記憶喪失
「そこまでです!」
そうして俺が理性を押さえきれずに白エルちゃんに手を伸ばしかけた瞬間だった。ガラガラと勢いよくドアが開き、少し青みがかった銀髪を腰まで長く伸ばした少女が部屋に入ってきたのだ。
それによって俺は白エルちゃんに近づけていた手の動きを止め、ハッと我に返る。
あ、危なかった。今、間違いなく俺は――
「トノサマ、彼女に騙されてはいけません!」
少女が俺に向かって大声を上げた。騙されるって一体何に? この白エルちゃんに?
――いや、それよりもだ。今俺のあだ名を呼んだよな?
この少女も白エルちゃんと同様、どこかの学校の制服と四本の天使の羽を身に着けていた。ただ白エルちゃんと違って、片方の羽が純白でもう片方の羽は漆黒に染まっている。
どこかで見たことがあるような、ないような姿だが……ん、ちょっと待て。この透き通るような声。 俺のあだ名。もしかして俺をここまで運んでくれた少女か?
そのことは口にはせず、頭の中で考え込んでいると、白エルちゃんが俺から視線を外し、ドアの方、もう一人の少女の方を向き――
「あら……もう抜け出してきたのね、ルナ」
一気に雰囲気を変えた。先ほどのような丁寧な口調、声音ではない。
それを聞いたルナと呼ばれた少女はふんと鼻で笑った。
「まさかあんなふうに罠を仕掛けているとは思っていませんでした。反対側のドアを開くだけで良いなんて、私をバカにしすぎではないですか、ティグリス」
「そうかしら? あなたにはちょうどいいくらいだと思ったのだけれど?」
「む、やはり私をバカにしてますね!?」
「さぁ、それはどうかしら?」
「ぐむむ……まぁいいですよ。いつかは私が罠を仕掛けてやりますから」
「ふふっ、それは楽しみね」
敵対関係、ではなさそうだ。二人からはそこまでピリピリした空気が感じられない。仲の良い友達、もしくは共に切磋琢磨し合ってきたライバル、とでもいったらよいのだろうか。
――いや、それにしても。
エルシュリカと名乗った少女は偽名を使っていたらしい。本当の名前はティグリスか。どうして偽名を名乗っていたのか。もちろんそんなことはわからない。が、
さっきルナと呼ばれた少女のセリフから考えると、やっぱりティグリスという少女は俺を何かの罠にでもハメようとしていたのかもしれないな。
「そうですよ、罠にハメられかけてたんですよ!」
どうやら俺の考えは正解だったらしく、ルナがこちらに向けて声を上げた。
そうか。やっぱりそうだったのか……って、あれ? 今俺、声に出したっけ?
うっかりしゃべってしまったなんてことはないと思うんだけど。
なんて考え込んでいると、二人が口論を始めてしまった。
「あら、罠なんて失礼ね。ルナ、これは罠ではなくてわたくしからのお誘いだったのよ?」
「お誘いって、どうせえっちぃことでもしようとして契約を結ぼうとしたんでしょう!」
「ふふっ、どうやらお見通しのようね。そうよ、わたくしは真志さんを新たな契約者にしようと思ったの」
「ティグリス、トノサマは私の契約者ですよ! 一人の人間に対して二人契約者がいるなんてことは」
「違反ではないわよ? 相手の同意が得られた場合は可能よ」
「ぐっ……た、確かにそうですけど。それでもティグリスにはすでに他の契約者がいたはずです! こっちでは見てないですがどうしたんですか彼女は」
「ルナには言ってなかったかしら? この任務にあたる前に契約を破棄したことを」
「え、そうだったんですか? 知らなかったです。というかどうしてそんなことを?」
「元の体がすでに存在しなかったからよ。幸い真志さんはこの時期に死ぬ間際の身体が存在していたけれど……わたくしの契約者はそうじゃなかったの」
「なるほど、そういうことですか。え、でも、じゃあなんでこの任務を受けたんですか?」
「それは……秘密よ。教えてあげない」
「お、教えてくれてもいいじゃないですか!」
「やーよ」
「ぶー、ケチです、ティグリスは」
「ふふっ」
「あ、あのー」
そろそろ話に割り込んでもいいよな? さっきからずっと二人の会話を聞いているが、さっぱりわからないんだ。
俺の声に気付いたティグリスが首を傾げた。
「なにかしら、真志さん?」
「話の途中で悪いんだけどさ、契約者って何だ? 君たちは俺のことを含めいろいろ知っているみたいだけど、俺にはさっぱりわからないんだが」
俺がそう訊ねると、ティグリスは少々困ったような顔をした。
そして、
「ねぇ、ルナ」
「なんですか?」
「これは新手のボケのつもりなのかしら? 真志さんなりの」
「なっ!? ボケてねえよ! 俺は真面目に訊いてるんだ!」
「いえいえ、ボケなのでしょう? 真志さん」
「ボケじゃねえ!」
俺が必死に否定すると、二人は顔を見合わせ少々沈黙し、こそこそと相談し始める。
「ルナ、なんだか様子がおかしいわね」
「ええ、そうですね。私がここへ運ぶ前もこんな感じでした。私のことを何もかも忘れてしまったかのようで……」
「んー、そうね。ちょっと確認してみましょうか。あの、真志さん」
「なんだ?」
俺が訊きかえすと、ティグリスが俺のそばまで近寄ってくる。その表情は先ほどと違い、明らかに不安そうだ。
「あなた、わたくしのことを忘れてしまったのかしら?」
「君のことを?」
俺はそう訊ねられて目の前にいる少女のことを必死に思い出そうとする。
名前は確かティグリスだったよな。
んー、ティグリス、ティグリスねぇ……聞いたことがあるような気はするんだけど。
やっぱり記憶にねえ。
こんなピンク色の髪をして天使の羽なんていうコスプレをした少女。見たことがないぞ。
「ごめん、全然記憶にない」
「そう……あっ、でもまだ変装を解いてなかったわね。これならわかるかもしれないわ。少々お待ちを」
そう言うとティグリスは、何かの呪文を唱え始め――ぼんっ。
音が鳴ると同時に彼女の周辺を白い煙が覆った。
それはほんの一瞬の出来事で、すぐに白い煙は跡形もなく消え去っていく。
「これでどうかしら?」
「君は……」
どこかで見たことがあるような、ないような姿だった。ツーサイドアップに結った明るい紫色の髪。背中にある薄紫色の天使の羽。計四本。
このルナという少女と同様、薄らと記憶に残っているような気はするのだが――
「ごめん。やっぱり思い出せない」
「あら……」
おそらく二人とどこかで出会っているのだろう。頭の中にぼんやりとしたものはあるものの、何も思い出せない。
――記憶喪失、なのか俺は。いや、でも。
はっきりと思い出せることもある。
俺自身の名前やあだ名。家族の名前。学校の友達のこと。
どうやら忘れてしまったのはこの二人のことだけのようだ。
いったい俺はこの少女二人とどこで何をしていたのか。それだけはどんなに思い出そうと頑張っても、その部分に靄がかかっていて全く思い出せない。
「ルナ。ちょっといいかしら?」
「なんですか?」
俺がうーんと唸っていると、ティグリスがルナを呼び、俺のそばまで連れてきた。
そして、
「真志さん。ちょっと失礼するわね」
「え、何を……うわっ」
いきなりティグリスが俺を押し倒してきやがった。
ちょ、ちょっと……いきなり何するつもりなんだ!?
「よいしょっと」
「……ッ!?」
押し倒しただけでなく、さらにマウントポジションを取るティグリス。むちっとした太腿が俺の腕に当たり、自然と頬が熱くなる。
その光景を後ろから目にしていたルナが明らかに不機嫌そうな面をした。
「ティグリス、トノサマに何をするつもりですか」
「いいから。ルナ、服を脱ぎなさい。紋章を確認するわ」
「紋章……あぁ、そういうことですか。わかりました」
ルナは瞬時にティグリスの意図を把握したようだが、俺にはさっぱりだ。訳がわからずに困惑していると、ティグリスが俺の許可なく制服のボタンを取り始めてしまった。
「ちょ、ちょっと待てよ! お願いだから。何か確認するために服を脱ぐ必要があるんだったら自分で脱ぐから!」
「待たないわ。これは重要なことなの。今すぐ確認しておいた方がいいの」
「いや、いいのって言われても。自分で脱ぐってば」
「この体勢ならわたくしが脱がすほうが早いわ。わざわざ退くのは面倒よ」
「め、面倒って……」
俺の言葉を無視して再度手を動かし始めるティグリス。初めに出会った時のような余裕は一切なく、今は『必死』。その一言だろう。
俺は何となくこれ以上抵抗してはいけないような気がして、ティグリスに任せることにした。
一つ、二つ、と学生服のボタンを徐々に取られていき、
ばさり。
ぽつん、ぽつん。
Yシャツのボタンまで取られ始めてしまう。
い、一体どこまで脱がすつもりなんだ? さすがに下はない、よな?
俺がそんなふうに不安がっていると、Yシャツのボタンを全て取られ、黒のヒートテックを胸元まで捲り上げられたところで。
はぁ、とティグリスが深いため息を吐いた。
「やはりそうだったのね。ルナ、あなたの方は?」
「お、おかしいです、ティグリス。私の方も紋章が薄れて」
「なぁ、一体何がどうなってるんだ」
慌てているルナを無視して俺は会話に割り込んだ。いい加減に説明してほしい。何がなんだかさっぱりわからない。
まずここはどこなんだ。そして二人は何者なのか。契約者って何だ。紋章って何だ。
訊きたいことが山ほど思い浮かんでくる。
「トノサマ。そんないっぺんに質問しないでください。こんがらがってしまいます」
「いや。そんないっぺんに質問した覚えはないんだけど」
思い浮かんだだけだ。決して口にして訊ねたわけでじゃない。それなのにルナは――
「どうやらお父様の言った通りの出来事が起きているみたいよ。こんな確率の低い事象を引き当てるなんて……本当に運がないわ」
俺の戸惑いを無視してティグリスがルナに話しかける。その言葉を聞いたルナは顔を青ざめた。
「嘘、ですよね?」
「嘘じゃないわ。本当よ」
「そ、そんなことがあり得るはずは」
「あり得るのよ。その薄れた紋章がその証拠よ」
「う~……で、でも」
「しつこいわね。なんなら確認してみなさい。ほら」
「わ、わかりましたよ。トノサマ」
ルナが俺のあだ名を呼ぶと、ティグリスが俺の上から退く。
すると、不安を全く隠そうともしないルナの顔が見え――って!
「ちょ、ちょっと待て! 服を着ろ、服を!」
「服……? あー、別に今更見られても困るものじゃありませんし」
「いや困るもんじゃないって言われても俺が困るんだが! と、とにかく服を着てくれ! 頼むからその手に持っている制服を着てくれ!」
「むー、わかりましたよ」
面倒くさそうに返事をしながらルナが服を着ていく。
ふぅ、よかった……あ、でもちょっと惜しいことをしたかも。
だってルナの胸は、その、なんていうか……ものすごく俺の好きな大きさだったんだ。
かなりのちっぱい。おそらくAサイズ。
いや、ダブルAサイズだろう。
「トノサマ、それを言うのは無しです。人の胸のサイズを勝手に口にしないでください」
「――え?」
あ、あれ……? 俺今、口に出したっけか?
そんな失態は演じないはずだけど。
「もちろんトノサマは口に出してませんよ?」
「じゃあ、なんで今俺の心を?」
「それはもちろん私がトノサマの胸中を……って、やっぱりこの反応」
「そうでしょう、ルナ。諦めなさい」
「……っ、認めたくなかったです」
ティグリスの割って入った言葉にルナが肩を落とした。だからさっきから何の話をしているんだよ。俺にも分かるように言ってくれ。
「なぁ。頼むからいい加減説明してくれよ」
「ええ、わかったわ。でもその前に。……ルナ、あなたは少し休んだ方がいいわね。状況の説明とかはすべてわたくしがやっておくから」
「そう、ですか。助かります、ティグリス。少し休ませてもらいますね」
「ええ。そうしなさい」
ティグリスがそう言うと、ルナはとぼとぼと歩き、部屋を出て行った。