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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
最終楽章 あなたと、二人で

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12-03.


私がいる場所とは反対側の舞台袖からステージに姿を見せたナオは、一度私に微笑みを向けてから、観客席に向かって礼をした。拍手が鳴り響く中、ナオがピアノの椅子に座る。

いよいよ演奏が始まる。

私はゴクリと唾を飲み込み、祈るようにその姿を見つめる。

ナオが怪我から復帰後、大きな舞台で演奏する姿を見るのは初めてだ。

自分が舞台に立っているわけではないのに、おかしなくらい緊張していた。


最初の曲は、リストの『ハンガリー狂詩曲第二番』。オーケストラなしのピアノ曲だ。

非常に難易度の高いこの曲は、事故前のナオがよく弾いていた曲らしい。

でも事故後はなかなか思うように弾けるようにならなくて、ナオ自身が「諦めようかな」と弱音を吐いていたほどの難曲。

だからツアーで披露できることは、ナオにとっても私にとっても非常に感慨深い曲なのだ。

そしてその曲を、ナオが演奏している。

曲と、ピアノと溶け合うように、ナオが舞台上で異彩を放つ。


「ナオ……ッ……」


その美しく輝く姿を、私は涙を堪えながら見つめた。


ただ、復帰後のナオのピアノがどう評価されているのかは、私にはわからなかった。

怪我をする前のナオは、迫力と早さを保ったまま正確に奏でられる演奏が大きな特徴だったということは、ここ一年で少しだけピアノに詳しくなったことで知った。

プロのピアニストやナオの事故前の演奏をよく知る耳の肥えた人たちには、どう聞こえているのだろう。

この不安は復帰後からずっと、密かな心配事として私の心の中に宿り続けている。


2曲目はモーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』。

この曲は、怪我をしたナオが「復帰したらコンサートで弾きたい」と目標にしていた曲の一つだ。

元々は迫力や超絶技巧の曲を得意としていたナオ。でもこの曲はそれとは違う。

華やかで繊細な美しさが、可憐な音色に乗せて表現されているような曲なのだ。

その無垢さや戯れるようなかわいらしさが、私としては普段のナオに近いと思える。


「ドクター、ナオを見たままでいい。聞いてくれるか?」


オーケストラの演奏が始まると、後ろからブラウンさんの声がする。


「はい」

「ナオのピアノは変わったよ」


ブラウンさんの言葉に、不安で胸が重苦しい音を立てる。

するとブラウンさんがフッと笑う声が聞こえた。


「怪我をする前なら、ナオはこの曲を弾こうとは思わなかったでしょう。あなたをイメージする曲だと言っていたよ」

「えっ、私?」

「ええ。『愛も哀しみも希望も、光のような存在であるあなたがそばにいてこそ全てだ』……というようなことを話していた」


そう言ってクスッと笑うブラウンさん。私はあまりにも恥ずかしくて、熱くなった顔を手で扇ぐ。


「それ、かなり脚色してませんか? ナオがブラウンさんにそんなこと言いそうもないです」

「おや、さすが恋人。よくお分かりで。でもそんなようなことを言っていたのは事実です」

「そんな……大袈裟だわ」

「そうかな? 以前のナオなら、恐らくこの曲をこんなに情熱的に弾くことはできなかった。あなたの存在と……それに、あなたでしょう? ナオに『音のアドバイス』をしたのは」

「えっ? 私がアドバイス?」

「ナオが言ってましたよ。『篳篥(ひちりき)の響きと調和が美しいって夏海が言うんだ』とね」

「あ……」


篳篥を知って、篳篥の演奏動画をいくつも見た。そして比奈森神社で行われる雅楽の演奏を聴きに行った。

鼻にかかったような独特な音色、そして息遣いによる繊細なコントロールで生み出される美しい響き、ほかの楽器との調和の美しさ。

私はすっかり篳篥の音色のファンになっていた。


「あなたのその言葉がヒントになったようだ」

「えっ、そんなことが……?」

「ええ。あなたはナオへの影響力が大きいんだよ。ナオは以前にも増して、音の響きと調和を意識するようになった。元々は迫力のある独奏を得意としていたが、怪我をして、あなたがそばにいることで、ナオ自身が変わったんだと思う。だからピアノも変わった」


私はずっと胸の中でモヤモヤしていた不安を、ブラウンさんにぶつけてみることにした。


「あの……怪我の影響で、何か悪い方向にナオのピアノは変わりましたか?」


答えを聞くのは怖い。でも知っていなければならないと思うのだ。

するとブラウンさんはフッと笑う。


「それはご自身の耳で確認したらいかがですか?」

「え? でも私、そんなにピアノにも音楽にも詳しくないし……」

「休憩の後の曲は、あなたもナオが怪我をする以前に聴いている曲だ。ショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調作品11」

「あ……」


アメリカのホールで聴いた曲だ。聞く度に泣いてしまいそうだと思ったあの曲……。


「どうぞお楽しみに」


そう言って、ブラウンさんは私の近くから離れた。


2曲目が終わって休憩時間に入ると、私は再びナオの楽屋に向かった。


「ナオ、お疲れ様。すごく素敵だった」


フーッと息を吐き出してソファーに体を沈めるナオは、ネクタイを弛めながら「こっち来て」と色っぽさを滲ませて私を呼ぶ。

近づくとグイッと腕を引かれて、ナオの膝の上に乗せられてギューッと抱きしめられた。


「パワーチャージ」

「私、充電器じゃないんだけど」


嬉しいくせにかわいくない言葉が出るのは、相変わらずの私。

でもそれを知っているナオは、全部まん丸く包んで私に笑みを向ける。


「すごくチャージされるよ。俺だけの充電器でいてね?」

「うん……」


ニコッと笑うナオは、演奏後にしてはとても穏やかな顔をしている。


「さっきの曲、普段のナオみたいな曲だったわ」

「俺? 夏海みたいな曲だと思うんだけどな」

「……あんなに綺麗な曲、私とは違うわよ」


照れて黙っていると、唇にチュッとナオの唇が重なる。


「夏海にぴったりの曲だよ。だけど夏海は俺みたいな曲って言った。夏海から見て、俺は綺麗なの?」

「うん。ナオはキラキラしてて綺麗よ。子犬ちゃんみたい」

「うわっ、それ前にも言ってたよね。ビミョー」

「え? ダメ?」

「ちゃんと男として見られたい」

「じゃあ……オスの子犬ちゃん」

「人間の大人の男として見られたいっていう意味だよ」


ムム~ッと口を尖らせるナオは、やっぱりかわいい。


「ごめんね。ナオは素敵な大人の男性よ」

「全っ然そう思ってないってわかるよ」

「そんなことないわ」


クスクス笑っていると、真面目な顔をするナオと目が合う。

目を逸らせずにいると、ナオの右手が私の頬に触れた。


「夏海?」


ツーッと優しく触れる指が首筋を滑って、私はフルッと体を震わせた。

急に真面目な顔するのはやめてほしい。

スパイス的に使うってこういうこと? スーツ姿でかっこいいのが余計にドキドキして堪らない。


「なっ、何よ?」

「キリッとしてない俺は好きじゃない?」

「え?」

「もうちょっとキリッとしてるとかっこいいってさっき言った。だから、そうじゃない俺はあまり好きじゃないってことだ」


そんなことは言ってないのに……。この人は私を何だと思ってるのだろう。

私はムッとしながら膝の上から下り、ナオの正面に立って逆に問う。


「ねぇ、私の恋人は誰?」

「……『俺』……であってほしい」

「『俺』で合ってます。あなたが私の恋人。好みとか好みじゃないとかそういうことじゃなくて、ナオが……尚哉が私の恋人なの」

「だって……」


ナオは言いにくそうに口ごもる。


「何? 言って?」

「恋人っていうか、担当医と患者だよ。夏海は……ちゃんと俺のじゃない」

「そ、それは……」


リハビリ期間だった1年、ナオの『頑固』は継続し、キス以上の関係はなかったのだ。

私はナオの怪我を考慮し、ナオは自分の立場を考慮し、互いにそれ以上の関係を口にせずに過ごしてきた。


「夏海?」


ナオにグイッと引き寄せられて抱きしめられた。


「な、何よ」

「今日のコンサート、最後までちゃんとできたら、ご褒美ちょうだい?」

「……ご褒美?」

「うん。夏海と、したい」

「えっ!?」

「My sweet honey、おとなしく俺と○○○○して?」

「うっ……えっと、な、何かな……?」

「ヒントは、4文字で、2番目は小さい『ッ』だよ。○ッ○○」


ニコニコしながら言うナオのその言葉に、悲鳴を上げたいのをグッと堪える。

純情ぶってちょっととぼけてはみたものの、そんなのヒントなんかなくたってわかる。

「夏海と、したい」と言われた段階で、キス以上の関係を望んでいるのだと……。

ただ、こんなところでいきなりそんな話をしないでほしい。

考えると一気に恥ずかしくなってきた。


「ちょっと、そういうことを言うの、恥ずかしいからやめて」

「2番目の『ッ』しか言ってないのに」

「そ、そうだけど……そんな急に言われても……」

「俺はずっと待ってたよ。ご・ほ・う・び、ちょーだい?」

「うっ……待って。心の準備が――」

「無理。待てない。俺、子犬ちゃんだから上手にマテできない」

「大人の男として見られたいんじゃなかったの?」


へへへーっと笑うナオ。都合よく『子犬ちゃん』になるナオは、狡いけどやっぱりかわいい。いや、言ってることはかわいくなんてない。獰猛よ。Womanizer(プレイボーイ)よ。でも……そうよね。お互い大人なんだし、そういうことも必要よね。

よし、覚悟を決めるわ、と男らしさすら滲ませる即決をした私は、ナオを照れながら見つめる。


「じゃあ……上手に演奏できたら……い、いいわよ」

「本当に!? やったー! よしっ、最後の曲、パーフェクトな演奏をするぞ。夏海のために弾くね」


ナオは気合充分な様子。

数分前までナオが右腕のコンディションを保ったまま演奏を無事終えられるかドキドキしていたのに、今は別の意味でドキドキしていた。


(今夜……ってことよね……)


考えれば考えるほど、体から汗が噴き出すほど緊張が高まる。


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