絶望
戦闘開始三分後。
すでに二人は酷い怪我を負い、地面にうつ伏せになって沈黙していた。
う、嘘だろおい。二対一だぞ。
「ふんっ、もう終わりなの? 全然楽しくないわ」
その一方で二人をまとめて相手していた地獄の王は完全なる無傷。その戦闘力の違いはまさに絶望的だった。まるで挑むことが無謀だと感じさせるくらいの圧倒的なものだった。
ルナもティグリスも何の言葉も返さない。が、微かに手や足が動いているから、意識はまだ残っているようだ。
「ここまで傷つけてやったけど……ふーん、まだ夜の魔王は出てこないのね」
こちらをちらりと見て地獄の王がそんなことを言ってきた。
夜の魔王が出てこない……? もしかして、地獄の王が俺に何かを期待している?
地獄の王の目をじっと見つめるが彼女が何を考えているのか俺にはさっぱりわからない。が、ただその目を見てわかったことは、地獄の王の戦意がまだ満ちており、嗜虐心を持った目で横たわるルナたちを見つめているということだけだった。
このままじゃ良くないことが起こってしまうのは一目瞭然。俺が何とかして動けない二人を助けたいのだが――
「くっ……」
残念ながら俺を縛りつけている鎖はビクリとも動いてくれない。ガシャガシャと空しい音が鳴るだけ。
俺の方を見た地獄の王がさぞ面白くないといった表情をした。
「ふーん、出てこないんだったら……まぁいっか、殺しちゃおう。まずは……んー、そうねえ。ティグリス。あんたからにしようかしら」
「……っ」
死の宣告を受けたティグリスが肩をかすかに動かした。
しかし、もう手足を動かせる力が残っていないのか……ティグリスは地獄の王が近付いてきてもうつ伏せになったまま。全くもって抵抗できる気配がない。
地獄の王がティグリスの首根を掴んで高々と持ち上げると、ティグリスは微かに表情を歪めた。口から血を流し、手はだらり垂れ下げたまま。
おそらく、腕が折れている。
「うんうん、いい感じね。さぁて」
抵抗できないティグリスに満足そうに頷くと、地獄の王は彼女を持ち上げたままこちらを向き、ゆっくり、ゆっくりと俺の元へ近づいてくる。
俺は動けないまま、地獄の王に持ち上げられた無惨な姿を晒しているティグリスと、
地獄の王を、地獄の王の目を見て――
「……ッ」
ぶるっと震えてしまった。
完全に目が据わっていた。あの目は間違いなくティグリスを殺る気だ。
「真志。あんたまだ天使が死ぬ瞬間って見たことがなかったわよねえ?」
不意に地獄の王に問われたため、俺はひたすらに首を横に振った。
「……やめろ、やめてくれ!」
「あたしは質問をしているの。あんたは天使の死を見たことがある、それともない?」
「やめ、やめてく――」
「はぁ。正直に答えたら考えてあげるわ」
「ぐっ……見たことは、ない」
嘘はつけなかった。ここは見たことがあると答えるべきなのだろうが、嘘をついたらバレてしまう。そんな気がしたから。
それに俺は正直に答えた。だから――
「止めるわけないわ」
しかし地獄の王は容赦なかった。
ズブッ。鈍い音が鳴り、ティグリスの腹部から赤く染まった手が生える。
何の躊躇いもなくティグリスの腹部を貫きやがったのだ。俺の目の前まで来て立ち止まった地獄の王が、ティグリスをさらに高く持ち上げる。
「ッ!? あくっ、つぅ~」
地獄の王の腕が必然的に下がったため、腹部の傷口が広がり、ティグリスが苦痛の声を上げる。
「お、おい……うそ、だろ?」
俺は目の前の光景が信じられなかった。これは夢、だよな? 幻想、だよな?
そうやって現実逃避をするもつかの間。
ぬちょ。ぐちょ。
ぐちゃ。びちゃ。
それを現実だと言わんばかりに、地獄の王が腕を動かしたのだ。
地獄の王が手を動かすたびにおぞましい水音が流れ、ティグリスの赤い血が地獄の王の腕を伝って地面に滴り落ちる。
手が動くたびにティグリスが苦痛の表情を浮かべ、悲鳴を上げ続ける。
そんな光景を目の前で見てしまった俺は、
「……うっ」
込み上げてきた嘔吐感に口元を抑えた。
そんな俺の表情を見たティグリスが、なぜか痛みを堪えながらニコリと笑った。
「だいじょうぶ、よ……天使は、こう見えても……がん、じょう」
「ティ、ティグリスいいからしゃべるな! 地獄の王、おまえ」
「いい殺気よ、真志。もっとあたしを憎む顔が見たいわね」
「うるせえ!」
「んー、それにしても天使はやっぱり頑丈ね。じゃあ、こうしちゃおう」
そう言った後、ティグリスの腹部を貫いている地獄の王の腕が強く輝き始めた。
今度は何を、一体何をする気だ!?
「……ッ!?」
その光景を目の当たりにしたティグリスが目を大きく見開いた。
そして、
「ここ、まで……ね。真志……さん。先に、逝くわ」
「お、おい。ティグリス、ティグリ――ッ!?」
消えた。
ティグリスが消えてしまった。
貫いている腕の輝きがさらに強くなったかと思った瞬間――パァァァァァァ。
ティグリスの身体が光の粒子となり、地獄の王の腕へと吸い込まれていったのだ。
「え……う、うそ、だろ?」
ティグリスが……死んだ?
殺され、た?
「んー、ほとんど枯渇していたからあまり得られなかったわね。ちなみに今のが天使の『死の瞬間』よ。あたしがティグリスの活動エネルギーを全て吸い取っちゃった。てへっ」
「うわあああああああああああああああああああッ」
「あら、せっかく可愛いポーズをとったのに何にも言ってくれないなんて酷いわ。まあパニックに陥っちゃうのも分からない気はしないけど。でもそうなるのはまだ早いわよ。あたしを存分に憎みなさい。憎んで憎んで憎みなさい。あーあ、でもまだ出てこないのね。仕方ないか。じゃあ次は」
カツ、カツ、カツ。ゆっくりと歩いていき、今度はルナの目の前で立ち止まる。
それを見て俺はハッと我に返った。まずい。まずいぞ。次はルナまでも殺る気だ!
くそっ! この、動け、動けよ!
必死に身体を動かそうとする。が、ガシャ、ガシャと鎖のこすれる音が鳴るだけ。
びくりともしない。鎖を引きちぎることもできない。
非力、非力だ。俺はなんて非力なんだ。
「動こうとしても無駄よ。人間の力ごときで解けるわけないじゃない。さてと」
地獄の王がにんまりと笑みを浮かべると、横たわっているルナの長い髪を乱暴に持ち、こちらへ引きずりながらやってきた。
「トノ、サマ……」
ルナが完全に怯え切った表情で俺のあだ名を呼ぶ。
「ルナ! この……動け、動けよッ!」
「無駄よ、無駄。あんたは何もできないままティグリスを見殺し、そしてこのバカ天使を、大切な大切な契約者までも見殺すの。くすくすっ、最高ね」
「何が最高だ!」
「ふんっ、そこで吠えてるといいわ。……さぁて」
そう言うと地獄の王がティグリスの時と同様に、ルナを俺の目の前で高々と持ち上げた。
「また同じ殺し方っていうのも芸がないけれど……別にいいわよね?」
「い、いや。トノサマ……死にたく、ない……死にたくない、です」
イヤイヤとルナが首を横に振る。
こんなに助けを求められているのに。大切な契約者から助けを求められているのに。
何もできない。この鎖を断ち切ることすらできない。
憎い、憎い、憎い。何もできない自分が憎い!
せめて、せめてルナだけでも……。
俺は純粋な力では何もできないと諦め、地獄の王に向けて頭を下げた。
もうコレしかない。今思いついたことをするしかない。他にルナを助ける方法なんて考えている時間がない!
俺が頭を下げたのを見た地獄の王が訝しげな声を上げた。
「何のつもり?」
「地獄の王。頼むからやめてくれ……いえ、やめてください。俺が、何でもしますから」
「あぁ。そういうこと。自己犠牲ってやつね。いいわ、一応聞いておくわ。何でもする? それは本当に何でもするの?」
「はい、何でもします。何を言われても断りません。だからルナを殺さないでください」
「それはたとえ自分の命にかかわるようなことであっても?」
「はい。覚悟はできています。だからルナを、ルナを」
「ふーん、そっかぁ。何でもしてくれるのね。わかったわ。頭を上げなさい真志」
そう言われて俺は地獄の王に視線を戻す。
「それじゃあ……」
「ええ。もちろんよ。もちろん私は――」
地獄の王が満面の笑みを作り、
「やめるわけないじゃない」
一気に真顔になると――ズブリ。またティグリスと同様に地獄の王がルナの腹部を貫きやがった。赤く染まった小さな手がルナの腹部を左右上下にゆっくりと動く。
「ルナ!」
「トノ、サマ……」
「ふふっ、二人ともいい表情ね。ゾクゾクするわ。もうこのまま消しちゃおうかしら」
そう言いながら、あの時と同様、地獄の王がルナの腹部を貫いている腕を輝かせ始める。
あれは!
「おいやめろ……やめてくれ!」
「…………」
「やめてくれッ」
必死に訴えるが地獄の王は無言のまま。そのままさらに腕の輝きを強めていく。
そして、
「たす、けて……トノ、サマ」
ルナの絶望した表情が、
今にも消えてしまいそうなほどのか細い声が、
助けてほしいという切実な想いが、
ばちんっ。
俺の中にある何かを弾け飛ばせた。




