろしいことが起きてしまうに違いない。
俺はティグリスが体を洗っている間に、どうにかしてこの場から逃れる方法を考え始めた。
まず、俺がここから脱衣所へ行くにはどうすればいい? ティグリスのことをなるべく見ないようにするには……目を瞑っていけばいい。ドアまでの距離はそんなにないし、壁伝いに行けばいいから迷うこともない。
いやしかし、それだと不運にもティグリスと接触してしまう可能性がある。ううん、可能性があるんじゃない。確実に接触してしまうんだ。
俺が目を瞑って壁伝いに移動していたらティグリスはどうすると思う? 絶対、俺の行くルートに体を割り込んでくるに違いない!
「ふふっ、ルナでもないけれど、今あなたの考えていることは何となくわかるわよ?」
「……ッ」
「どうせ今、ここから脱出する方法を考えているんでしょう? でも、無駄なことよ。どんな方法を取ってもあなたは確実にわたくしと接触する。くすっ」
こ、こいつ……この状況を楽しんでいやがる!
「そんなに俺を困らせるのが面白いのか」
「ええ、面白いわよ。それに……」
「それに?」
な、なんだ? まだ何かあるっていうのか?
「…………」
しかし、返事をいくら待ってもティグリスは何も言わない。
「なんだよ。急に黙って」
「ううん、やっぱりなんでもないわ。……大丈夫よ、きっと保つはずよ」
後半部分はほんの小さな呟きだったけれど、俺にはしっかり聞こえていた。
大丈夫? きっと保つ? ティグリスは一体何の話をしているんだ?
「なあ、もし何か悩んでいるんだったら」
「ところで真志さん。頭を洗っていないようだけれど……なんならこの後、わたくしが洗ってあげてもいいわよ?」
「――へ? い、いいってば」
「そんなこと言わずに、ね?」
「いや、だから自分でやるって」
「もう、断らなくていいのに」
「……っ!?」
急に肩を掴まれた。そしてその手がゆっくりと滑り落ちて、俺の右腕を掴む。
「お、おい……」
「ほら。真志さぁん」
「や、やめろっ」
腕をつかんだまま、俺を湯船から引っ張り上げようとするティグリス。俺は必死に抵抗を試みる。湯船から出てしまったら終わりだ。それこそティグリスのやりたい放題にされてしまう。
そうして俺が数秒間抵抗し続けた結果。
「んもう、そんなに抵抗するのなら……えいっ」
ふよんっ。じれったくなったティグリスが予想外なことをしてきやがった。
湯船から出てしまっている右腕が、主に肘から手首にかけての部分が、とてつもなく柔らかいものに包み込まれる。
「ちょ、ちょっと……ティグリス、さん?」
「ふふっ、気持ちいいかしら?」
「……っ」
あまりにも衝撃的な出来事に俺は一瞬固まってしまった。ティグリスがその状態をよいことに、
「こればっかりはルナにはできないことよね。ちょっと太すぎるけど、試に練習してみようかしら」
とかなんとか言って、より俺の右腕に身体を密着させてきて――
ぐにょん、ぐにょんっ。
すりすり、すりすりっ。
柔らかいものが、
俺の肘から手首にかけて、
上下する!
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「きゃっ」
耐えられなくなった俺は――ざばんっ。
勢いよく立ちあがり、回れ右。すぐさま風呂場から出て行こうとする。
が、
「……っ」
見事なM字開脚をして尻餅をついているティグリスが目に入ってしまった。その衝撃的な光景に、ティグリスの肢体に俺の視線が釘付けになる。イコール足が止まっている。
俺の固まっている姿を見たティグリスがにやりと笑った。
「まぁ、真志さんったら」
(……呼んだか?)
そんな声がどこからともなく聞こえてきたような気がした。