01-08.
どこまでも闇に落ちていきそうだった私に、手を差し伸べて救い出してくれた、たった一音の光。
白馬君のピアノの音だ。
輝きを放って見える白馬君の手は、また一つ、また一つと光を放っていく。
なんて美しい光景なのだろう。
私は息を詰めて見つめる。
それからすぐにピアノソロへと移っていった白馬君。
ぼうっと夢心地で見つめる私。
ただ、客席からは決して賞賛とは言い難いざわめきと笑い声、そして少々のブーイングが響いていた。
(え、何? どうして……?)
気になって、目の前にいるバーテンダーに目を向ける。
「あの、ブーイングが起きているのはどうしてなんですか?」
「あぁ……ソロの最初の方の音が、ちょっとね。何というか……ずいぶん思い切った音選びだったものだから。でも今は――」
すると客席からは、先ほどとは打って変わって拍手や歓声、指笛が会場中から湧き起こる。
おかげでバーテンダーの言葉が聞こえなかった。『でも今は』の続きは何と言ったのだろう。
そう疑問が湧くものの、今、白馬君の演奏がどうなのかは客席の反応を見ればわかることだった。
(すっごく盛り上がってる……)
間違いなく賞賛の声だ。
白馬の被り物という見た目への笑いは続いているものの、白馬君の演奏に対して賞賛が湧き起こっているのは確かだ。
流れるようにリズムに乗るピアノの音は、手数をどんどん増していく。
自由で、気ままで、落ち込む気持ちなんて吹き飛びそうなほど、踊り出したくなるような陽気なメロディー。
圧巻だった。
私はポカンと口を開けて見入る。
一つ一つはポロポロと丸い音なのに、これでもかというくらいたくさんの音が繰り出されると、迫力となって聞こえるのが不思議だ。
そして、よくもそんなにも指が速く動くものだ、と思えるほど、白馬君の指は鍵盤の上を右に左にと駆け回る。
輝きに満ちた手が、美しい旋律を紡いでいく。
こうしてブーイングを吹き飛ばした白馬君を見て、私は思わずクスッと笑う。
「何なのこれ。おっかしい」
ふふっと笑っているうちに視界が滲んだ。
白馬君のピアノを聴いていると不思議と笑ってしまって、でも綺麗な音が心地よくて、緩んだ心から涙が溢れ出した。
朝みたいな、ただ悲しいだけの涙ではない。
あぁ、音楽で心が洗われるってこういうことを言うのかな。
そんなふうに思った。
結局、白馬君のピアノソロはこの日一番の盛り上がりを見せた。
そして演奏終了後、ジャズバーは間もなく閉店の時間を迎えた。
バーの外に出ると、ゲストを見送るみんなの姿が目に映る。
「ピアノ、すごく良かったよ」
白馬君が、複数のゲストに囲まれてそう声をかけられているのが目につく。
するとミキさんも男女二人に声をかけられているのが見えた。
「ミキちゃん、お疲れ。今日も良かったよ」
「ありがとうございます」
「また楽しみにしてるよ」
「はい、お待ちしております」
常連客だろうか。
私はミキさんに近づく。
「お疲れ様、素敵な演奏だったわ」
「ナツミさん。ありがとう」
「ミキさんって、よくここで演奏するの? 『我らがミキ』って紹介されててビックリした」
「あー……うん。私はここのバーでジャズサックス奏者として働いてるから」
「えっ、そうなんだ。プロってことね?」
そう言うと、ミキさんは照れた様子で笑った。
「プロって言うと、もっと凄い人を想像しちゃうけど……一応そうだね」
「へー、素敵なお仕事ね。今日出ていたほかの演奏者さん、皆さんプロのジャズ奏者なの?」
「ううん、違う。私だけ」
あぁ、だからか……。
「なかなか出番にならないからどうしたのかなぁって思ったら……ミキさんがプロだからトリだったのね」
「うん、お待たせしてごめんね」
「ううん。でもさすがプロ。盛り上がってたわね」
「そうかなぁ。ありがとう」
ミキさんと微笑みあっていると、白馬君が近づいてきた。
「……ナツミ?」
「お疲れ様。何?」
白馬君は何も言わずに固まったままだ。
何だろう。被り物で表情が見えないからよくわからない。
「どうかしたの?」
聞いても何も言わないままの白馬君に、私は微笑みを向ける。
「ピアノの演奏、素敵だったわよ」
「……そう? ありがとう。ナツミは……大丈夫?」
「えっ、何が?」
何かこの人に心配されるようなことがあっただろうか。
目をぱちくりさせていると、白馬の被り物ごと左右にブンブンと振れる。
「何でもない」
すると、白馬君がゲストから話しかけられてそちらを向く。
何だか変な人だ……と思ってハッとする。
(まさか、演奏中にこっそり泣いていたことがバレて……いや、ないない。演奏中に見えるわけがないわ。じゃあもしかして……足元がちょっとだけふらついてるのがバレた?)
グラスビール一杯で酔っぱらうなんて情けない。
仕事柄、日頃あまりアルコールを口にしないから耐性は低い。
そして心地よい音楽に、気が緩みすぎたらしい。
私は近くの自販機で水を購入。
(いい大人が外で恥ずかしい姿を晒すなんて……。しっかりしなくちゃ)
気を引き締めるようにキュッと背筋を伸ばす。
冷たい水が、しっかりしろと叱咤するように体に浸透していく。
ゲストの見送りを終えた一行は、再びワゴン車に乗り込む。
行き先は駅。今夜はこのまま解散するらしい。
「マサヤ、ナツミの肩はどうだった?」
被り物を脱いだ白馬君の瞳が、不安そうに揺れる。
ジャズバー店内の控室を借りて、明るい照明の下で改めて肩を診てもらったのだ。
「うーん……やっぱりぶつけたところが痣になってる。しかもけっこう広めに」
「そっか……。ごめんね、ナツミ。俺のせいで酷い怪我……責任取る!」
私は危うく口に含んだ水を吹き出しそうだった。
責任取るって……もっと言い方があると思うわ。
「もう、大袈裟ね。それにこんなの酷い怪我なんかじゃないわ。大したことないから平気よ」
「えー、ダメだよ。無理するのダメ」
あら、なぜ私がちょっと無理していることに気づいているのかしら?
正直に言うと触るとまあまあ痛い。
皮下出血してるくらいだから当然だけど。
苦笑いしながら黙っていると、マサヤ君がじっと私を見つめていることに気付く。
「えっと……何か?」
マサヤ君は途端に目を逸らした。
「あぁ、いや……何でもない。あぁ、そうだ。朝起きたら結構痛いっていうこともあるから、あまり痛かったら病院に行って」
「うん、わかってる」
何だろう。妙に見られていた気がする。
するとミキさんが閃いたとばかりに私に告げる。
「じゃあもしも明日起きて体が痛いようなら、ナオが責任を持って病院に連れて行く。調子がいいようなら、明日の夜も私たちの演奏を聴きにジャズバーに来るっていうのはどう? 演奏が終わった後、みんなで飲みに行くから、そこはお詫びにナオの奢り」
その言葉に真っ先に反応したのは、目を輝かせた白馬君だ。
「うん、いいよ! ナツミ元気だったら俺、何でも奢る!」
何でもって。
白馬君が妙に乗り気で受け入れるのが不思議だ。貢ぎ体質なのだろうか。
「あの、でもぶつかったのは私のせいでもあるし、もう気にしなくて大丈夫よ。だから明日のことまで気にかけてくれなくても……」
するとミキさんが透かさず告げる。
「そういうわけにはいかないって。ナオが全面的に悪いに決まってるから」
全面的に悪いに『決まってる』か。
何だろう。妙な圧を感じるのは気のせいだろうか。
「そんなことはないのよ。むしろ幸いにもその人が怪我してなくて良かったっていうだけで……」
苦笑いしながら告げると、ミキさんがフフッと笑った。
「もう、何でもいいの。とにかく明日もナツミさんに会えたらいいなって、ナ……えっと……みんなが思ってるっていうだけのことだから」
「え? みんな?」
「あー……ほらほら、お客さんは一人でも多い方が嬉しいし、みんなもそう思ってるってこと」
あ、なるほど。そういう意味ね。それなら納得がいく。いわゆるサクラ的なものなのだろう。
「わかったわ」
「ありがとう、ナツミさん。そうだ、治療費請求するかもしれないし、今のうちにナオと連絡先交換したらどうかな?」
ミキさんにそう言われて、ちょっと考え込む。
本当にお互い様だから、治療費なんて必要ないのだけれど……。
そう思いつつ、明日も来るなら誰かと連絡が取れる方が便利かなと思って、とりあえずそうすることにした。
連絡先を交換すると、白馬君はニコッと笑みを向ける。
ふわっとした柔らかな男性の笑顔になんて免疫がなくて、心臓をキュッと掴まれたような感覚がした。
(うわ、びっくりするくらいかわいい……)
タカノ君がよしよししていた気持ちがわかる気がする。
白馬君のふわふわな髪は、撫でるとさぞかし気持ちがよさそうだ、なんて勝手な想像をして頬が緩むのを感じる。
その後、念のためということで、ミキさんとも連絡先を交換。
「じゃあ、また明日もよろしく」
そう声を掛け合って、その日は駅前で解散となった。
長くて憂鬱だと思っていた一日は、あっという間に過ぎていった。




