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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第十楽章 逃げない、逃がさない

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10-04.


「ナオはどうしてここに来てくれたの?」

「ああ……これのお礼を言いたくて来たんだ」


そう言ってポケットから取り出したのは、昨日、私が比奈森神社で奉納した絵馬だった。


「あ……」

「昨日、義父(とう)さんに神社へ呼ばれたんだ。『これはお前のことじゃないのか?』って。絵馬を見て、夏海がここに来てるって知った」


絵馬が繋いでくれた運命。それを私は途切れさせまいと必死に手繰り寄せる。


「御利益がなくなったら困るから、もう一回奉納しなくちゃね」

「俺がやっておくから心配しなくていいよ」

「ううん、私が行く」


そう言うと、ナオは少しだけ表情を硬くしてからニコッと笑った。


「ダメだよ。夏海とは、ここでサヨナラだから。言ったでしょ? お礼だけ言いに来たんだ」


優しい笑顔なのに、また遠ざけるようなことを言われた。喉がグッと詰まって声が出しにくい。

それでも私はどうしても聞きたかった。


「ナオは……そんなに私に会いたくなかったの?」

「……うん」


答えは予想できていたのに、はっきり口にされると胸にグサッときた。ストレートな返事は、私の心をごっそりと抉る。

でも逃げないって決めた。怖くても、苦しくても、私はそこで足を踏ん張り続ける。

ナオが私との間に強固な壁を築こうとするなら、私は金槌でも斧でも重機でも使って、その壁を壊す。

自分の力で、運命を手繰り寄せる。

そう決めたんだ。


ブラウンさんの言葉を信じるなら――


「ふぅん……会いたくなかったってことは、私のことが嫌いになったのね」


きっとこう言えばナオには効き目があるはず。

強気な態度ながらも、内心は不安と緊張でドキドキだ。

するとナオの表情に焦りが浮かんだ。


「えっ、違うよ。そうじゃないんだ……」


少し揺らいだ? ねぇ、もっと見せてよ、ナオ。グラグラに揺らぐ、あなたを見せて?


「じゃあ、私じゃなくて、ほかの人にそばにいてもらいたくなったんだ?」

「違う!」


もっと見たい。あなたの迷いも苦しみも私に見せて?


「じゃあ何?」

「それは――……」


言葉に詰まって黙ってしまったナオを、私は真っ直ぐ見つめる。

全部話してほしい。私が全部受け止めるから。

するとナオは首を横に振って、苦しげに表情を歪ませた。


「もう俺、帰るね。一緒にいたくない」


胸に突き刺さるような拒絶の言葉に、キュッと喉が締まるのを感じる。

でもここで引けない。

オブラートに包まれない日本語は、ナオが日本語を苦手としているからだ。私を嫌っているわけではない……。

必死に自分に言い聞かせると、私は喉をこじ開けるようにして次の言葉を発した。


「どうして私と一緒にいたくないの?」

「それは……一緒にいても、夏海が俺をすごく嫌いになるだけだから」

「ならないわ」


そうはっきり答えると、ナオは寂しげな表情をクシャッと崩した。


「そんなのわからないだろ……。俺のことを何も知らないから、そん……な――……ッ、あーっ! Damn!(クソッ!)」


言いたいことを言えずに言葉を止めるナオは、行き場のない気持ちに苦しんでるように見える。

その苦しみを僅かでも私に分けてほしい。

ナオも逃げないで、こっちを見て。

あなたがずっと望んできた『本当に欲しいもの』を、私があげるから。

でもどうしても逃げたいというのなら――


「そうね。私、ナオのことを全然知らない」

「……そうだよ」

「だから、嫌いになるのも簡単ね」

「……え?」


――私が逃げ場を塞いであげる。


「話してくれないなら、今すぐナオのことを嫌いになるわ。簡単なことね」


そう告げると、ナオの綺麗な顔が悲痛に歪む。


「……俺を……嫌……う……?」

「そうよ。ちゃんと話をしてくれない人なんて、私は大嫌いだもの。このまま嫌っていいなら何も話さなくてもいいわ。その代わり……もう一生会ってあげない」


ツンとした態度で顔を背ける私は、一体何様なのだろう。でもナオの高い壁を突破するには、少々の演技と荒療治が必要なのだ。だからナオが恐れる言葉を、あえて使ったのだ。

チラリと横目でナオを見ると、ナオは虚を突かれたような顔をしていた。


「夏海……? それって少し嫌いになるってこと? それともたくさん?」

「もちろんたくさんよ。『大嫌い』って言ったでしょ? ものすごーく嫌いになるわ。この場で永遠のさようならよ」


どう考えてもそんなことにはならないけれど、唇をキュッと結んで眉尻を下げるナオの様子からして、思った以上に効果があるようだ。


「……何だよそれ。逃げるところがないよ」


ナオはハァッと深く息を吐いてガックリと肩を落とした。

逃がすわけがないでしょ? ここにたどり着くまでに私がどんな気持ちでいたと思ってるのよ。

私はようやくスタート地点に立つことができた。

ナオの話を聞く、スタート地点に。


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