天使ルナ
唯奈がカレーを温め直してから、みんなで食卓に着く。
そしてカレーを目の当たりにしたルナが、
「へー、これがカレーというものですか」
好意的な反応を示したのに対し、
「なかなか不気味な色ね。美味しいのかしら」
ティグリスは真逆の反応を示した。
「あれ、もしかして二人ともカレーを食べるのは初めてなのか?」
俺はそんな二人に対して首を傾げる。そもそもカレーを見ることすら初めてなんて珍しい。家へ移動している最中にあれやこれやと天国の話を聞いた限り、天国は地球と似ているらしいのだが。
「何を言ってるんですかトノサマ。天国にはカレーがないから云々って文句を言ってたじゃないですか」
俺の問いに対してルナが答える。って、バカ。天国なんて言ったら――
「てん、ごく……?」
ほら、唯奈が反応したじゃねえか。
「あー、唯奈。天国っていうのはルナたちの国を例えて言っているんだよ。ほら、どこの国に住んでいるとかも言えないからさ」
「な、なるほど……」
俺の言葉に唯奈が一応納得してくれた。
危ねえなおい。俺がすぐにフォローしておいたからよかったけれど、この調子でぽんぽん変な発言をされたらいつばれるかわかったもんじゃねえぞ。
「こら、下手に口を滑らすな」
一応、隣に座っているルナの耳元へ向けて小声で注意しておく。
「あはは、ごめんなさい。ついうっかりと……」
「うっかりとってお前なあ」
「仕方ないじゃないですか。私ですから」
「なんだよその理由。……はあ、まぁいい。これからは気をつけろよ」
「わかってますよ」
ルナが返事をしたところで、唯奈が会話に加わってきた。
「ねえ、何二人で内緒話してるの?」
「いや、なんでもないぞ。それより食べようか。冷めちゃうといけないし」
「あ、そうだね」
というわけで、全員で手を合わせる。
そして、
『いただきます!』
揃ってその言葉を口にする。その後、カレーをひと口。
「ん、なかなか美味しいじゃないですか。カレーというものは」
「そうね。見た目はアレだけど……悪くはないわ」
初めて食べたカレーの感想をルナとティグリスが順に口にした。どうやら二人の口には合ったようだ。初めて食べるって言っていたからちょっと心配だったけど、気に入ってもらえてよかった。
俺は、美味しそうにカレーを食べているルナに一ついいことを教えてやる。
「今食べているカレーも美味しいけどさ、実は一晩寝かせたカレーはもっと美味いんだ」
「え、そうなんですか?」
「あぁ。こう……旨味が増すというか、具に味がしっかりしみているというか。とにかく美味しいんだ。なんか上手く説明できなくて悪いな」
「いえいえ、別に気にしなくていいですよ。一晩寝かせたカレーは美味しい、ですね。そうなると明日の朝が楽しみです」
「だろ。俺も楽しみなんだ」
もちろん、このカレーの美味しさというのは唯奈の腕もある。市販のルーを使っているとはいえ、入れる具材や水の量、煮込み方などによって味は変わる。
いつ挑戦したかは忘れてしまったが、俺もカレーを作ったことがある。しかし煮込んでいる間にほとんど混ぜなかったのがいけなかったのか、底の方を焦がしてしまったんだよな。
うーん、なんか知らないけど俺って料理音痴なんだよなあ。唯奈はこんなにおいしく作れるのに……なんでだろうか。
「トノサマも練習すればきっと上手くなりますよ」
「うん? ルナ、一体何の話をしてるんだ?」
「それはもちろんカレーの話ですけど」
「そ、そうか……」
なんか時々ルナって俺の心を読み取ってくるよな。偶然ってわけでは……うん、ないよな絶対に。ちょっと訊いてみたいけど、ここじゃあ唯奈がいるし。
唯奈がいない時にでもいろいろ訊いてみようか。もしかしたら俺が過ごしたという天国での日々を思い出すきっかけになるかもしれないし。
「わかりました。じゃあトノサマ。今晩にでも」
「お、おう」
やっぱりルナは俺の心を読み取っているよな……?
そして食事を終え、みんなで他愛ない話をしていると、
「そういえば、ルナさん、ティグリスさん。その背中につけている羽って……本物じゃないよね? 時々動いているように見えるんだけど」
唯奈がさりげなく二人に質問をした。やはり気になっていたのだろう。こういうことってちょっと訊き難いもんな。
「え? もちろんこれは本物で――」
「動いているように見えるのは気のせいだと思うわ。まぁ、日本で言うところのコスプレか何かだと思ってくれたらいいかしら」
ルナが口を滑らしかけたところでタイミングよくティグリスが口を挟んだ。そのままティグリスと唯奈があれやこれやと二人で会話をし始める。
ふぅ、危ない危ない。ティグリスはしっかりしているようだけど……ルナは大丈夫なのか? さっき注意したばっかりだぞ。
「むむ、トノサマ。私はいつも通りです。だから大丈夫ですよ」
「それだったらもうちょっと気ぃ使ってくれ。このことを知られたらまずいんだろ?」
ティグリスにそう言われているし。ルナ自身がどれほど重要だと思っているのかは知らないけどさ。
「私にとってはどうでもいいですね。一人くらいにバレても大丈夫だと思ってます」
「どうでもいいのかよ! ていうか、バレたら具体的にどういう問題が起こるんだ?」
ルナにとってはどうでもいい。でもティグリスにとっては重要なこと。
この違いは何なのだろうか。
「んー、具体的なことを言いますと……もしバレてしまったら階級を下げられるんですよ」
「階級?」
「はい。私たちには階級というものが十から一まであるんです。数字が低いほど位の高い天使ということになります。それでティグリスは今、第七の位だったはずです」
「へー、そうなのか。第七の位ってことがどれほどすごいのかは知らないけど……。ちなみにルナは?」
「私は第十の位です」
「第十の位って……底辺じゃねえか!」
だからなのか。だからバレてもいいなんて考えが出てくるのか。
ティグリスの場合はバレてしまったら第七の位から第八の位に下げられてしまう。でもルナの場合はこれ以上下げられることはない。
「そうです、そうなんですよ。私はこれ以上下げられることはないんです。だから何をしても問題ないんです。いわゆる無敵状態。どうでしょう、すごいでしょう!」
「すごくねえよ! むしろ底辺であることを恥じろ! お前には向上心というものは無いのか!?」
「向上心? そんなものは地獄に置いてきました」
「置いてくなよ! 重要だろ向上心はどう考えても……って、地獄?」
「はい。私は一度地獄へ落とされましたからね。そこでトノサマと出会って一緒に天国へ戻ったんですが……」
「え? 地獄で俺と出会った?」
一体どういうことなんだ。俺は天国へ行ったということは聞いていたけど、地獄へ落ちたなんてことは聞いてないぞ。
「そういえばこの出来事すらも忘れてしまったんですよね……」
急に声のトーンを落とすルナ。
やっぱり俺がルナと過ごした日々のことを忘れてしまっているのがショックなのかもしれないな。
「そうです、ショックですよ。はやくトノサマには思い出してもらいたいです」
「わかった。俺も思い出せるように努力するよ。だったらあれだな。思い出すためにもこの後いろいろ話を聞かせてくれ。天国での出来事とか、地獄での出来事とか」
「ええ、もちろんですよっ。それじゃあ指切りしましょう」
「指切り? わざわざ?」
「はい。トノサマと約束事をするときは必ず指切りをしていましたからね。だから……ん」
そう言ってルナが小指をこちらに差し出す。なんだか少し恥ずかしいけれど……まあいいか。俺は小指を出してルナの小指に絡ませる。
すると、
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら『アーッ』な出来事を、してもらう。ゆびきった」
「なんだよそれは!」
『アーッ』ってなんだよ、『アーッ』って。なんだかすごく恐ろしいぞ。
「え、それはもちろん『アーッ』な出来事に決まってるじゃないですか。記憶がなくなっていても……トノサマは絶対に『攻め』ですよね?」
「腐っているのか、腐っているんだなお前は!」
「へ? 別に私は腐ってないですよ。何を勘違いしてるんですかトノサマは」
「え、いや、だって」
『アーッ』といえばその、なんだ。一部の女子が好きな奴だろ? 詳しくは知らないけどさ。ガチムチだったりとか、そういうことを言ってるんだよな?
「やっぱり勘違いしているじゃないですか。私が言ったのはそういうことじゃなくてですね」
「どういうことなんだ」
「『アーッ』っていうのはもちろんトノサマがイった瞬間の声なんですけど、相手は男の人じゃありません」
「……っ。じゃ、じゃあ誰だっていうんだよ」
さりげなく『イった』なんて言わないでくれ。恥ずかしいって思わないのか!?
「別に恥ずかしいなんてことはないですけど。それと、相手はもちろん私に決まっています。その、記憶がなくなっているとはいえ、やっぱりトノサマは私を攻める方ですよねってことを今確認」
「スットプストップスットプ。そこまでにしようか、話が変な方向にいってるぞ!」
俺は手を前に突き出して会話を中断させる。どうしてこう、ティグリスといいルナといい……そっち関係の話が好きなのか。
もしかして天使全般がそういうものなのだろうか。
「いえ、別にそんなことはありませんよ。ただ、私たちがそういう話に発展していったりしてしまうのは……おそらくトノサマのせいですよ」
「俺のせい!?」
「ええ、トノサマと一緒に毎日を過ごす天使は誰もがそうなってしまうと思います」
「――え?」
ちょ、ちょっと待て。天国にいた時の俺ってそんなに下ネタばっかり言っていたのか!?
「いえ、下ネタじゃなくてですね、実際にそういう行為を」
「それ以上は言うなああああ。俺は自分自身が信じられなくなる!」
天国の俺、やばくねえか!?
その記憶がもし俺に戻ったら……うおおおおおおお、さすがにそれはまずい!
ここには唯奈もいるんだ。記憶が戻って性格が変わったりしたら――
「さすがにそれはないですよ」
「どうしてそう言い切れるんだ」
「もちろん私がトノサマの契約者だからです。トノサマのことは何でも知っていますからね。だから『トノサマ』が唯奈さんを襲うということはないと言い切れます」
「え? おにいちゃんが、ゆいなを、襲う?」
と、ここで自分の名前が聞こえてきたためか、唯奈が俺たちの会話に入ってきた。
「な、なんでもないぞ、唯奈。聞き間違いだ、聞き間違い。『襲う』じゃなくて」
「『食べる』でもいいんじゃないのかしら?」
さらに横からティグリスが加わる。
「おにいちゃんが、ゆいなを……食べる?」
「そうよ、唯奈ちゃんはいずれ真志さんに食べられてしまうのよ」
「うおい! ティグリス話をややこしくするな!」
「あら、別にいいじゃない。いずれは食べるんでしょう? 真志さん」
「食べねえよ! 頼むから変な方向へ持っていかないでくれ!」
「くすっ。ほんとからかい甲斐のある人ね」
「……ッ」
くそう、俺をからかって楽しみやがって。
でも、漸くティグリスやルナの性格がわかってきたぞ。まだ天国で過ごした日々とかは何も思い出せていないけど、この調子ならいずれは思い出せそうだな。
「こ、こほん。それじゃあ、俺は風呂に入ってくるから」
これ以上からかわれるのが嫌になって俺は立ち上がる。すると、唯奈が小さな声を漏らした。
「あっ」
「どうかしたのか?」
「いや……確かシャンプーが切れていたなあって思って。おにいちゃん、悪いけど新しいやつに取り換えといて」
「おう、わかったよ」
俺は返事をした後、これ以上ティグリスに変なことを言われないうちに居間を後にした。