戸惑い
「トノサマ! トノサマ!」
「…………」
「トノサマ!」
俺の耳元で誰かが叫んでいるような気がする。
でも頭がぼんやりしていて……誰が叫んでいるかなんてことは、はっきりとは分からないんだよな。
「トノサマ! しっかしてください! トノサマ!」
顔を見て確認したいけれど、体が重いし、瞼もあがらない。でもこの声は聞いたことあるような、ないような声だ。
んー、俺のあだ名を呼ぶってことは、おそらくは知り合いなんだろうけど。
そうだな、せめて名乗ってくれれば――
「私です! ルナです! トノサマ、わかりますか!?」
「る、な?」
いかにも瀕死状態であるかのような、かすれた声が俺の頭に響いてきた。
……っ。今のは俺の声か? 酷い声だな。
いやそれよりも、だ。ルナって聞いたことのない名前だよな?
ルナ……ルナ。ううん、やっぱり違う。聞いたことはあるはず。
頭の中がぐちゃぐちゃしていてはっきりしないだけなんだ。間違いなく俺はルナという少女を知っている。
そのはず、なんだけど……。
「頭の中がぐちゃぐちゃという割には、思考回路がはっきりしているんですね。矛盾してますよ」
今まさに俺の胸中を読み取られたような気がした。
確かにこの少女の言う通りだ。頭の中はぐちゃぐちゃしているし記憶も曖昧なのに、思考回路だけははっきりしている。ものすごく変な感じ。
――まぁいいか。とりあえずこのルナという少女のことを思い出すことに専念しよう。
と、思った時。ピーポーピーポー。
一日に一度は耳にする音が近づいてきた。
「トノサマ。もしかして……いえ、それは後にしましょう。救急車が来ましたし」
「きゅう、きゅう、しゃ?」
「ええ、そうです」
途切れ途切れになりながらも口にした俺の言葉に少女が頷いた。でもどうして救急車がここへ? 確かに音はだんだんこっちに近づいているけど……って、あぁそうか。
この体の重さ。俺は交通事故にあったんだっけか。
そう。確かそうだったはず。ほんの数分前、俺は街中を歩いていたはずだ。
そして急に人の悲鳴が聞こえてきたと思って振り返ったら、大型トラックに跳ねられたんだったよな。
過去の出来事を振り返っていると、救急車が俺の近くまで来てそこで止まった。
バタン、バタン、と勢いよく車のドアを閉める音が聞こえてくる。
「今我々が来ましたから安心して……うわぁ、これはひどい」
少し離れたところで、救急隊員の一人がそうつぶやいたのが聞こえた。
俺の状態を見て言ったのか、それとも周りの状態を見て言ったのか。
どっちかはわからない。でも――
もし前者だったら、もう助からないんだろうな俺は。
「ネガティブにならないでください。大丈夫です。トノサマが死ぬことはあり得ませんから」
また、俺の心を読み取ったかのようにして少女が答えた。
どうしてそう断言できるのだろうか。その理由を俺は知らないけれど、とにかく俺が絶対に生きるという確証が彼女にあるらしい。
そうだな、もし死なないのだったらそんなにひどい状態じゃないはず。
俺はそう思い、手や足を動かそうとしてみる。
が、
「……ん?」
ちっとも動かない。指先すらもまともに動かせない。
あれ、おかしいな。感覚がすべて麻痺しているのか?
「今は一部以外麻痺させています。すみませんが我慢してください」
どうやら思考回路云々の変な感覚も含め、耳以外のほとんどが麻痺しているのは彼女の仕業らしい。 でもどうやってそんなことをしているのだろうか。この少女は医者か何かなのか?
――いや、俺の知り合いに医者なんていないはずだし。
「トノサマ、こちらへ救急隊員が来ますよ。もう大丈夫です」
俺がそのことについて考えていると、ふいに少女が声を上げた。すると彼女の言う通り、たたたたた、といくつかの地を駆ける音が聞こえる中、一つの気配が俺のそばまでやってくる。
「救急隊員さん。トノサマをお願いします」
救急隊員に向けてすぐさま彼女が助けを求める。あぁ、漸く助かった。これで俺は生き残ることができるのか。
と、安堵するのもつかの間。
救急隊員がなかなか俺を運ぼうとしないのだ。しかも何の言葉も発さない。
――え、今すぐ俺を運んでくれるんじゃないのか? それとも今運ぶための準備でもしている?
……いや、でもそういう気配は全然ないし。って、もしかして何か問題でも?
徐々に不安が募ってくる。
何も言わずにジッと佇んでいる救急隊員が何を思っているのか、残念ながら俺にはわからない。真っ暗な視界の中、彼の言葉を待つことしかできない。
「救急隊員さん?」
まるで俺の胸中を代弁するかのように、少女が不安そうな声を上げた。
すると、
「すまない。彼は後回しにさせてもらう」
それを聞いた救急隊員が残酷な一言を言い放った。――え? 今、なんて……?
「他にもたくさんいるんだ。だから生き残る可能性のある人を」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなこと言わずにお願いします! 私にも力の限度があるんです。時間がかかりすぎると私は」
「何を言っているんだい、お嬢さん。すまないが今言った通りなんだ。彼は後回しにさせてもらうよ。本当に申し訳ない」
それだけ言うと俺の近くにあった気配が一つ遠ざかっていった。
俺は後回し……か。やっぱりもうダメなのか。
どうやら交通事故にあったのは俺だけじゃなかったらしい。その人の容体を見て助けるか否かを判断するということは、相当な被害者数なのだろう。
「予定が変わりました。移動します」
先ほどの慌てた声とは打って変わり、事務的な声を発した少女が俺を抱え込んだ。
移動するって一体どこへ? 俺はたった今、後回し……助からないからといって見捨てられたばかりなんだぞ。だから他の救急隊員のところへ行っても結果は同じ……って、まさか直接俺を病院へ?
「いえ、違います。こんなことなら初めから地上の病院など頼るんじゃありませんでした。行きますよ」
やはり俺の胸中を的確に読み取ることができるらしい。不思議な気分だ。声を出さずとも会話ができるなんて初めてだ。しかしどうやってそんなことをしているのだろうか。今の日本じゃあそういう機械とかはなかったはずなんだけど……。
などと思っていると。バサリ、バサリ、と何かをはばたくような音が聞こえてきた。
それと同時に周りから驚愕の声も。
「な、なんだこれ。本物!?」「う、うそでしょ!?」「うわあああ。なんだよ、何が起こってるんだよ!?」
体の感覚が麻痺しているため、俺にも何が起こっているのかはさっぱりわからない。
今はっきりしているのはこの思考回路と耳だけ。
周りの反応から異常事態が発生しているのは間違いないのだろう。でもこの二つだけだとそれ以上はわからない。
せめて、せめて……目を開けることができれば。
「トノサマ。一〇分だけの辛抱です」
少女が俺の耳元で呟くと、徐々に喧騒が遠ざかり始めた。先ほど彼女が言った通り、病院ではないどこかへ移動しているのだろう。
でも、何かがおかしい。
本来なら車の音や街の喧騒、それ以外の様々な音が聞こえてくるはずなのに。
今聞こえてくるのは何かをはばたく音。それだけだった。
「どこ、へ?」
「私たちの臨時施設へ行きます。そこで治療をしてもらいます。だからもうしゃべらずに安静にしておいてください」
「わか……った」
どうやら俺は助かるらしい。それを聞いて安心した俺は彼女にすべてを委ねた。
バサリ、バサリ。
未だにはっきりしている耳が、何かをはばたいている音だけをしっかりと捉える。
まるで何もない世界を二人だけで飛んでいるかのようだった。