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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
最終楽章 あなたと、二人で

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12-01.


ナオの事故から1年4か月が経った12月上旬。

日暮れの近づく夕方、私はいつもよりフォーマルな服装で、ドキドキしながら目的地に向かって歩いていた。


「ナツミさーん」


振り向くと、バンドメンバーの姿が見え、ミキさんが私に駆け寄る。


「ミキさん、こんばんは。久しぶりね」

「うん。ナツミさんは……ようやく?」

「そうね、ようやくよ」


私は溜息をついてミキさんに苦笑いを向ける。


ナオは懸命にリハビリに取り組み、大健闘。予定よりずっと順調な回復を見せた。

そしてツアーを組むことが決まり、この1ヶ月で日本各地を回って公演を行ってきた。

そして今夜は、ナオの復帰コンサートツアー日本公演の最終日だ。

都内の某ホールで開かれるコンサートに、私も、バンドメンバーも向かっている。

私はこの日まで、ナオの演奏を聴きに行けなかった。常に帯同したいくらいだったけれど、仕事の都合で皆無。1ヶ月のツアー期間中、ハラハラしながら報告を待つだけという、何とももどかしい日々だった。


「ミキさん……ナオ、どうだった?」

「それは言わない方がよくない?」


そう言ってニヤリと笑うミキさんは、今日の公演のほかに、東北と関西と九州にまで聴きに行った強者だ。どうだったかは、聴いてのお楽しみということだろう。心臓に悪い。


「そ、そうね」

「私たちは1階席の真ん中辺りだけど、ナツミさんの席はどの辺り?」


それにはちょっと答えにくいけれど、まあ今さらかと観念した。


「私は……座席ではなくて、別のところから見るように言われてるのよ」

「どこ?」

「舞台袖」


目をぱちくりさせたミキさんは、次にプッと笑う。


「それはいちおう特等席と言えるのかな? ナオにとっての特等席って気がするけど。演奏中もナツミさんが見えて、終わったらすぐに会える感じ?」

「本人がそう言ってた」

「やっぱり」


でも私自身も、一番ナオに近い場所にいたいと思う。だから私にとっても特等席で正解だ。


「じゃあナツミさん、またあとでね」


会場前でミキさんたちと別れると、私はコンサートホールの裏手にある関係者出入口に向かう。

するとブラウンさんがそこで待ち構えていた。


「ドクター、お久しぶりです」

「ブラウンさん。お元気でしたか?」

「ええ。ドクターもお元気そうで何よりです。さあ、ナオが待ってます。こちらへ」


ブラウンさんに連れられて、ナオの楽屋に向かった。


ブラウンさんが楽屋の扉をノックするとバタバタと足音が聞こえ、すぐに楽屋の扉が開いた。


「夏海!」


黒のスーツスタイルで、髪はオールバック。

久しぶりに見るピアニストのナオ……が一瞬見えただけで、ナオは私にガバッと抱きつく。


「ナオ」

「夏海、夏海! 会いたかった……会いたかったよ」


ナオの歓迎っぷりは、ゴールデンレトリバーのセトとそっくりだ。


「うん。ねぇ、ちゃんと顔を見せて?」


名残惜しそうながらも腕を弛めてくれたナオ。

ドレスアップしたその姿を、私は一歩後ろに下がって見つめる。


「ナオ……」


ジンときて視界がジワッと滲む。

素敵ね――そう伝えようとしたのに、ナオに再びガバッと抱きしめられた。


「ねぇ、もういいよね?」

「う、うん……。ナオ、右腕の調子――」

「夏海、ずっと離れて過ごしてすごく寂しかったよ」


ずっと、ね。

ギューギュー抱きしめるナオは、私の話を聞くどころではないらしい。


「……2週間離れてただけでしょ?」

「無理。夏海が足りない」


ひたすらギューギュー、ムギューっと抱きしめるナオは、恐らく私をチャージ中だ。


ナオは地方ツアー真っ只中に、一度都内に戻ってわざわざ私に会いに来た。それでも寂しかったらしい。

私も寂しくなかったわけではないけど、と口から出そうになる言葉を飲み込む。

そんなことを言ったら、ナオの愛情表現がヒートアップする予感しかしない。

そんな遠慮をする私をよそに、ナオのストッパーはすでに吹っ飛んでいるらしい。


「夏海、そんなにかわいいなんてどうなってるの? いつも綺麗だけど、今日は特に綺麗だね。黒のワンピース、すごく似合ってる。夏海のためにデザインされたドレスに違いないよ。首回りがレースで透けてセクシー。キスしたい。唇がいつもよりもっとツヤツヤでかわいい。食べたい。爪もツヤツヤでセクシー。かじりたい。やっぱり夏海は最高の女性だね。綺麗でかわいい。会えて嬉しい。夏海大好き~」

「……それはどうも」


よくもそんなに次々と褒め言葉やら愛情表現やらが出るものだわ。

いつもよりビシッとした格好で素敵なのに、やっぱりナオはナオだ。プリプリ揺れる尻尾が見えるような気がして、私の頬も緩む。

……いや、ダメだ。今はツアー最終日の公演前。気を引き締めなくちゃ。

私はゴホンゴホンと咳払いして、キュッと口元を引き締める。


「ナオは、今日の服装なら、もうちょっとキリッとしてたら……そうね、ほかの人と英語で話してる時みたいにしてたら、物凄くかっこいいと思うわ。ちょっと冷たい感じで」

「キリッと……冷たい? えー、じゃあ――」


急に真面目な顔をしたナオの左腕が、私の腰に回る。そしてグイッと引き寄せられ、冷たい目で睨まれながら顎を持ち上げられた。


「夏海、今日はいつもよりもっと綺麗だね。唇ガブッてしていーい?」


今やらなくてもいいのに。

でも普段よりずっと落ち着いた声色に変えて囁かれると、なかなかセクシー……いや、かわいらしい日本語とキリッとした表情がアンバランスだ。

それにしても、日本語でもやればできるんだ。

案外……いや、かなり良――


「ねぇ聞いてる? 夏海はこういうのが好きなの?」


ドキッ。


「べ、別に」

「好きなんだ。ふぅん。夏海が嬉しそうな顔をするから、時々スパイス的に使おうかなぁ」

「使わなくていいわよ」

「ねぇ、唇ガブッてしていい? ツヤツヤで美味しそう」

「ダメよ。リップが落ちちゃうわ」

「俺が塗り直してあげる。だからいいでしょ?」

「で、でも……」

「I want to kiss you. I really missed you. You wanted to see me, didn't you?(キスしたい。本当に会いたかったんだ。あなたは俺に会いたくなかったの?)」


切なげに見つめられれば、私だってノックアウトされちゃうわ……。

すると入口ドアの方から突如咳払いが聞こえた。


「なー、俺まだ居るんだけど」


ブラウンさんが居るのをすっかり忘れていた。

湯気が出そうなほど顔に熱が集まる私に対して、ナオは至って冷静だ。


「アル、黙って出てってくれればいいのに。邪魔しないでよ」

「悪い悪い、立ち去るタイミングを逃したんだ。仲良さそうで何よりだ。今日の演奏、期待できそうだな。ナオ、楽しみにしてるぞ」

「うん」


ブラウンさんは「時間になったらまた声をかける」と言って去って行った。

キスしなくてよかった……。


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