01-07.
今朝、失恋に押しつぶされそうな気持ちで、救いを求めるように滞在先のホテルを出た結果が、昼間に見知らぬ人たちに出会い……夜、なぜか自分のいる場所は見知らぬジャズバーだ。
かつて通っていた大学からそう遠くない場所。
でもジャズというものに全く興味がなかっただけに、学生時代からこんなバーがあったのかどうなのかもわからない。
店内は暗めの照明になっていて、シックでアダルトなブラウンの内装が心地いい雰囲気を醸し出している。
大勢の客がいて盛況なようだ。
幾グループかのジャズバンドがステージでの演奏を進める中、私はカウンター席に座り、グラスビールをちびちびと飲みながら過ごしていた。
バーに一人でいるなんて初めてのことで、場違いではないか気になってソワソワと落ち着かない。
演奏を聴いていると、曲の途中で時折客から拍手が湧き起こる。
ジャズの常識が全然わからなくて、私はちょっと遅れたタイミングながらも見様見真似で拍手をする。
それにしてもビールというものを久しぶりに飲んだから忘れていたけれど、とにかく苦い。苦すぎて眉間がピクピクと引きつる。
それになかなか同行したメンバーたちが出てこない。
遅いなぁ、と待ちくたびれて密かに欠伸をしていると、店内で進行をしているスタッフがマイクを通して告げる。
「皆様、お待たせ致しました。本日もトリを飾るのは我らがミキ。どうぞお楽しみください」
そして大きな歓声と共にようやく同行した面々が、ライトに照らされたステージに上がるのが見えた。
(ん? 『我らがミキ』って言った? ミキさんって、このバーで名の知れた人なのかしら。それともジャズ界で名の知れた人?)
よくわからなくて目をぱちくりさせて見つめる。
そして妙な注目を浴びているのはやはり白馬君だ。
頭だけ白馬の被り物姿の珍妙な格好。
おかげで客席もざわめく。
(……っていうか、あのままピアノを弾くの?)
視界がどの程度あるのかわからないけれど、物凄く弾きにくそうだ。
大丈夫なのだろうか。
そんな心配をしている間にも、独特なジャズのテンポに乗ってゆったりと演奏が始まる。
知らない曲ではあるけれど、心地よいノリとビールによる酔いとが合わさって、ふわふわと揺らめく世界にいるかのような感覚に浸った。
(素敵……)
すると演奏中の白馬君の顔が急にこちらを向く。
そうは言っても被り物をしているから、目が合っているのかなんてわからない。
でも、その見た目に笑いつつ『素敵よ』という意味を込めて、親指を上に向けてサムズアップを返すと、白馬君の顔は元のピアノの方に戻った。
(伝わった? それにしても……どうしてこっちを見ていたのかしら)
曲が進むと、ミキさんによるサックスのソロパートが始まり、演奏中に大きな歓声や拍手が上がる。
よくわからないまま、私も周りに合わせたタイミングで拍手。ジャズというのは独特な世界観だ。
そしてこのソロパート、ミキさんも非常に楽しそうに演奏しているように見える。
伸び伸びと思いのままに、という感じだ。
(いいわね……これだけ吹ければ楽しいでしょうね。それにサックスっていい音)
照明を反射してキラリと煌めくサックスの、金のボディが美しい。
時折芯のあるビリッとした音を交えた、ふんわりと包まれるような音。
物凄くかっこいい。
音楽に詳しくないからミキさんが奏者としてどのくらい上手な人なのかはわからないけれど、聞いていてとても心地よかった。
すると明るく元気な音が空気をがらりと変えるように店内に響く。
トランペットのタカノ君のソロが始まったのだ。
(楽器の音にも性格が出るのかしら……)
話している時のタカノ君の明るい印象と近い感覚だ。
続けてマサヤ君のトロンボーンのソロが始まる。
(何これ……みんなソロ演奏があるの?)
次々とメンバーが順番にソロで演奏していく。
そしてトロンボーンとは不思議な楽器だ。
手でパイプみたいなものをスライドさせて音を調整するため、パフォーマンスはとても派手。
でも音は滑らかで優しげだ。
上手かどうかなんてわからないけれど、とにかく皆楽しげで、聴いている側まで楽しくなる。
そんな演奏だった。
そして店内の客は大盛り上がりで、ステージ上の彼らは光り輝く世界にいた。
『音楽を聴く時にはな、そういう無意識の感覚も大事なんだ』
(あぁ、そういえばそんなことを彼が言っていたわね……)
そう思ってハッとする。
これ以上思い出すと、泥沼に真っ逆さまだ。
(嫌……考えたくない……思い出したくない……ッ……)
そういう思いに反して、止めようもなく過去の記憶が次々と頭に浮かび上がる。
彼と出会い、彼と過ごした日々。
楽しい出来事、幸せな時間。
心から愛する気持ち。
もっと愛されたい欲望。
愛を拒絶された瞬間の激しい心の痛み。
どんなに想っても、報われない悲しみ。
それでも食い入るように見つめ続けた彼の横顔。
頭の中で何度もリピートした彼の声も、指先も、髪の毛先までもが鮮明に思い出せるのに――
(彼は、別の人を選んだのよ……。もう私の隣に寄り添ってくれることはない……。そうよ……今度こそ、本当にもう……終わったんだ……)
初めてそう実感が湧くと、目の前が灰色のベールで覆われたように暗くなる。
私は両手で顔を覆う。
歯がギリギリ鳴るほど食いしばっていないと、抑えきれずに涙が零れてしまいそうだった。
視界も、心も、体も、深い闇の奥底まで沈んでいくかのよう。
重い闇が、私を覆い尽くしていく。
息の仕方すら忘れてしまいそうなほど、深く、深く、沈み込んでいく。
こんな苦しい思いなんて、さっさと捨て去ってしまえたらどんなに楽だろう。
こんな胸が押し潰されそうな思いはもうたくさん。
こんな思いは二度と……。
――その刹那、ポーンと丸い一粒の音が、闇を切り裂くように私の心に向かって真っ直ぐ飛び込んできた。
私はハッと息を吞んでステージに目を向ける。
ピアノの音だ。
その一音は、闇に覆われる心の中をパッと照らすように眩く光った。
キラキラと輝き、そして温かく、私の心の中で光り続けた。




