11-02.
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〈sideナオ〉
2月上旬。夏海とのリハビリを始めて2ヶ月が過ぎた。
右腕の回復は少しずつ進み、最近は右手の自由が少しだけ利くようになってきた。それでもまだ指を動かせばビリッと痺れが走る。筋力は弱く、力を入れると痛みが走る状態。
だが機能回復を目指していたリハビリから、筋力トレーニング重視にシフトしていることから、着実に回復していることがわかる。
右手でピアノを弾くことも、拙いながらも少しずつできるようになってきた。
「夏海は本当に俺のビーナスだよね」
ボソッと呟いた俺の言葉は、パソコンに向かって真剣にリハビリ計画を練る夏海には届いていない様子だ。
難しい顔をして考えている医師の顔をした夏海は、それはそれで魅力的なのだが……たぶん今からもっと魅力的な顔を見せてくれる。
「藤本先生、お風呂入ってくるね」
「……うん? あー、うん、いってらっしゃい」
「覗きたかったら覗いてもいいからね。待ってるよ」
「……えっ……バ、バカ! 何言ってるのよ。覗かないから待たなくていい!」
ほらね。顔を赤くして照れながら、ちょっと怒った顔をする夏海は、かわいくてかわいくてかわいくて……俺は自分の内にグッと衝動を抑え込む。
「……――だからね」
「え?」
「何でもないよ。お風呂入ってくるね」
夏海に微笑みを向けてからバスルームに向かった。
俺はバスルームのドアの前に佇み、心の底から湧き上がるような大きな溜息をついた。
「はぁぁ……俺はill-matched(不釣り合い)だからね。きっっついな……」
夏海との関係を先に進めたい。でもそんな資格のない今の自分を嘆く毎日。
先日、シンタニに「すごくすごく我慢して頑張るのを日本語で何ていうの?」と聞いたら、フッと笑いながら教えてくれた。
「苦行」
たぶん夏海との今の関係を察した上での答えだったと思う。
だから俺の毎日はクギョーだ。
湯船に浸かりながらのリハビリを終えると、濡れた髪のままリビングに向かう。すると夏海はテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
(相当疲れてるよな……)
それも当然だ。
俺のリハビリに通うようになってからというもの、非常勤とはいえ、朝7時には大学病院に出勤。夜は19時・20時辺りまで医師として勤務し、仕事明けにここに来てリハビリをしてくれているのだから。
夏海のサポートには頭が下がる思いだ。
こういう時、怪我をしている自分が歯がゆくて仕方がない。抱き上げてベッドに運んであげたいのに、それすら今の俺にはできないのだ。
(ごめんね、夏海……)
夏海の頬にかかる髪をそっと避けると、セクシーな首筋が露わになってドキッとした。
釘付けになる目を、グギギギギっと音が鳴りそうなほど無理矢理背ける。
(俺、よく頑張った……)
「……ん……ナオ?」
「Wow, yes!(うわっ、はい!)」
ビクッと返事をすると、目を覚ました夏海が首を傾げる。
「どうかした?」
「なっ、何でもない」
「そう? 途中で寝ちゃった。早くやらなくちゃ」
欠伸をして目を擦りながらも、再び医師の顔でパソコンに向かう夏海。
夏海はこんなにも尽くしてくれているのに、今の俺にできるのは夏海の指示どおりリハビリをすることだけ。ただそれだけだ……。
夏海のために何もできない情けない自分。
そんな自分への苛立ちと対峙することも、今の俺の日常だ。
翌日夕方、俺はふと閃いた。
そうだ、ハニーミルクティーが大好きな夏海のために、帰ってきたら飲めるように用意しておこう。それぐらいならできる気がする。
夏海がうちでいつも飲む紅茶はある。牛乳もある。蜂蜜は……ない! 買ってこよう!
『今からそっちに行くね』
夜、夏海からメッセージが来た。
よし、ハニーミルクティーの準備だ。
お湯を沸かし、ティーポットを出す。そして丸筒型の紅茶缶を戸棚から取り出す。
次に紅茶缶の蓋を――
「Ugh…it won't open(うわ……開かない)」
左手一本で開封を試みるも、しっかりと密閉されている紅茶缶の蓋。ビクともしない。
「Huh? Why won't open?(えぇぇっ? どうして開かないんだ?)」
モタモタしていると夏海が着いてしまう。
そこで俺はスマホで検索。なるほど、開かないときはスプーンを使えばいいらしい。てこの原理だ。
スプーンを取り出し、蓋の隙間にはめ込む。
ただ片手だと、これも難易度が高い。
押さえるぐらいならいいか、と右手首を紅茶缶上部にどっしりと乗せ、左手でスプーンを握ってグイッ、グイッと蓋を持ち上げる。少し開いたからもうちょっとだ。
「Let's try it again!(よし、もう一回だ!)」
とどめとばかりに蓋にグイッと力をかけた瞬間、スポンと蓋は飛んでいき、右手首を置いていた紅茶缶がバタンと倒れて落下。
「Ow…!(痛っ!)」
右手首をキッチンカウンターにぶつける。
そしてカランカランカラーンと甲高い音を立てて床を跳ね回った紅茶缶は、茶葉を存分にまき散らし、やがてその奔放な動きを止めた。
辺りにこれでもかと散漫する茶葉、広がる嫌みったらしいほどの爽やかな香り。
「…How did this happen? (……どうしてこうなるんだ)」
踏んだり蹴ったりな状況に、俺はその場に座り込んで身を縮める。
こんなことすら上手くできない無能な自分。迷惑をかけるばかりで何も返せない自分。
もう嫌だ……。
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
二度、三度とインターホンが鳴り、俺はようやく立ち上がる。
モニターには、愛おしいけれど今は会いたくない人の顔が映っていた。
「……はい」
『こんばんは』
少し疲れた顔に見える夏海。
俺は深く息を吐き出すと、なるべく平静を装って告げる。
「ごめん。今日は帰ってもらえる?」
『えっ……どうかしたの?』
「ううん、別に」
『別にじゃないでしょ? どうしたの?』
「……」
『でもリハビリはやらなくちゃいけな――』
「今日はやりたくない」
あぁダメだ……。夏海に苛立ちをぶつけるダサい俺、登場。ちっとも隠せなくて情けない……。
夏海は呆れていることだろう。
『やりたくないってどうして?』
「……」
『腕が痛むの?』
「……」
『わかったわ。今日は帰る。でも必ず自分でできるリハビリは進めるのよ?』
「……」
黙り込んでいると、モニター越しの夏海の顔が、柔らかさを潜めて硬い表情に変わる。
『If you don't want to, we can't force you into rehabilitation. But please reconsider the importance of rehabilitation(あなたが望まないのなら、リハビリを強制することはできないわ。でも今一度、リハビリの大切さを考え直して)』
また明日来るわ、と医師の顔で言った夏海はモニターから消えた。
右腕がジンジンと痛い。胃がムカムカする。
俺は再びその場に座り込んで身を縮めた。
散らばった紅茶の香りが部屋中に広がって、まるで俺の無能さを戒められているかのよう。
「…Damn!(クソッ!)」




