12-02.
「ところでナオ、右腕――」
「ねぇ、夏海はキリッとした人が好みなの?」
そう言って私の首元のレースにツーッと指で触れながら、ナオは私の耳にキスをする。
「あっ……ちょ、ちょっと……」
「弘臣さんもキリッとしたかっこいい人だよね。妬けるな」
「妬かなくていいから。ねぇ、それよりナオ、右腕は――」
今度は頭の後ろを押さえられて強引に唇を奪われた。
右腕の調子を聞くたびに三度言葉を止められて、さすがにちょっと腹が立ってきた。
抱きつくナオをグイッと引き剥がす。
「もう、聞いて!」
「何?」
するとナオが不満そうに眉根を寄せる。腹を立てているのはナオも同じらしい。
とんでもなくヤキモチ焼きなナオだけに、弘臣を彷彿とさせる『キリッと』は失言だったかもしれない。
私は一度深く息を吐き出すと、気を引き締めてナオを見つめる。
「右腕は、きちんと準備できているの? 寒い日が多かったけど、痛みは出なかった? 私がいない日もきちんとできた?」
「大丈夫だから。俺の右腕はずっと『ゴキゲン』。そんなことより続きがしたい」
「『そんなこと』じゃないわ」
「夏海がしっかり治してくれたおかげで、何の問題もない」
そんなナオの言葉に、私はキュッと唇を噛みしめた。
「違う……違うわ……」
「……夏海?」
「私が治したわけじゃない! ナオが必死に努力してきた成果なの! 私はずっと見てきた。歯を食いしばって痛みに耐えて、ピアノがうまく弾けなくても諦めないで、ナオが少しずつ前に進んできた成果なの。だから……ッ、お願いだから……ちゃんとケアして!」
ナオが苦しむ姿を目の当たりにしてきたこの1年4か月を思い出すと、胸がズキズキと痛んで涙が込み上げる。
「あーもう……そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。ごめんね。ちゃんとやるから泣かないで」
弱り切った顔をするナオ。
繊細な右手の指が、私の頬を伝った涙を拭う。
「今日は私がするから、ナオはソファーに座って?」
「自分でできるのに」
「いいの。私がやりたいから座って?」
私を憂うように見つめて、ナオはソファーに座った。
私は、あらかじめ温められていたホットパックをナオの右上腕に巻き付ける。少しでも負担を和らげるために、ピアノを弾く前に腕を温めるのだ。そして右手のマッサージやストレッチを行っていく。
「私ね、ツアーが始まってから今日まで近くにいられなかったから、ずっと心配だったの。やっとこの舞台にナオは戻ってきたんだもの。途中で痛みが出たらどうしようとか、思うように弾けない状態になったらどうしようとか、無理してないかなとか……毎日そんなことばかり考えてたわ」
「夏海……」
「ナオは辛いリハビリを乗り越えて、やっとここに戻ってこられたんだもの。だからもう……あんな思いは……二度と……してほしくないのよ……っ……」
事故に遭ってから今日までのことを思い出すと、胸が張り裂けそうだ。
ナオは誰よりも苦しみ、踠き、そして怪我と向き合って乗り越えてきた。
笑顔も見せていたけれど、それでも思い出される表情は苦悩に満ちたものが多い。
そう思うと堪らなく苦しく、だからこそ、この舞台を無事やり遂げてほしい気持ちが強く湧くのだ。
そして私自身も、密かにずっと不安と闘ってきた。
『私が治してみせるから』
そうナオに告げた1年前から、誰よりも強気に、誰よりも前向きに過ごして……そして誰よりも怖くて不安だったのは私だ。
治せなかったらどうしよう。
やり方を間違えたらどうしよう。
ピアニストに戻れなかったら……。
私のせいで、この手に光を取り戻せなかったら……。
そんな気持ちをひた隠しにしてナオに接してきた。
ようやく第一線に戻れたナオに、誰よりもほっとしているのは私かもしれない。
憂うような表情で私を見つめるナオは、ゆっくりと私の背中を撫でてくれた。
「ごめんね、夏海。俺が悪かったよ。泣かないで。きちんと準備して、今日の最終公演を乗り切ってみせるから」
「うん、私も怒ったりしてごめんね。ナオ……尚哉……キスしてもいい?」
ナオは目を見開いて私を見つめる。
恥ずかしいけど、今日こそ私からすると決めていた。
「ダメ?」
「いや、ダメなわけないよ。びっくりしてBrain freeze(思考停止)した。夏海からキスしてくれるの?」
「うん。尚哉……コンサート頑張ってね。近くで見てるから」
そう伝えて、ナオの唇に自分の唇をそっと重ねる。
するとナオは顔を赤く染め、口元を手で覆った。
「何これ……ものすごいご褒美。俺、生きててよかった~」
「えっ、そんなに……?」
「うん。ねぇ夏海、もう一回して? あっという間だったからもう一回」
ナオに頑張ってほしい。だからその気持ちを伝えたい。
顔に熱を持つのを感じながら、もう一度ナオの唇に自分の唇をそっと重ねた。
「これでいい?」
「あー……もう無理。全然よくない」
「下手だった? ごめんね。ナオみたいに上手くできないわ」
落ち込んでいると、ナオはフッと笑って私の腕を引く。
「そういうことじゃない。……うん、ダメ。夏海かわいすぎてダメ。大好き。世界で一番好き。夏海~」
「あっ、ちょっとナオ……」
グイッとソファーに押し倒されてバードキスが繰り返される中、ドアの向こうから「ナオ、そろそろ準備しろ」というブラウンさんの声が響いた。
「……はーい」
ナオは残念そうな顔をしながら返事をすると、もう一度唇にチュッとキスをしてくれた。
「続きはまた後で」
ナオがホットパックを外して服装を整える様子を、私は感慨深い思いでじっと見つめていた。
一気にキリッと引き締まった顔は、子犬系のかわいらしいナオではなく、久々に見るピアニスト・小鳥遊尚哉の顔だ。
(かっこいい……)
「そうだ夏海、Label (レーベル)のExclusive contract(専属契約)、また元に戻ることになったよ」
「えっ? そ、そっか。よかった」
「じゃあ行ってくるね」
「うん……」
専属契約。
ナオがピアニストとして本格的に復帰することは、ナオとの別離も意味していた。
仕事や活動の便宜上、恐らく拠点を元どおりアメリカに戻すのだろう。
私は日本で医師を続けると決めた。
だからきっとこれから離れ離れになる。
(遠距離恋愛か……)
ざわめく胸を抱えながら、私はナオの顔が見える舞台袖へ向かった。




