12-04.
休憩を挟んで、ついに最後の曲・ショパンの『ピアノ協奏曲第一番ホ短調作品11』の演奏が始まった。
ナオがピアニストの小鳥遊尚哉だと知ったあの時の演奏は、感動して、そして再会が嬉しくて、ひたすら涙が溢れた。
今日はもう少し落ち着いて聴きたいところだったが……今夜のことを考えると、結局違うことでドキドキしている。
落ち着いてこの曲を聴く日は来るのだろうか。
オーケストラの演奏が続いてしばらく経った頃、いよいよナオのピアノが入った。
重い和音の響き。
そして流れるようにポロポロと紡がれていく美しい旋律。
ナオの指先から放たれる光は、私の耳を釘付けにする。
(素敵……)
耳から入ったその音は、頭の中を埋め尽くすように響き渡り、印象的に心に刻まれる。
うっとりと聴き入ってしまうこの感覚は、前に聴いた時も同じようではあったのだが、これは――
「ドクター、復帰後のナオの演奏、どうです?」
ブラウンさんの声がまた後ろから聞こえて、私はナオを見つめたまま答えた。
「あー……どうしましょう。私、知識がなくて正しい表現ができないのですが……」
「正しくなくたっていいよ。ドクターの言葉でどうぞ」
「そうですか? それなら、えっと、前はこう……『さあ、俺の演奏の始まりだ!』みたいに支配者的感覚で、その迫力に引き込まれましたけれど――」
そう伝えるとブラウンさんがクスッと笑ったのが聞こえた。ド素人っぽい表現で恥ずかしい。
「ええ、それで続きは?」
「すみません……。それで今回は、もっと柔らかくて……丸い音なのは元々そうでしたけれど、もっとふんわりとした丸になって……なんて言ったらいいか……そう、シャボン玉! 透明なシャボン玉がいくつも重なって揺れているみたい。それが曲と溶け合って、ホール全体を包んで『さあ、みんな一緒に。付いてきて?』みたいに、ナオが優しく手を引いてくれるような感覚。前よりナオのピアノが洗練されたって言うんでしょうか。透き通った柔らかな響きが……ああもう、ダメです。私、感動しちゃって。とても……素敵……ッ……」
やっぱり私の目には涙が滲んだ。
そしてそれを聞いたブラウンさんはハハッと笑う。
「真っ直ぐでいいですね」
「バカっぽい表現ですみません」
「いいや、いい表現だと思ったよ」
ブラウンさんは言う。
「響きの良さと音の柔らかさは、あなたがそばにいるおかげだ」と。
「前よりももっと繊細で澄んだ音に研ぎ澄まされている」と。
私の不安はブラウンさんの言葉、そしてナオのピアノの音に浄化されるように跡形もなく消え去っていく。
「決して後退ではなくて、むしろ前進してパワーアップして『小鳥遊尚哉』はピアノの世界に帰ってきたんだ。僕はそう思う」
「本当……ですか?」
「ああ」
「そう……ですか……。よかった」
ホッとして涙がポロポロ溢れて、私は手で顔を覆う。
何か悪い方にナオのピアノが変わっていたらどうしようと不安だった。
「ガラッと音が変わったからね。今回のツアー、整音に苦労したんだよ」
そう言って笑うブラウンさんはとても嬉しそうだった。
以前と今、どちらの演奏が優れているかなんてわからない。
ただ一つ言えるのは、やっぱりナオのピアノが大好きだということだ。
聴いてるだけで泣きたくなって、癒される音で、いつだって魅力的。
(ナオのピアノは、私を幸せな気持ちにするのよ。ナオ……ありがとう)
ステージ上にいるナオはどんな時よりも生き生きとして輝きを放ち、そんなナオを見られるだけで胸がいっぱいだった。
より切なげに、時に美しく華やかな雰囲気を纏うナオの情熱的な演奏。
聴く人を甘美な世界へと惹き付け、虜にし、そしてまるで聴衆をも巻き込むように共にフィナーレへと向かっていく。
会場中を埋め尽くした虹色に輝く柔らかな音色が、最高潮に達した瞬間、一斉に弾けた。
それは、私の手に宿り続けた暗い影をも跡形もなく吹き飛ばすほどの眩い光だった。
「――ッ……ナオ……尚哉……ッ……」
ナオの演奏が終了し、オーケストラのみの演奏が続く中、私は自然と拍手を送っていた。
会場中からも大きな拍手と歓声が巻き起こっていた。
ナオとオーケストラだけではない。ホール中が一体となって音楽を奏でているような、そんな感覚だった。
演奏終了後、私はすぐに逆サイドの舞台袖に移動してナオがステージを下りるのを迎えた。
「夏海!」
ナオは周りにコンサート関係者がたくさんいるのもお構いなしに、私を抱きしめた。
「ちょっとナオ……みんなが……ッ……見てるのに……」
感動して涙が止まらないまま、私はナオの腕の中にすっぽりと収まる。
「どうでもいい。今は夏海を抱きしめたい」
ギューッと抱きしめるナオを、私は労るように背中を撫でた。
「お疲れ様。ナオ……復帰おめでとう。本当に……おめでとう……ッ……」
「ありがとう。夏海のおかげだよ。夏海の支えが大きかった」
「ううん、ナオが頑張ったからよ」
すると腕を緩めたナオは、私を真っ直ぐ見つめる。
「夏海?」
「うん?」
「演奏前に言ったことを覚えてる?」
ドキッ。それは、キス以上の関係に進む話のことだろう。
「あ、うん……」
「じゃあ、もう一度きちんと伝えるね」
「えっ!? ここで!? そ、それは……」
「ここで伝えたいんだ」
(嘘でしょ!? こんな舞台袖の公演関係者がたくさんいるところで!?)
いやいや、そんな秘めるべきことをこんな場所で言うなんて、いくら何でも……。
「ナ、ナオ、ちょっと待っ――」
するとブラウンさんから花束を受け取ったナオが、目の前に跪く。
そして手にする花束を私に差し出した。
「藤本夏海さん、俺と結婚してください」
「……へ……?」
……け、結婚……ケッコン!?
明日、最終話となります(*´ω`*)ホッ




