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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第十一楽章 ナーバスなリハビリ

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11-01.


12月中旬――


「Ow! It hurts, it hurts! (痛っ! 痛たたたたた!) なっ、夏海……じゃなくてドクター藤本! なんかミシミシゴリゴリ音が鳴ってるよ!」


やめてほしいと懇願するように涙目で見つめるナオ。申し訳なく思いつつも、ここは遠慮するわけにはいかない。

骨折により動かすことのできなかった部分を動かしていくと、部分的に関節が固まっていたり神経に刺激を与えたりする関係で、どうしても電気が走ったような痛みやしびれが生じるのだ。


「多少の違和感と痛みは我慢も必要だけど……あまり痛いようなら、無理は禁物ね。もう少しペースを落とすか、Nerve block injection(神経ブロック注射)もできるわ」

「……ううん、もう少し頑張ってみる」


ちょっと泣きそうな顔ながらも必死にそう答えるナオ。かわいい。


「ナオは頑張り屋さんね」

「子供扱いしないでよ」

「ナオだって私が落ち込んでる時に同じようなこと言ったわよ。私は嬉しかったのに」

「年下でLower rank(格下)の俺は、そういうのにSensitive (センシティブ)なんだよ」

「年下はそうだけど……Lower rankって何なのよ」

「ペット」

「もーう、まだそれ気にしてるの? だから、ナオはペットじゃなくて、リハビリ治療中のピアニストだってば。……はい、じゃあこれで終了ね」


するとナオに左腕でグイッと引き寄せられて、頬にふわりとナオの唇が触れる。


「今日もありがとう、Honey」

「どっ……どういたしまして」


ハニー……。日本人の恋人の口からは通常出てこないタイプの言葉だ。

そんなナオの甘さに、私は相変わらずドキドキしている。


都内に戻ったナオは早速大学病院でのリハビリに通い始め、それ以外に家でもリハビリを始めた。

一方の私は仕事の後、ナオのマンションを頻繁に訪れている。

リハビリで患部に負荷がかかりすぎていないか、無理しすぎていないか、足りていない部分はないかなど、早期回復を目指すのにちょうどいい『負荷の程度』を見極める必要があるのだ。

腕の状態を診て、リハビリの指導をしながら夜を一緒に過ごし、終わり次第自宅に帰る。

そんな毎日だ。


「ナオ、今日は何かヘルプが必要なことはある?」


利き手が不自由なナオは、日常生活でできないことがままあり、私がサポートしている。


「あ……Mail(郵便物)開けてほしいな」

「わかったわ」


小さな郵便物は、片手で開けるのが難しいらしい。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


私は郵便物の宛名を見て、ふとナオに告げる。


「そういえばナオの本名、知っちゃったわね」

「そうだね、バレちゃった」

「『小鳥遊』も素敵だけど、こっちも素敵な名字ねって表札を見た時に思ったのよ。『雅楽』に『川』で……ががくがわ」


そう言うと、ナオは目を点にして、次に、アハハハと笑い出した。


「ずいぶん Heavy sound(重厚な響き)だね。『が』が多い」

「えっ、何か違う?」

「違うっていうか違わないっていうか……でも違うね」


フフフッ、アハハハ、と顔をくしゃくしゃにして笑うナオ。

かわいい笑顔だけれど……笑われる理由がわからなくて腹が立つわ。


「え、何なの? どうしてそんなに笑うの?」

「だって……あれは『ががくがわ』じゃなくて『うたがわ』って読むんだよ」

「……うたがわ?」

「そう。『雅楽』っていう漢字は『うた』とも読むでしょ? だから俺の本名は『雅楽川(うたがわ)尚哉』だよ」

「そっ……そうなんだ……」


『雅楽』を『うた』と読むことを知らなかった。


「あー、もう……夏海ってintelligent(聡明)なのに、わからない漢字があるんだね。夏海を近くに感じるよ」


そんなナオの言葉に、不満が満ちていく。


「……普段の私は遠いってこと?」


ブスッとした顔でナオに問うと、ナオはフッと笑う。


「近くて遠いね」

「どっち?」

「両方だよ。心はいつも俺の近くにいてくれる。でも、リアルは遠いよ」


憂うようにそう言って、ナオは優しいキスをしてからピアノに向かう。

ナオの感覚はナオだけのものだ。それを私が否定することはできない。

だから私は寄り添う。

ナオが少しでも不安に思わないように。


「ナオ、今日は何を弾くの?」


ナオは楽譜を開いて左手を握ったり開いたりして指を動かす。


「今日はね、モーリス・ラヴェルの『Piano Concerto for the Left Hand』……のピアノのところだけ」

「ふぅん……左手のためのピアノコンチェルト? そんなのがあるのね」

「うん。ピアノは左手しか使わないんだ。両手で弾ける時はこの曲を弾こうと思ったことはなかったんだけど、こんな時だから弾いてみようかなって思ったんだよ」


へヘッとかわいらしく笑ったナオは姿勢を整えると、次にグッと表情を引き締めてピアノを弾き始めた。

その瞬間のナオの表情にいつもドキッとさせられる。

一瞬で知らない人になったみたいで少しだけ怖くもあるけれど、そのキリッと引き締まった表情はかっこいい。

ホールで見たナオを思い出す。


暗闇のような重い和音から始まったその曲は、次第に闇から抜けるような穏やかな曲調に変わっていく。まるで怪我から復調していくナオの未来を表しているかのようだ。

左手だけで演奏されているとは思えないほど豊かな音の数々が、淡い光を纏って辺りに舞う。聴いていて音の物足りなさなんて感じさせない。

ナオはピアノが休みのオーケストラだけの演奏部分は小さく音を口ずさみながら弾き進めていく。

ナオの澄んだ声で奏でられるちょっとした口ずさみすら、美しく心地いい。

左手は不自由なく動かせることもあって、久々に曲に入り込んでピアノを弾くナオを見た気がする。

ナオが怪我に、そして今の状況にしっかりと向き合ってくれていることが何よりも嬉しかった。


一緒にリハビリをするようになって、ナオに言われた。


「夏海と一緒にいるようになってから、ピアノがこっちを向いてくれるようになったんだ。もしかして、夏海を遠ざけるなってピアノが怒ってたのかな」


それを思い出して私は思う。

私が近くにいるからではない。ナオが怪我を受け入れられるようになったからだ。

怪我を抱えたナオは、どこか諦めの気持ちやピアノに対する後ろ向きな気持ちがあった。

それがなくなって、ナオ自身がピアノと真っ直ぐ向き合えるようになったのだろう。

まだ思うようには弾けなくて、辛いには辛いのだろうけど……「弾けるようになるまでもう少し待っててね」とピアノに向かって微笑んだナオの表情が印象的だった。


「ふぅ……弾けた」


へへへ、とかわいらしく笑うナオに、私は惜しみない拍手を送る。


「素敵だわ。左手だけでもこんなに弾けるのね。さすが一流のピアニスト……ううん、超一流のピアニストだわ」

「Oh, you're good at giving compliments(もう、褒め上手だな)」

「本当のことよ。『小鳥遊尚哉は、人一倍ピアノや楽曲と融合するタイプの演奏家だ』って聞いたもの。本当にそのとおりね」


ナオってすごいわ、と賞賛する間にも、ナオの顔がどんどん曇っていく。


「……それって誰に聞いたの?」

「えっ? あー……」

「へーえ。さすが弘臣さんだね。俺には『ユーゴーするタイプ』とか難しくて意味わかんない。それとも『You go (よくやった)』かな? 弘臣さんに褒められても嬉しくないんだよ」


顔を背けてプクーっと頬を膨らませるナオ。

弘臣の言葉だとわかったナオの鋭さに脱帽。そして機嫌を損ねてしまったらしい。

弘臣の言葉を用いたのは失敗だった。

でもただ単にぴったりの言葉だから伝えただけだったのに。

ナオには好きだと気持ちを伝えたけれど、未だ弘臣に対するライバル心は健在なようだ。

困った人ね、と思いつつ、私の頬は緩む。


「ナオ、ピアノ弾き終わったの?」

「うん」

「じゃあ……尚哉先生、レッスンお願いしまーす」


そう告げると、ナオがちょっと照れた顔をするのは、『尚哉』と名前で呼んだからだろう。


「うん。夏海、こっち来て?」


私はナオの家に通うようになってから、少しずつピアノを弾くようになった。ナオと一緒にピアノに向き合いたかったから。そして、ナオと一緒にピアノを楽しみたかったから。

まだまだ超初心者だけれど、『尚哉先生』が丁寧にレッスンしてくれるおかげで、いつも楽しんで弾いている。

私がナオの右隣に座ると、ナオはぴったりとくっ付いて、頬や目元、そして唇に、じゃれ合うみたいにたくさんキスをする。

そうやって尚哉先生のピアノレッスンは、なかなか始まらないのが恒例だ。


「尚哉先生、まだレッスン始めないんですか?」

「夏海が『尚哉』って呼ぶからキスしてるんだよ。キスしていいサインでしょ? I love you today and every day(今日も、そして毎日好きだよ)」


ナオはいつも、息を吐くように愛の言葉を口にする。


「……なっ、尚哉『先生』って呼んだのに」

「照れてる夏海もかわいい。これ、眉毛下がってるのがかわいくて好き」


私の眉を、ナオの細い指がそっとたどる。


「もうっ、早くピアノを教えて」

「はーい」


そして私は、この甘さにいつまでも慣れない。


ナオの右腕は左腕と比べて細く、まだまだ痛々しい傷跡が目立つ状態。

私はそれを見る度に涙が込み上げた。

ピアニストにとって命の次に大切な、右腕に負った大怪我。

私は光を取り戻すべく、日々奔走している。

今日の状態から判断して、翌日にナオが家で行うべき詳細なリハビリ計画の小さな修正を行う。

ナオが一人でもできるメニューと、夜、私が一緒に行うメニューを組んで、無理なく、よりスピーディーな機能回復を目指している。

リハビリ後はその結果を細かくデータに残していく。

地道だけれど、1ヶ月後、2ヶ月後、更にその先の変化を知るためには重要なのだ。

私は絶対に諦めない。

ナオの腕を治し、そしてピアニストとして再び大きな舞台に立つ彼を見たい。

ナオを光輝く世界に戻したい。

必ず。必ず……。


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